第百三十八話 呼びやすい言葉ほど、一人に見えます
朝から薄く広がっていた雲は、昼へ近づくにつれて少しずつ切れ始めていた。管理室の窓から差し込む光も昨日より明るく、机の端へ置かれた書類の影がゆっくり形を変えている。
ノルンはいつも通り現在側の観測記録から確認を始めたが、夜間から朝にかけて新しい通知対象事象は発生していなかった。三件の低強度識別不能反応について評価を変更する情報はなく、閾値未満の追加変動も記録されていない。観測密度を上げる理由もなかったため、必要な確認を終えると画面を通常業務へ切り替えた。
「今日も増えてない?」
主様が自分の席から尋ねた。
「はい。現在側については変更ありません」
「じゃあ今日は呼び方の資料だね」
「通常業務の後です」
「もうそこまでが挨拶みたいになってきたね」
主様が楽しそうに笑ったので、ノルンは返事の代わりに朝の記録一覧を開いた。
◇
午前の記録で最初に目に留まったのは、ミレイアの外出準備だった。
三日後に予定されている針糸店フィルネへの外出へ向け、作った袋と練習用の紐を持参することが正式に記録されている。エリスと一緒に店頭で太さや手触りを確認し、色については実物を見てから決める予定だった。
『本人、濃緑と茶を候補としているが、「見たら違うのがいいかもしれない」と発言。購入色は未決定。』
ノルンはその一文を読み、すぐに記録を閉じなかった。
以前の候補は濃緑か茶色だった。それでも店へ行って別の色が気に入れば変えてよいと、ミレイア自身が自然に考えている。
決めていた候補を変えることに、特別な理由はいらない。
「何見てるの?」
近くを通りかかった主様が足を止めた。
「ミレイアさんの紐です。色は店頭で変更する可能性があるそうです」
「それだけ?」
「それだけです」
「その言い方だと、僕が何か深い意味を探すと思ってない?」
「少し」
「信用ないなあ」
「これまでの実績です」
主様は不満そうな顔をしながらも笑っていた。
ミレイアの接続状態に変更はない。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
フィルネへ紐を買いに行くことは、この状態を変えない。濃緑を選んでも茶色を選んでも、別の色を選んでも同じである。
ノルンは外出予定だけを確認して次へ進んだ。
◇
フローラの記録には、マリーとの短い会話が残されていた。
前日に「覚えていたら甘いものが好きか聞く」と話していたが、今日は偶然マリーから別件の連絡があり、そのやり取りの最後で実際に尋ねたらしい。
『本人、「そういえば、甘いものって好き?」と質問。マリー、「好きだけど、甘すぎるのはちょっと苦手」と回答。本人、「じゃあ焼いた果物くらい?」と確認。マリー、「あれくらい好き」と返答。』
会話はそこで終わっている。
次の外出予定は決まっていない。
菓子店へ行く約束もない。
フローラは職員へ、
『今度何か食べるなら覚えとく』
と話しただけだった。
「ちゃんと聞いたんだ」
主様が記録を見て言った。
「はい。ただし、次の予定が決まったわけではありません」
「分かってるって」
「念のためです」
「最近、僕まで管理されてない?」
「主様は管理対象ではありません」
「言い方がちょっと怖い」
ノルンは笑いながら画面を閉じた。
マリーとの関係は、急いで何かへ変える必要がない。
友人の好みを知った。
次に一緒に何か食べる機会があれば思い出すかもしれない。
その程度の積み重ねが、今のフローラにはよく似合っていた。
◇
通常業務を終えた頃には、窓の外に青空が見え始めていた。
ノルンは歴史資料の一覧を開き、昨日から未読のまま残していた文書を選択する。
『長期特徴追跡群に対する識別呼称導入検討』
概要には昨日確認した通り、
『複数の長期特徴追跡群について、口頭引継ぎ・紙媒体・旧端末・部門間照会における識別性向上を目的として、安定した呼称を付与する案を検討する。呼称は主体名・個体名・固有名を意味しない。』
と書かれていた。
主様が隣の椅子を引き寄せる。
「今日は本当に名前っぽい話?」
「識別呼称の話です」
「呼称って名前じゃないの?」
「そこを区別するための資料だと思います」
「最初から難しい」
「だから読んで確認します」
◇
文書の冒頭では、なぜ既存の識別子だけでは不十分だったのかが説明されていた。
