第28話 “正しい使い方”とかいう最悪の怪文書
その日の夕方、王都の空気は明らかに変わっていた。
新堂ユウトは、騎士団本部の会議室へ戻る途中、王都中心街の通りを馬車の窓越しに眺めながら、それを肌で感じていた。
人の流れはいつも通り多い。
露店も並んでいる。
子どもは走り、大人は買い物袋を提げ、噴水のまわりでは若い男女が何やら話している。
だが、その会話の端々に混じる単語が、明らかに昨日までと違った。
「本物の作法、だって」
「学院でも取り締まりがあったらしいわよ」
「だからこそ本当なんじゃない?」
「王都上流では、順番が大事らしいわ」
「順番って何の……」
「だから何のだよ!」
反射的に馬車の窓から叫びそうになって、ユウトは寸前で口を押さえた。
隣の席にいたレティシアが、小さく息を吐く。
「増えていますね」
「増えてるね!」
向かいの席では、セリーナが押収した怪文書を再確認していた。
王立学院風紀委員長は、今日も相変わらず姿勢がよく、視線が鋭い。だがその目の奥には、はっきりと苛立ちがあった。
「文面の変化が露骨です」
彼女は紙片を机代わりの板へ置く。
「昨日までが“効くらしい”“上流で話題らしい”だったのに対し、今は“正しい使い方”“隠された作法”“順番を守れば違う”――つまり、より具体的です」
「具体的になるなよ……」
ユウトは本気で頭を抱えたくなった。
噂は、曖昧だから強い。
だが、曖昧なだけなら、まだ広がり方に限界がある。
ところが今は違う。誰かが意図して、あえて“少しだけ具体的な言葉”を混ぜている。人が想像しやすいように。真実っぽく見えるように。
しかも、その具体性が最悪なのだ。
フィアナが、向かいの端で小さく声を上げた。
「神殿にも同じ感じで来ています」
「来てるのか……」
「ええ。“祈りの前に三度”“静かな部屋で”“自分だけの時間に”とか」
「ほんとにやめてくれ!」
叫ぶユウトの横で、ミリスはなぜか少し冷静だった。
「煽り文としては上手いのよね」
「感心するな!」
「感心じゃない、分析」
そう言いながらも、彼女の声はだいぶ冷たかった。
「誰かが、“想像の余地”をわざと残してる。全部を説明しない、でも連想だけはさせる。雑な偽物より、こういう方が危険」
「それはすごく分かる」
レティシアが窓の外を見たまま、静かに言う。
「問題は、これが学院・神殿・市場の三方向へ同時に流れていることです」
「うん」
「偶然ではありえません」
それも分かる。
王都は広い。
人は多い。
噂の出どころを特定するのは難しい。
だが、“学院には風紀を煽る言い回し”“神殿には祈りを絡めた言い回し”“市場には上流向けの売り文句”が、それぞれ同時に広がっているのは、偶然で済ませていい話ではなかった。
「……だいぶ本格的に俺の恥を武器にしてるよな」
ユウトがぼそりと言うと、セリーナがためらいなく頷いた。
「はい」
「そこも即答なのか」
「事実です」
ほんとうにこの風紀委員長は容赦がない。
◇
騎士団本部へ戻ると、会議室にはすでに王宮の文官と、神殿のエラルド司祭まで来ていた。
机の上には、学院から回収した紙片、神殿へ届いた相談文、市場で押収した偽物、全部が並んでいる。
最悪の見本市みたいだった。
「景色が終わってるな……」
ユウトが心から言うと、文官が少しだけ咳払いをした。
「冗談めかす余地が減ってきましたな」
「冗談めかしてるつもりないんですけど」
実際、かなり笑えない。
セリーナが、学院から持ち込んだ紙片を広げた。
そこには整った字で、こう書かれている。
《本物の作法・初級》
一、静かな場所にて。
二、肩・首・背を順に整えるべし。
三、恥じる者ほど恩恵は遠のく。
四、風紀委員会の言を恐れるべからず。
「最低だな!」
ユウトの声が会議室に響いた。
「四が最悪すぎる!」
セリーナの顔も冷えきっている。
「学院としても極めて不愉快です」
フィアナが、神殿側の紙片をおずおずと差し出す。
「こちらは神殿に届いたものです」
その文面はこうだった。
《祈りの前に、身を整えよ》
《ただ唱えるだけでは足りぬ》
《順と静けさを知る者のみ、真の軽さを得る》
「なんでそんなに言い方がいやらしいんだよ……」
ユウトが呻くと、ミリスが市場側の札を示した。
「市場はもっと露骨」
そこには金文字で、
《王都上流で密かに共有される“本来の作法”》
《順を誤ればただの棒、順を知れば別物》
「やめろって言ってるだろ!」
レティシアは深く息を吐く。
「……完全に意図的です」
「ええ」
文官も頷く。
「しかも、文体の設計がうまい。どれも“完全な説明”ではなく、“知っている者だけが本当を知る”と読ませる」
「だから余計に広がるんだな」
ユウトが言うと、ミリスが珍しく素直に頷いた。
「ええ。人は“隠されている”と思うと飛びつくもの」
