第37話 見習い聖女、初めて泣く
夜の大聖堂は、昼よりも広く見えることがある。
新堂ユウトは、神殿の中庭へ続く回廊をひとりで歩きながら、なんとなくそんなことを思った。
昼間は人の出入りが多い。祈りに来る者、奉仕に走る修道女、神官、見習い。白い壁も床も、誰かの気配を反射して少しだけあたたかい。
だが夜は違う。灯りが落ち、足音が減り、空気そのものが薄くなる。石造りの建物は、静かになるほど本来の大きさを取り戻すみたいに、ひやりと遠く感じられる。
「……なんで俺、毎回こういう時だけ神殿に来てるんだろうな」
小さくこぼした言葉は、回廊の先へ吸い込まれていった。
今日は誰かに呼ばれたわけではない。
正確に言えば、呼ばれてはいないが、放っておけなかった。
昼間の評議のあと、フィアナの顔がずっと頭に残っていたからだ。
泣いてはいなかった。
でも、いつもの“困ってる人を助けたいです”というまっすぐさと違って、今日は自分の善意そのものに足を取られている人間の顔をしていた。
ああいう顔は、放っておくとよくない。
理屈ではなく、ただの経験則としてそう思った。
中庭へ出ると、夜風が少しだけ冷たかった。
中央の小さな噴水は音を立てているが、それ以外は静かなものだ。灯りも少なく、石の縁や植え込みの輪郭がやわらかく闇に溶けている。
そして、その噴水のそばに白い影があった。
「やっぱりいた」
ユウトが言うと、影が小さく肩を揺らした。
フィアナだった。
白い法衣の上に薄い上着を羽織っている。髪はほどけてはいないが、いつもより少しだけ乱れていて、膝の上で手を重ねたまま、噴水の縁に座っていた。
「……シンドウさん」
「うん」
「どうしてここに」
「なんとなく」
そう答えてから、少し考えて言い直す。
「いや、なんとなくじゃないな。顔がやばそうだったから」
フィアナは、ほんの少しだけ困ったように笑った。
その笑い方が、余計にやばかった。
「そんなに分かりやすかったですか」
「かなり」
「そっか……」
それきり、少し沈黙が落ちた。
ユウトはすぐ隣には座らず、ひとつ分くらい間を空けて、同じ噴水の縁に腰を下ろした。
近すぎると、相手が余計に喋りづらくなることもある。たぶん、今日はそのくらいがちょうどいい。
「寒くない?」
「少しだけ」
「部屋戻ればいいのに」
「……戻ったら、ちゃんとしなきゃいけないので」
その言い方で、だいたい分かった。
いまのフィアナは、弱っている自分を見せたくないのだ。
神殿の見習い聖女。善意の人。明るい子。そういう自分でいなきゃいけないと思っている。
「ちゃんと、か」
「はい」
「大変だな」
「……そうですね」
また沈黙。
噴水の水音だけが、やけに澄んで聞こえる。
フィアナはしばらく俯いたままだったが、やがてぽつりと口を開いた。
「わたし、ずっと」
「うん」
「助けたいって言えば、だいたい正しいと思ってたんです」
ユウトは何も言わず、先を待った。
「もちろん、全部が全部うまくいくとは思ってなかったです。でも、“困ってる人を見たら助けたい”って気持ち自体は、まちがいじゃないって」
「それはそうだろ」
ユウトがすぐに言うと、フィアナは少しだけ顔を上げた。
「そう、ですよね」
「うん」
「でも今回……」
彼女の声が少し揺れる。
「今回、神殿の中で偽物を使った人たちも、悪いことをしようとしたわけじゃないんです」
「うん」
「楽をしたかったわけでも、ふざけたかったわけでもないんです。本当に、少しでも奉仕の疲れが軽くなるならって……」
そこで言葉が詰まった。
「なのに、結果はああで」
フィアナはぎゅっと自分の指を握りしめる。
「祈る場所が汚れて、気分が悪くなって、神殿の中がぎくしゃくして……」
その先は、うまく言葉にならないらしかった。
ユウトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「自分のせいだと思ってる?」
フィアナはすぐには答えなかった。
