第18話 神殿、癒やしの儀式を提案する
王都の空が夕暮れ色へ傾き始めたころ、新堂ユウトは大聖堂の一室で、ものすごく嫌そうな顔をしていた。
理由は明白である。
目の前の長机に並んでいるのが、神官、修道女、見習い聖女、そして真面目な美人騎士という、どう考えても「まともな話し合いです」という面子なのに、議題だけがまったくまともではなかったからだ。
「では、改めて申し上げます」
年配のエラルド司祭が穏やかな声で口を開く。
「神殿としては、《律動の聖杖》を用いた“癒やしの儀式”の可能性について、正式に検討したいと考えています」
「やっぱりそうなるんだよなあ……」
ユウトは頭を抱えた。
大聖堂の本殿ではない。少し奥まった、会議用の小部屋だ。壁には簡素な聖印、窓辺には薄い色の花が飾られ、机には茶器まで並んでいる。空間だけ見れば、実に穏やかで上品だ。
だが、穏やかでも上品でも、議題が地獄なら意味がない。
ユウトの右隣にはレティシア。
左斜め前にはフィアナ。
そして向かいにはエラルド司祭と、神殿の中でも治療や奉仕を担っているらしい年長の修道女たちが三人。
この並びだけで、ユウトはすでに帰りたかった。
「最初に言っておきますけど」
ユウトは手を上げた。
「俺は反対です」
即答だった。
部屋に、ほんの少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
だがエラルド司祭は動じなかった。さすが年の功というべきか、昨日今日の騒動では崩れない落ち着きがある。
「理由を伺っても?」
「理由しかないんですけど」
ユウトは真顔で答えた。
「そもそも、あれはそういう用途のために存在してるわけじゃないですし」
半分は本音。
半分は、言葉を濁した本音だ。
「効果が安定してる保証もない。出力も落ちてる。長く使うと危ないかもしれない。なのに“癒やしの儀式”なんて名前をつけたら、絶対に変な方向へ広がるじゃないですか」
最後の一文に、本音が全部詰まっていた。
エラルド司祭は静かに頷く。
「懸念はもっともです」
「ですよね?」
「はい」
その反応に、少しだけユウトは救われた。
だが、次の瞬間。
「でも、可能性はあるんです」
フィアナが、まっすぐな目でそう言った。
「来たなあ……」
ユウトは顔を覆いたくなった。
フィアナは悪びれない。悪意がまったくない。だからこそやっかいだった。
「わたし、街で困ってる人の声も聞きました。肩が重いとか、疲れが抜けないとか、祈っても気持ちが晴れないとか」
「うん」
「そういう人が少しでも楽になるなら、神殿としては無視できません」
言っていることは、正しい。
正しすぎるから困る。
ユウトが黙ると、修道女の一人が、おずおずと口を開いた。
「実は……その……」
四十代くらいだろうか。栗色の髪をきっちりまとめた、穏やかそうな女性だった。
「神殿でも、奉仕や祈りの勤めで、肩や背を痛める者はおります」
「いや、そうだろうとは思うけど」
「ですので、その……もし本当に少しでも楽になるなら、喜ぶ者は多いかと……」
「そこに“もし本当に”を置かれると、余計に言い返しづらいんだよなあ……」
レティシアが隣で小さく息を吐いた。
「神殿側の動機が善意であることは理解しています」
いつも通り、硬くまっすぐな声だった。
「ですが、現時点で兵装の安全性は確立していません」
「その通りです」
ユウトは即座に乗っかる。
「まずそこです。あと、すでに王都で変な噂が広がり始めてるんですよ。“疲れが散る”とか“整う”とか“肩こりに効く”とか。そこに神殿が公式っぽく乗ったら終わりです」
「終わりとは」
エラルド司祭が穏やかに訊く。
「俺の名誉が」
「そこですか」
レティシアが小さく言った。
「そこです!」