長期特徴追跡群はR-1、R-2、R-3といった記号で管理されている。
正式文書や新型端末では問題が少ない。
しかし、口頭引き継ぎでは、
『アール・ナナ』
『アール七』
『七番アール』
と複数の読み方が生じていた。
さらに旧式端末では文字種制限があり、『R7』と表示される場合もある。
手書き資料では、筆跡によってRと別の記号が区別しにくい。
音声連絡では、R-2とR-7の聞き間違いも発生した。
「単純に仕事しづらいんだ」
「そうですね。存在を分類したいからではなく、まず記録を間違えず指定したいという問題です」
実際の誤照会例も載っていた。
安全部門から記録部門へ『R-2の直近半年分』を依頼したところ、口頭伝達でR-7と誤認され、別資料が準備された。
途中で内容が合わないことに気づき、使用前に修正されている。
別の例では、紙媒体に『R1』と書かれた文字が『RI』と読まれ、検索不能になった。
「これは呼びやすくしたくなるね」
「はい。特に緊急時には、毎回正式名称を全部読み上げるのも難しいでしょう」
◇
最初に提案されたのは、番号を音へ置き換える方式だった。
R-1には『アサ』。
R-2には『ベル』。
R-3には『シオ』。
意味を持たない短い二音または三音を割り当て、口頭連絡で使う。
R-7にも候補が設定されていた。
『R-7:ネル』
ノルンはその文字を見て、無意識に少し姿勢を正した。
「ネル?」
主様も読み上げた。
「候補呼称ですね」
「何か意味あるの?」
「確認します」
候補選定規則には、
『既知人物名、地名、施設名、分類名、既知音声様変動候補との近似を避ける。』
『意味語を避ける。』
『二群間で聞き分けやすい音構造とする。』
『呼称自体に順位・性質・由来を含めない。』
とある。
つまり『ネル』に意味はない。
R-7の特徴から作った呼称でもない。
外在反応から聞こえた音でもない。
人名でもない。
「完全に管理側が作った言葉なんだ」
「はい。この案の段階ではそうです」
「じゃあ外から来た名前じゃない」
「違います」
ノルンは明確に答えた。
◇
試験では、九つの追跡群へそれぞれ短い識別呼称を割り当て、口頭伝達の正確性を比較している。
R番号のみの場合、聞き返しや誤照会が一定数発生した。
短い呼称を使った場合、それらは大きく減少した。
特に雑音の多い場所や複数番号を連続して伝える場面では効果が高い。
実務上は成功だった。
ところが、別の理解調査で問題が見つかった。
参加者へ、
『ネルの直近記録を確認してください』
と指示した後、
『ネルとは何ですか』
と尋ねる。
二十四人中十一人は、
『R-7という追跡群の口頭識別呼称』
と正しく回答した。
六人は、
『R-7で追跡している発生源候補の呼び名』
と回答。
四人は、
『外在側の対象に付けた仮称』
と答えた。
二人は、
『外在存在の名前か管理名』
と回答。
一人は不明とした。
「半分以上、何かいるみたいに読んでる」
「正確には十三人が追跡群そのもの以外へ結びつけていますね」
「番号よりひどくない?」
「伝達精度は上がっています。概念理解は下がっています」
主様が困ったように眉を寄せた。
「仕事はしやすくなるのに、意味は間違えやすくなる」
「その評価が資料にもあります」
◇
自由記述には、誤解した理由が残されていた。
『番号なら記録番号に見えるが、呼び名があると何か一つの対象がいるように感じる。』
『「ネルについて確認」と言われると、人か対象物のように聞こえる。』
『短い音なので仮名だと思った。』
『発生源が未確定でも、便宜上名前を付けたのだと思った。』
『呼称という言葉から対象名だと思った。』
ノルンは最後まで読み、ゆっくり息を吐いた。
「記号だった時点でも一つの存在みたいに見える問題があったのに、読める言葉にするともっと強くなったんですね」
「ネルって呼びやすいもん」
「そうですね」
「『R-7が出た』より『ネルが出た』の方が誰か来た感じする」
「まさにその問題でしょう」
人は言葉を主語にする。
『R-7関連反応が観測された』
なら、R-7が管理記号であることを意識しやすい。
しかし、
『ネルがまた出た』
と言えば、『ネル』という何かが行動したように聞こえる。
呼びやすくしただけなのに、文法の中で主体になりやすくなる。