でも、その沈黙で十分だった。
「……ちょっとだけ、じゃないです」
小さな声で、やっとそう言う。
「たぶん、かなり思ってます」
「そっか」
「わたし、最初に“助けになれば”って言いました」
「うん」
「神殿の中で確認してもいいんじゃないかって、何回も言いました」
「うん」
「“でも困ってる人がいるなら”って、ずっと言ってました」
声がだんだん細くなる。
「だから、あの人たちが“少しだけ試してみよう”って思った空気を作ったの、わたしです」
その言葉に、ユウトはすぐには返せなかった。
それはたぶん、半分当たっていて、半分違うからだ。
空気を作ったと言えば、そうかもしれない。
でも、それをまるごと一人で背負わせるのは違う。
「……フィアナ」
「はい」
「たぶんさ」
ユウトは、噴水の水面を見ながら言葉を探した。
「君が“助けたい”って言ったこと自体は、別に間違ってないと思う」
フィアナは動かなかった。
「だって、そこだけ切り取ったら普通のことだろ。困ってる人がいて、少しでも楽になるならって思うの」
「でも」
「でも、その気持ちに“変な噂”とか“偽物”とか“正しい作法があるはず”みたいなのがくっついたら、もう別物なんだよ」
フィアナが、ゆっくりこちらを見た。
「別物……」
「うん。もうそれ、助けたい気持ちそのものじゃなくて、誰かに勝手に混ぜられた別の何かだろ」
「……」
「だから、ぜんぶ君のせいって思うのは違う」
フィアナはしばらく何も言わなかった。
代わりに、肩がほんの少しだけ揺れた。
「でも、止めきれなかったです」
やっと出てきた声は、ずいぶん弱かった。
「わたし、あの怪文書も、偽物も、どこかで“少しだけ本当が混じってるから”って思ってたんです」
その言葉には、はっとした。
たぶん、それが一番深いところなのだろう。
全部が嘘なら、もっと強く拒めた。
でも、本物に“限定的な効果”があった。神殿の中で少し楽になった人もいた。だから、“完全なデタラメではない”という余地ができた。
その余地が、フィアナみたいな真面目な人間には一番きつい。
「わたし、信じたかったのかもしれません」
フィアナは噴水の水面に目を落としたまま言う。
「ちゃんと正しい形があれば、みんな助かるんじゃないかって」
「うん」
「でも、そんな簡単な話じゃなかった」
「そうだな」
「……悔しいです」
その一言のあと、ついにフィアナの声が崩れた。
「悔しいし、情けないし、こわいです」
小さく、肩が震える。
「善意で動いてるつもりだったのに、結局、偽物の手伝いみたいなことをしてたかもしれないって思うと……」
そこで、ようやく涙が落ちた。
声を上げる泣き方じゃなかった。
ぽろっと落ちて、それを自分で止めようとして、でも止まらなくなって、静かに崩れていくみたいな泣き方だった。
「……あー」
ユウトは、なんというか、困った。
こういう時、器用な言葉が出てくる方ではない。
ミリスみたいに理屈で切ることもできないし、レティシアみたいに黙って支えるほどの落ち着きもない。
だから結局、できることはひとつしかなかった。
「ほら」
自分の上着のポケットから布のハンカチを出して、少しだけずらして差し出す。
「使う?」
フィアナは泣きながら、少しだけ目を丸くした。
「……持ってたんですか」
「え、持ってるだろ普通」
「なんか、意外です」
「どういう意味だ」
フィアナは涙声のまま、少しだけ笑った。
それでよかった。
彼女はハンカチを受け取り、目元を押さえる。
「ありがとうございます……」
「うん」
しばらく、また静かな時間が流れた。
水音だけが聞こえる。
やがてフィアナが、ぽつりと呟く。
「シンドウさんって、怒らないですよね」
「怒ってる時もあるぞ」
「でも、わたしにはあんまり」
ユウトは少し考えた。
「……君に怒るの、ちょっと違う気がするからじゃないか」
「どうしてですか」
「たぶん、君が本気で困ってる人のこと考えてるって分かるから」