真顔で返した。
「いや、もちろん危険性とか混乱もありますよ? でも俺個人としては、だいぶ切実にそこです」
その本音に、修道女たちが少しだけ困ったように顔を見合わせた。
たぶん彼女たちにとっては、名誉よりも困っている人を助けることの方が先なのだろう。
それは分かる。分かるが、こっちにだって社会的に死にたくない権利はある。
フィアナが、少しだけしょんぼりした顔で言う。
「でも、シンドウさんが嫌なら、無理には……」
その言い方に、ユウトは少しだけ罪悪感を覚えた。
だがそこで甘い顔をしたら終わる。
この手の善意は、一度「少しだけなら」で通すと必ず膨らむ。もう王都で嫌というほど学んだ。
「嫌です」
だから、きっぱり言った。
「少なくとも“儀式”って名前でやるのは絶対に嫌」
レティシアが横でわずかに頷く。
味方がいてくれる感じがして、少しだけ心強い。
エラルド司祭は指を組み、しばらく考え込んでから言った。
「……では、こうしてはどうでしょう」
嫌な予感しかしない前振りだった。
「“儀式”として公に扱うのではなく、まずは神殿内で、安全性確認の一環として、ごく小規模に――」
「だめです」
レティシアが即答した。
その速さに、ユウトは心の中で拍手した。
「兵装の性質上、神殿内だけで完結する話ではありません。王宮、騎士団、魔導院、すべてへ影響します」
「そこまで大きな話にするつもりは……」
「もうなっています」
レティシアの声は一切ぶれない。
「現在、王都では兵装の誤解が拡大中です。ここで“神殿が実際に試した”という事実だけでも、噂は制御不能になります」
完璧な正論だった。
エラルド司祭も、さすがにそれは理解しているらしい。表情を崩さず、しかし慎重に言葉を選んでいる。
「……ならば、完全な却下、ですか」
そこで、場の空気が少しだけ重くなった。
フィアナは残念そうだし、修道女たちもあからさまに落胆してはいないが、やはり「困っている人が楽になるかもしれない」話を切るのは惜しいのだろう。
ユウトも、それは分かる。
分かるからこそ、余計に厄介だ。
だが、その重たい空気を、思わぬ形で壊したのは――事故だった。
◇
「きゃっ」
小さな悲鳴。
振り向くと、会議室の隅でお茶の準備をしていた若い修道女が、盆を取り落としかけていた。慌てて支えようとしたものの、動きがぎこちない。片腕がうまく上がっていないように見える。
「大丈夫ですか」
フィアナが駆け寄る。
「は、はい……すみません」
若い修道女は慌てて頭を下げた。まだ二十歳前後だろう。細身で、真面目そうな顔立ちをしている。
だが、その肩の動きが明らかにおかしかった。
修道女の一人がため息交じりに言う。
「この子、昨日からずっと蔵の整理をしていたのです。重い寄進品の箱を運んでいて、肩を痛めてしまって」
「ち、違います、痛めたというほどでは……」
「無理をしているだけです」
年長の修道女は容赦がない。
若い修道女は申し訳なさそうに肩をすくめた――そのとき、本当に少しだけ、顔をしかめた。
ユウトは反射的に立ち上がりかけた。
いや、立ち上がる必要はない。
ないのだが、目の前でそういう痛そうな顔をされると、なんとなく放っておけない。
「……肩、そんなに痛いの?」
聞くと、若い修道女は慌てて首を振った。
「い、いえ! 少し張っているだけで――」
その“少し”が、たいてい少しではないことを、ユウトはなんとなく知っている。元の世界でも、そういう人はいた。
レティシアが小さく警戒するようにユウトを見る。
「シンドウ殿?」
「いや、変なことはしないよ」
先に釘を刺される前に言っておく。
「ただ、ほら……魔導院でも肩だけは確認してただろ」
その瞬間、ミリスの目が光った。
「あ」
「“あ”じゃないんだよ」