◇
試験担当者はそこで呼称の運用規則を変更した。
『識別呼称を単独主語として使用しない。』
『「ネルが反応した」ではなく、「R-7関連記録に該当する反応候補を検出」とする。』
『口頭伝達では「R-7、識別呼称ネル」と初回のみ併記する。』
『識別呼称は検索補助・聞き分け補助に限定する。』
『人物代名詞、対象代名詞と組み合わせない。』
さらに、
『彼/彼女/その者/相手/本人』
といった語を識別呼称へ対応させないよう明記された。
「かなり細かい」
「それだけ自然に人のような扱いへ移るのでしょう」
「『ネルがまた来た』も駄目?」
「禁止例にあります」
実際、その少し下に、
『× ネルが再び観測された。』
『○ R-7参照対象となり得る反応記録が追加された。』
という例があった。
主様が後者を見て、少し顔をしかめる。
「正しいけど長い」
「そうですね」
「毎回これ言うの?」
「だから現場で短縮される問題が出るのでしょう」
◇
改訂試験では、識別呼称を単独で使わず、
『R-7/ネル』
のように必ず記号と併記した。
概念誤読は減った。
しかし、口頭伝達時間は番号だけの方式より長くなり、緊急時の聞き返し削減効果も最初の試験ほど大きくない。
さらに、旧端末の一部では区切り記号が表示できず、
『R7 NEL』
と並ぶ。
これを見た利用者の一部が、
『R7という対象の名称がNEL』
と理解した。
「また一人に見える」
「はい」
別案として、
『追跡群R-7・音声識別符号NEL』
と表示する案も試された。
こちらは誤読が減ったが、今度は『音声識別符号』という言葉が、外在反応から得られた音声情報だと誤解される事例が出た。
「管理側が言うための音なのに、向こうから聞こえた音みたいになった?」
「そうです」
「呼び方難しすぎない?」
「人間が言葉を使って管理している以上、完全には避けられないのでしょうね」
◇
そこで候補語は、
『口頭照合符号』
へ変更された。
外在反応そのものの音ではなく、職員同士が照合するための符号であることを明示する。
『長期特徴追跡群R-7/口頭照合符号NEL』
試験では概念理解が大きく改善した。
ただし、呼称の読みは引き続き『ネル』である。
ノルンはここで文書の版履歴を確認した。
第一版では『識別呼称』。
第二版では『音声識別符号』。
第三版で『口頭照合符号』。
同じ『ネル』という音を使いながら、その意味を説明する上位語だけが変化している。
「これ、後から『ネル』だけ残ったら危ないね」
主様が言った。
「はい。上位語が消えれば、何のための呼称だったか分からなくなります」
「でもネル自体は同じ」
「そこも重要ですね」
言葉の音は変わらない。
意味を限定する説明だけが変わる。
長い年月の中で説明部分が省略されれば、短い呼称だけが独立して残る可能性がある。
◇
文書には、さらに興味深い試験があった。
異なる部門へ、同じ引き継ぎ文を渡す。
『R-7/口頭照合符号NELについて、過去一年の関連記録を確認。』
研究部門では、ほぼ全員が追跡群への検索補助と理解した。
記録部門も大半が正しく理解した。
安全部門では一部が『緊急時に対象を特定するための符号』と回答。
生活支援部門では、
『将来接触した際に相手を区別する仮称』
と読む者がいた。
教育部門では、
『正式名称不明の外在側対象へ付けた教育上の呼称』
という回答が二件あった。
「同じ文でも、仕事で変わるんだ」
「昨日の『対象』と同じですね」
生活支援では、管理記録の向こうに将来接触する相手を想定しやすい。
安全部門では、危険評価の対象を識別するものとして読む。
教育部門では、説明のための仮名と受け取りやすい。
研究部門では比較群の符号として読む。
どれも職務経験から生まれた自然な解釈だった。
だから、誤読者を注意するだけでは解決しない。
◇
対策として、部門間文書では口頭照合符号そのものを使用しない方針が提案された。
口頭での緊急照合に限定する。
正式文書ではR番号と種別名を使う。
教育資料には載せない。
生活支援画面にも表示しない。
検索画面では入力可能だが、結果表示には正式名称だけを出す。
「かなり狭くした」
「はい。便利さより誤解防止を優先したようです」
「ネル、消えちゃう?」