フィアナはまた小さく黙った。
「その代わり」
「はい」
「そこにつけこむやつには、だいぶ腹が立ってる」
それは、もうかなりはっきりしていた。
リグの顔を思い出す。
あの、全部分かった顔。
こっちの嫌がる方向を知っていて、そこへ言葉を流し込むやり方。
「……ほんとに最低ですよね」
フィアナが言う。
「うん」
「神殿の人の気持ちまで使うなんて」
「うん」
「わたし、今まで“嫌な人”って言い方はあんまりしたくなかったんですけど」
「うん」
「今回は、ちょっと、ほんとうに嫌です」
その“ちょっと”は、ぜんぜんちょっとではなかった。
ユウトは思わず少し笑ってしまう。
「笑わないでください」
「いや、ごめん。でも、ちょっと安心した」
「何がですか」
「君でもそういうふうに思うんだなって」
フィアナは、まだ少し赤い目のまま、むっとした顔をした。
「思いますよ、それくらい」
「だよな」
そうやって、少しずついつもの調子が戻ってくるのが分かった。
◇
しばらくして、フィアナは涙を拭き終えて、小さく息を吐いた。
「……なんか、すみません」
「何が」
「こんなふうに泣くつもりじゃなかったんです」
「別にいいんじゃないか」
「よくないです。見習い聖女として」
「そういう肩書きは今だけ忘れろよ」
フィアナは少しだけ目を細めた。
「シンドウさん、そういうところだけ変にやさしいですよね」
「“だけ”は余計だな」
「普段はすごく面倒くさそうなのに」
「失礼だな」
でも、それもいつもの調子に近かった。
「で」
ユウトは言う。
「これからどうする」
「止めます」
フィアナの返事は、思ったよりすぐだった。
そして、思ったより強かった。
「神殿の中で広がった分は、神殿の中でちゃんと止めます」
「うん」
「“助けたい”って気持ちを、偽物の言葉に乗せないようにします」
「うん」
「それに……」
フィアナは、少しだけ恥ずかしそうに視線をそらした。
「ちゃんと、確認しないで信じるの、もうやめます」
それはたぶん、彼女にとってかなり大きな宣言だった。
善意の人ほど、“信じたいもの”が目の前にあると弱い。
それを、自分で自分に言えるのは強いことだと思う。
「偉いな」
ユウトが何気なく言うと、フィアナは少しだけ唇を尖らせた。
「子ども扱いしてません?」
「してない」
「ちょっとしてます」
「少しだけかも」
「ほら」
でも、怒っているようには見えなかった。
そこで、回廊の向こうから足音がした。
こつ、こつ、と落ち着いた靴音。
「いましたか」
レティシアだった。
夜の神殿でも、彼女の歩き方はぶれない。
フィアナの泣き跡を見ると、ほんのわずかに目を和らげたが、何も言わなかった。
「探してた?」
ユウトが聞くと、レティシアは頷く。
「はい。王宮から連絡が入りました」
「うわ」
嫌な予感しかしない。
「もう?」
「ええ」
「何」
レティシアは静かに答えた。
「王都全域の偽物一掃作戦が、前倒しになります」
やっぱり来た。
神殿での事故があった以上、王宮ももう待てないのだろう。
「……だよなあ」
ユウトが天を仰ぐと、レティシアは視線をフィアナへ向けた。
「フィアナ殿」
「はい」
「神殿側の協力も、正式に要請されています」
フィアナは一度だけ目を伏せ、それから、はっきりと頷いた。
「やります」
「無理は」
「しません。でも、逃げません」
その答えに、レティシアは小さく頷く。
「分かりました」
ユウトは立ち上がった。
夜風が少し冷たい。
でも、さっきよりはだいぶましだった。
「……じゃあ、行くか」
「はい」
レティシアが答え、フィアナも立ち上がる。
泣いたあとの顔なのに、不思議とさっきより強く見えた。
たぶん、善意だけでは守れないと知った人間の顔なのだろう。
そしてその夜、王都のどこかでは、リグが新しい紙片を整えていた。
だが、彼はまだ知らない。
善意を揺らすことはできても、そこから立ち直った人間は、前より厄介になるのだということを。