ユウトは嫌な予感を全身で感じながらも、言葉を続ける。
「本当に軽く、確認程度なら」
若い修道女は、目を丸くした。
「えっ」
フィアナもぱあっと顔を明るくする。
「いいんですか!?」
「だから“いいんですか”って拡大解釈するな」
レティシアは明らかに警戒していた。
「シンドウ殿、本当に最小限のみです」
「分かってる」
「長時間は駄目です」
「分かってるって」
ミリスがすでに記録板を取り出しているのが見えた。
「そこはしまえ」
「観測よ」
「だからその観測が話を大きくするんだよ!」
しかし、空気はすでに変わっていた。
若い修道女はものすごく困惑しつつも、断るに断れない顔をしている。
エラルド司祭は慎重に黙っている。
フィアナは完全に期待の目だ。
「……ほんの少しだけなら」
若い修道女が、おそるおそる言った。
「痛いとか怖いとか思ったら、すぐやめてください」
「もちろん」
ユウトも、それだけは真面目に答えた。
だが、その時点で、たぶん流れは決まっていたのだろう。
◇
会議室の空気は、妙に張りつめていた。
大仰な儀式でもなければ、公の試験でもない。
ただ、会議の途中で、肩を痛めた修道女に対して、本当に軽く確認をするだけ。
それだけのはずだった。
「座ったままでいい?」
「は、はい……」
若い修道女は椅子へ腰を下ろし、かなり緊張している様子だった。
無理もない。いま王都で散々噂になっている“聖杖”の使い手が、すぐ横まで来ているのだ。
ユウトだって緊張している。
というか、ものすごく嫌だ。なぜ自分が神殿の会議室で、修道女の肩を前にして説明しづらい機器を握っていなければならないのか。
「……ほんとに最小限だからな」
「は、はい」
修道女の返事も硬い。
ユウトは黒布袋から本体を取り出した。
やはり部屋の空気が一瞬固まる。
「まだそれに慣れませんね……」
年長の修道女がぽつりと漏らした。
「慣れられても困るんですよ」
そしてユウトは、いちばん弱い出力で、ごく短く起動した。
ぶ……ぉん。
控えめな振動音。
以前より弱った出力だからこそ、こういう場ではまだ助かる。たぶん高出力だったらユウトの精神が先に死ぬ。
肩へ直接押し当てるのではなく、ほんの少し離した位置で、短く、数秒だけ。
「っ……」
若い修道女が小さく息を呑む。
ユウトはすぐに止めた。
「だ、大丈夫?」
「は、はい……変な感じはしません」
「痛いとかは?」
「それは、ないです」
ミリスが記録板を見つつ、しかし珍しく声を抑えて言う。
「肩、回してみて」
修道女はおそるおそる右肩を上げた。
そして、そのまま目を瞬かせる。
「あれ……?」
「どうした」
ユウトが聞くと、彼女は今度は左肩も動かし、さらに大きく腕を回した。さっきまでのぎこちなさが、明らかに薄れている。
「軽い……です」
部屋が静まり返る。
ミリスが記録板から顔を上げる。
フィアナが両手を胸の前で握る。
年長の修道女たちが顔を見合わせる。
エラルド司祭は目を閉じて、短く息を吐いた。
そしてユウトだけが、頭を抱えたくなった。
「ほらあ……!」
思わず声が出る。
「なんでこういう時に限って、ちゃんと結果出るんだよ!」
修道女本人は本気で驚いていた。
「い、いえ、でも本当に、少し楽に……」
「そうだろうね! 今ので噂がまた増えるんだからね!」
フィアナがきらきらした目で言う。
「やっぱりです!」
「“やっぱり”で済ませるな!」
ミリスは逆に、少しだけ冷静を保っていた。
「いや、待って。これは“完全に治した”わけじゃない。筋緊張が緩んだだけで、根本治療ではない」
「そこ、強く言ってくれ!」
「言うわよ。言うけど」
「けど?」
「“少し楽になった”のは事実」
「だからあああ!」
レティシアが額に手を当てる。