「正式表示からはほぼ消えます。ただし、検索別名と口頭照合用として残ります」
その一文を見た瞬間、ノルンは以前確認した『名称様音列』の経緯を思い出した。
正式分類ではない。
検索のために残された別名。
後に旧式索引の不具合で正式項目のように表示された。
仕組みは同じではない。
時期も目的も違う。
けれど、正式表示から外した言葉が検索経路に残るという構造だけは似ている。
(残すことと、使うことも別なんですね)
検索できるよう残す。
古い資料から辿れるよう残す。
それは正式な意味を維持することとは違う。
◇
R-7以外の追跡群にも口頭照合符号が設定されていたが、ノルンはすべてを記録する必要はないと判断した。
今回重要なのは、R-7へ『ネル』という呼称候補が付いたことそのものではなく、その言葉が管理側で作られた便宜的な符号であり、主体名・個体名・固有名ではないと繰り返し明記されている点だった。
さらに、外在側から観測された音列とも無関係である。
既知音声様変動との近似を避けることが選定条件に入っている以上、少なくとも設定時点では過去の『ナ』『ア』『レ』『ラ』『エ』などから作られたものではない。
「じゃあネルは、後の名前の欠片とかじゃない」
「現時点の証拠では違います。管理側が作った口頭照合符号です」
「これも後で何かに混ざる可能性は?」
「可能性だけなら何でも言えますが、証拠がないので保留です」
「ノルンらしい」
主様は笑ったが、ノルンは真面目に画面を見続けた。
後世の記録には、管理側の用語と外在反応由来の表現が混ざって見える箇所がある。
だからこそ、由来を一つずつ残しておかなければならない。
◇
文書の後半では、呼称を付けることによる『主体化効果』という言葉が使われていた。
『非主体的な管理単位に発音可能な固有呼称を与えると、利用者が文法上・認知上の主体として扱う頻度が上昇する。』
試験では、同じ内容を二種類の文章で提示している。
『R-7関連反応の追加を確認した。』
と、
『ネルの新しい反応を確認した。』
後者を読んだ参加者は、その後の質問で『ネルは何をしているか』『ネルは何を求めているか』といった主体前提の問いを自然だと評価する割合が高かった。
一方、前者では『R-7は何を求めているか』という問いに違和感を示す者が多い。
「言い方だけで変わるんだ」
「はい。観測データは同じです」
「名前があると気持ちまでありそうに見える?」
「その傾向が出ています」
ノルンは『主体化効果』という語を記録へ追加した。
これは外在反応に本当に主体が存在するかという話ではない。
人間側が、管理単位をどのように認識するかという話である。
◇
そしてR-7について、試験担当者は特に強い注意を付けていた。
『R-7は第一接続者関連資料、REF-7関連記録、SET-η選択歴、発生源モデル比較等との参照頻度が高く、既に単一対象化の誤読リスクが他群より高い。発音可能な固有呼称の恒常使用は推奨しない。』
『口頭照合符号NELを、第一接続者の相手、REF-7の発生主体、SET-ηの共通発生源、R-7の単一個体等の名称として扱わない。』
『NELと過去の音声様変動候補を結合しない。』
ノルンの視線が最後の一文で止まった。
「わざわざ音声様変動と結合しないって書いてある」
「誰かやったのかな?」
「そうとは限りません。事前に予想された危険かもしれません」
版履歴を調べると、その注意書きは初版から存在していた。
つまり、少なくともこの文書だけでは、実際に誰かが『ネル』と過去の音列を結びつけた証拠にはならない。
「先回りだったんだ」
「そうですね」
「じゃあ事件があった証拠じゃない」
「はい」
◇
最終的な結論は、全面導入ではなかった。
『発音可能な識別呼称の正式導入は見送り。』
『緊急時・低品質音声回線等で番号誤認の危険が高い場合に限り、口頭照合符号として限定使用可。』
『正式記録・教育・生活支援表示・対外説明には使用しない。』
『検索別名として保持する場合、必ず管理側付与符号であることをメタデータへ記録する。』
R-7のNELも、正式名称にはならなかった。
長期特徴追跡群R-7という正式な管理名が維持される。
「また採用されなかった」
「便利ではあったようですが、誤解の方が大きかったのでしょう」
「でも消してない」
「緊急時の聞き分けと検索用に残っています」