「王都の民衆って、そんなに秘密好きなのか」
「民衆に限らないわよ」
ミリスが肩をすくめる。
「学院生も、神殿の見習いも、上流階級も、みんな好き」
そこへ、エラルド司祭が穏やかな声で言った。
「問題は、神殿内ですでに一部が信じかけていることです」
「うわ」
ユウトの顔が引きつる。
「善意派の修道女たちですか」
レティシアが確認すると、司祭は静かに頷いた。
「ええ。表立ってではありません。ですが、“本物があるなら、正しい手順もあるのでは”と考える者は出ています」
「神殿まで“本来の作法”に食いつくなあ……」
「困っている者を助けたいという気持ちが強いほど、引っかかりやすいのでしょう」
ユウトは言葉に詰まった。
分かる。
分かるのだ。
助けたいという気持ちが先にあると、“何か意味があるのでは”という話に弱くなる。そこを突かれている。
「……最低だな」
今度の言葉には、さっきまでの呆れより、少しだけ怒りが混じっていた。
◇
会議の途中で、騎士団の若い伝令が慌てて入ってきた。
「失礼します!」
「何です」
レティシアが聞く。
「西区画の宿場で、怪文書配りを見たという証言が三件。南区画でも似た男がいたと」
「特徴は」
「痩せ型、黒い外套、顔立ちは目立たない。ただ、話し方が妙に落ち着いていたとのことです」
会議室の空気が変わる。
セリーナがすぐに言った。
「学院で目撃された者の証言とも一致します」
ミリスが机を指で叩く。
「ようやく尻尾が見えてきたわね」
ユウトが眉をひそめる。
「でも、まだ“誰かいる”ってだけだろ」
「それでも十分よ」
ミリスの声は低い。
「少なくとも、噂と偽物が自然発生じゃないと固まった」
文官も続ける。
「王宮としても、ここからは単なる風評被害ではなく、意図ある工作と見ます」
「工作って言葉になると、急に笑えなくなるな」
「笑える段階ではありません」
セリーナの声が容赦なく刺さる。
フィアナも珍しく真面目だった。
「神殿側も、もう“ただの噂”では済ませません」
ユウトはゆっくり息を吐いた。
学院、神殿、市場。
全部がつながった。
しかも、それをつなぐ“誰か”がいる。
「……じゃあ、次は何するんだ」
その問いに、レティシア、ミリス、セリーナ、文官がほぼ同時に答えた。
「出所を潰します」
「流通を断つ」
「学院内を一掃します」
「王宮主導で押さえます」
「息ぴったりだな!」
だが、その息の合い方が、むしろいまの状況の深刻さを示していた。
◇
会議が終わるころには、外はもう暗くなり始めていた。
王都の夜は、昼よりも噂が広がりやすい。
酒場。
宿。
私室。
夜の雑談の方が、人は怪しい話を信じやすい。
「……今夜も増えるんだろうな」
ユウトが小さく言うと、レティシアが答えた。
「増えるでしょう」
「言い切るなあ……」
「ですが」
「うん」
「こちらも、ようやく“敵の形”が見えました」
それはたしかにそうだった。
見えない何かに好き勝手振り回されるのと、相手が意図して動いていると分かるのとでは、だいぶ違う。
「……じゃあ、次は俺もちゃんと動く」
ユウトがぽつりと言う。
会議室を出かけていたミリスが、それを聞いて立ち止まった。
「昨日も似たこと言ってたわね」
「昨日より今日は本気」
「そう」
その返事は短かったが、少しだけ柔らかかった。
セリーナも頷く。
「では、次は学院側も本気で潰しにかかります」
「その言い方、風紀委員長の枠超えてない?」
「必要なら越えます」
さすがに頼もしかった。
フィアナは、少しだけ不安そうに、でも強く言った。
「わたしも神殿で止めます。これ以上、“本来の作法”なんて信じさせません」
「うん、それはほんとに頼む」
その時だった。
会議室の窓の外、ほんの一瞬だけ、何か黒い影が屋根の上を滑った気がした。
「……っ」
ユウトがそちらを見る。
レティシアも瞬時に反応し、窓へ寄る。
だが、もう何もいない。
「どうしました」
「いや……」
見間違いかもしれない。
だが、見られていた気がした。
そして実際、王都の北側の屋根の影では、リグが小さく笑っていた。
「いい顔になってきた」
異邦人はようやく、ただ嫌がるだけでは終わらなくなってきた。
学院、神殿、騎士団、魔導院も、本気で追い始めた。
だからこそ、次はもっと強く刺さる。
リグは新しい紙片を指で弾いた。
そこには、次の火種となる文言がある。
《偽物を禁ずる者ほど、本物の恩恵を独占している》
《正しい理解を広めよ》
《本物の証明を求めよ》
彼は低く笑った。
「さあ、次は“隠している側が悪い”空気を作ろう」
王都の夜気が、その笑いを運んでいく。
そしてユウトはまだ知らない。
ここから先、ただ噂を止めるだけでは済まず、“本物の証明” そのものを求められる地獄が待っていることを。