たぶん、彼女も最悪の流れを理解したのだろう。
「……やはり、こうなりましたか」
「止めてくれよ本当に!」
だが、もっと最悪なのは、その場にいた年長の修道女の一人が、気まずそうにしながらも、小さく言った一言だった。
「その……私も、少し背が……」
「駄目です」
今度はレティシアが即答した。
その速さたるや、ほぼ反射だった。
「本日はここまでです」
「ですが」
「ここまでです」
ぴしゃり、とした声音。
年長の修道女は、はっとして口を閉じた。
エラルド司祭も苦笑交じりに頷く。
「……ええ。今日はここまでにしましょう」
「司祭さままでちょっと乗りかけたな!?」
ユウトのつっこみは、わりと悲鳴に近かった。
◇
会議室の片づけが終わり、神殿を出るころには、ユウトの顔はすっかり死んでいた。
「だめだ……」
大聖堂の石段を下りながら、彼は心から呻いた。
「最悪の実績が積まれた」
「実績、という表現はどうかと思いますが」
レティシアが隣で言う。
「いや、でも実際そうだろ。神殿の会議室で、肩を痛めた修道女がちょっと楽になった。これ、もう広がるに決まってるじゃん」
「……はい」
レティシアも、そこは否定しなかった。
フィアナは少し後ろを歩きながら、複雑そうな顔をしている。
「ごめんなさい」
「何が」
「たぶん、これでみなさん期待してしまいます」
「うん」
「でも、困ってる人が少し楽になるのは、やっぱりうれしくて……」
それを言われると、また責めづらい。
ユウトは深くため息をついた。
「君は悪くないよ」
「でも」
「悪いのは、なんかこう……世界の噛み合わせだ」
自分でも雑なまとめだと思った。だが、それ以上うまく言えない。
ミリスは大聖堂の階段途中で立ち止まり、記録板を見ながら言った。
「魔導院としては、今日の件でますます“民間利用は禁止”を強く出す必要があるわね」
「そこはほんと頼む」
「ただし」
「その“ただし”嫌い」
「神殿内での安全管理下の限定運用、くらいは王宮が言い出すかも」
「いやだあああ!」
その悲鳴が、石段にきれいに反響した。
レティシアが低く言う。
「王女殿下は、ありえます」
「やっぱり!」
「ええ。民衆向けには抑えつつ、管理下でだけ認める。そういう折衷を取りそうです」
「なんでそんなに分かるんだよ」
「見ていれば分かります」
嫌すぎる。
大聖堂の前庭を抜けるころ、通りの向こうから見知った馬車が見えた。王宮の紋章入りだ。
「……うそだろ」
ユウトが立ち止まる。
馬車から降りてきた侍従が、きっちり一礼した。
「シンドウ・ユウト殿。第二王女殿下より、お時間をいただきたく」
「ほらあああ!」
誰に向けた叫びなのか、自分でも分からなかった。
フィアナが小さく肩をすくめる。
「早かったですね」
「君たち神殿、情報漏れるの早くない!?」
「わ、わたしじゃないです!」
たぶん本当にフィアナではない。
だが神殿も魔導院も王宮も、情報の回る速度が異様なのは、もはや王都という場所の宿命なのだろう。
レティシアは静かに言う。
「……参りましょう」
「行かないとだめ?」
「おそらく」
「そうだよなあ……」
もう抵抗する気力も薄い。
ユウトは黒布袋の口をぎゅっと握りしめた。
王都ではいま、英雄の噂だけでなく、もっと生活に近い変な噂が育ち始めている。
魔を祓う。
穢れを散らす。
そして、少し疲れが楽になる。
その全部が半端に本当で、半端に危険だ。
「……第19話じゃなくて、第18話がこんな内容になるの、だいぶ嫌だな」
思わずぼそりと漏らしかけて、もちろん飲み込んだ。
代わりに、心の中でだけ叫ぶ。
頼むから、これ以上ひどい方向へ行かないでくれ――と。
だが、王宮からの迎えの馬車が来た時点で、その願いが叶わないことくらい、もう分かっていた。