「こういうの多いね」
「長期記録では、完全に消すことにも問題がありますから」
古い記録を検索できなくなる。
過去の引き継ぎ資料と対応できなくなる。
誰かが古い呼称を覚えている場合、現在の正式用語へ辿れなくなる。
だから残す。
しかし、残った言葉は後の人間から見れば、かつて正式だったようにも見える。
保存は必要であり、保存そのものが新しい誤読経路にもなり得る。
◇
昼食を挟んだ後、セレナが試験結果を持って管理室へやって来た。
昨日追加した、
『内容変更あり』
『内容変更なし・確認時刻更新』
という二種類の表示について、少人数で確認した結果だった。
「前よりはいい。でも一人だけ、『内容変更なし』を見た時点で詳細を飛ばした」
セレナはノルンの机の向かいへ座ると、結果一覧を開いた。
「飛ばしたことで判断を誤りましたか?」
「ううん。今回の課題では問題なし。質問したら、『変わってないなら前に読んだ内容で判断できると思った』って」
「前回内容を正しく覚えていましたか?」
「覚えてた」
「では、その行動自体を誤りとはできませんね」
「そうなんだよね」
セレナは頬杖をつきかけて、途中で姿勢を戻した。
「最初は、全部見てほしかった。でも今は、全部見せることより、必要なところを見落とさない方が大事だと思ってる」
「今回、その方は必要な情報を見落としましたか?」
「見落としてない」
「でしたら、現時点では問題なしでよいのでは?」
「うん。ただ、前回内容を間違って覚えてたら危ない」
「それは表示だけでは解決できませんね」
セレナは少し考えた後、試験記録へ何かを書き込んだ。
「じゃあ次は、前回内容を完全には覚えてない条件も入れてみる」
「よいと思います。ただし、試験を複雑にしすぎないようにしてください」
「分かってる。……たぶん」
最後だけ声が小さくなったため、ノルンは笑った。
◇
セレナが帰った後、ノルンは歴史資料の記録をまとめた。
『「長期特徴追跡群に対する識別呼称導入検討」を確認。目的は主体・個体・固有名の付与ではなく、R番号の口頭誤認、旧端末表示、紙媒体、部門間照会における識別性改善。』
『初期案として発音可能な短い識別呼称を設定。R-7候補は「ネル/NEL」。これは管理側が任意に設定した便宜的呼称であり、外在反応由来の音列、人名、主体名、個体名、固有名ではない。既知音声様変動候補との近似を避ける規則に基づく。』
『発音可能呼称により伝達精度は向上したが、利用者が追跡群ではなく発生源候補・外在対象・仮名・名前として理解する割合が増加。文法上の主語として扱われることで「主体化効果」が確認された。』
『「ネルが反応した」「ネルがまた来た」等の主体化表現を禁止。呼称単独使用を避け、R-7との併記、検索補助・聞き分け補助への限定を試行。』
『上位語は「識別呼称」→「音声識別符号」→「口頭照合符号」と変更。「音声識別符号」は外在側から得た音声情報と誤解されるため廃止。』
『最終的に発音可能な識別呼称の正式導入は見送り。NELは緊急時等の口頭照合符号および検索別名として限定保持。正式記録・教育・生活支援表示・対外説明には使用しない。』
『R-7は既に第一接続者関連資料、REF-7、SET-η、発生源モデル等との参照頻度が高く、単一対象化の誤読リスクが高いため、恒常的な固有呼称使用を特に非推奨。』
『NELを第一接続者の相手、REF-7の主体、SET-ηの共通発生源、R-7の単一個体とみなす根拠なし。NELと過去の音声様変動候補を結合しない。注意規定は初版から存在し、実際の誤結合事例の証拠ではない。』
『正式導入されなかった呼称でも検索・照合上残存するため、後世には由来説明が失われ、対象名のように見える可能性がある。ただし現時点で後世の「第七外在個体」との直接的経路は未確認。』
◇
記録を保存すると、次の未読資料が一覧の上部へ移動した。
『外在反応個体継続性評価・試行基準』
作成時期は数か月後。
概要には、
『主体仮説を比較対象として保持する反応群について、複数時期の記録を同一個体由来として評価することが許容される条件を試行的に整理する。個体存在の確認を前提としない。』
とある。
「とうとう個体だ」
主様が画面を見て言った。
「評価条件の試行です。個体認定ではありません」
「もう先に言われると思った」
「昨日から何度も同じところで先走っていますから」
「でも少しずつ近づいてるよね?」
ノルンはすぐには答えなかった。
管理上の追跡群。
発生源モデル。
主体仮説。
識別呼称。
そして個体継続性評価。
言葉だけを並べれば、確かに一人の存在へ近づいているように見える。
しかし、それぞれの資料は、むしろ一つ前の段階を次へ自動的につなげないために作られていた。
「検討する問いは近づいています。ただし、答えが『一人』へ近づいているとはまだ言えません」
「なるほど」
「次の資料で確認します」
◇
夕方、私用端末へミサキから短いメッセージが届いた。
『金曜のお店、席少ないらしい』
その下に、
『混んでたら別のとこでもいい?』
ノルンは窓の外へ一度目を向けた。昼間より雲が減り、傾いた陽光が向かいの建物の窓へ反射している。
『もちろんです。紀行本を受け取れれば場所はどこでも大丈夫です』
送った直後、少しだけ考える。
(……それだけではないですね)
本を受け取るだけなら、本当に店へ入る必要はない。
けれど自分は、ミサキと少し話せることも楽しみにしている。
昨日、自分の中でそこまでは認めた。
だから文面を追加した。
『でも、できれば少しお話しできる場所だとうれしいです』
送信した後で、指先が止まった。
これまでなら、『どこでも大丈夫です』だけで終えていたかもしれない。
自分が何を望んでいるのかを、相手へ負担にならない範囲で言葉にした。
返信が来るまでの短い時間が、いつもより長く感じられる。
やがて端末が震えた。
『私も話したいから、混んでたら座れるとこ探そ』
ノルンはその文章をしばらく見つめた。
胸の奥に生まれた温かさは、歴史資料のように分類する必要がない。
『はい。そうしましょう』
返信すると、
『じゃあ金曜ね』
と返ってきた。
予定は変わらない。
金曜日、十八時。
駅の南側にある焼き菓子店の前。
混んでいれば別の場所を探す。
紀行本を受け取り、少し話をする。
湖の町へ行く日ではないし、恋人同士の約束でもない。それでも二人とも、ただ本を受け渡すだけではなく、話す時間を持ちたいと思っていることが、今日初めて互いの言葉として確認された。
◇
仕事を終える前、ノルンは現在の観測状態をもう一度確認した。
新しい通知はない。
三件の低強度識別不能反応についても評価変更はなく、観測密度は通常のままである。
今日読んだ資料には『ネル』という新しい音が出てきた。
けれど、それは外在側から届いた音ではない。
管理側が仕事のために作った符号である。
過去の『ナ』『ア』『レ』『ラ』『エ』とも、現在の三件とも結びついていない。
呼びやすいからといって、一人が生まれたわけではない。
ただし、呼びやすい言葉は、人の頭の中で一つの存在になりやすい。
それを当時の管理者たち自身が確かめ、正式導入を見送っていた。
◇
ノルンは未読の『外在反応個体継続性評価・試行基準』を開かないまま端末を閉じた。
今日確認できたのは、制度が一人を作ろうとしていたことではない。
むしろ逆だった。
仕事をしやすくするために呼び名を作っただけでも、人はそこへ一つの存在を見つけてしまう。
だから呼び名を制限した。
主語にしないよう規則を作った。
人を指す代名詞と結びつけないようにした。
正式資料や教育から外し、それでも過去記録を辿れるよう検索別名には残した。
慎重だった。
それでも、言葉は完全には消えない。
使わなくなった呼称も、検索欄には残る。
古い紙には残る。
誰かの記憶にも残る。
そして、その由来を説明する長い文章より、短く呼びやすい言葉の方が覚えられやすい。
(でも、それだけで後の答えを決めてはいけません)
ノルンは鞄を持ち上げた。
次に読む資料では、ついに『個体継続性』そのものが検討される。
そこで新しい観測証拠が現れるのかもしれない。
あるいは、まだ一人とは呼べないという結論が続くのかもしれない。
どちらであっても、先に答えを置かずに読めばよい。
窓の外では、雲の切れ間から夕方の光が長く差し込み、中庭の石畳を淡く照らしていた。
金曜日まで、まだ少し時間がある。
ミサキと会う予定にも、今以上の名前を付ける必要はない。
ただ本を受け取るだけではなく、二人とも話したいと思っている。
今日確認できたのは、そこまでだった。




