第9話 — 月下の犠牲
ツキヨはミカヅキの逃走に打ちのめされていた。
足元の大地が崩れ落ちそうな感覚。
やがて、彼女が立っていた墓が揺れ始め、湿った土の中から老人の亡骸が姿を現した。
「おい、娘…そこから退け!」
「すみません、気づかずに立っていました」
「ちっ…最近の若い奴は…」
老人は咳払いをして続けた。
「全部聞いていたぞ。忠告してやる。元いた場所へ戻れ。あの少年は我々の世界の者ではない。もし何かが起こるなら、彼は戻ってくる。そして探す場所を知っている。だが、お前は…自分の居場所を受け入れろ。ここ、地上ではない」
ツキヨは悟った。
彼女を突き動かしているのは愛への渇望だけではなかった。
死者の世界の外に答えを求めても解けない、もっと深いものがあった。
「ありがとうございます…」
懐かしい空気は重くのしかかり、カラスの鳴き声は嘲笑のように響いた。
一羽が墓から飛び出し、彼女の方へ舞い降りて叫んだ。
「ミイラ将軍が知った!ミイラ将軍が知った!」
考える暇もなかった。
急いで戻らなければ。見つからずに帰れることを祈りながら。
彼女は霊廟を駆け抜け、閉め忘れた扉をそのままに、階段を必死に駆け下りた。
脆い体は一歩ごとに崩れそうになりながら。
遠くに、すでに集まった群衆が見えた。
境界の門の前で、ミイラ将軍と骸骨の門番たちが立ち並び、演説をしていた。
誰かが逃げ出したと示唆し、その者は掟を破った代償を払うことになると。
「死者は生者の世界に歓迎されない。許可なく境界を越えるな!」
ツキヨは気づかれないように、ゆっくりと忍び足で近づこうとした。
だが、群衆の視線は次第に階段へと向かい始めた。
そして——ミイラ将軍の目が彼女を捉えた。
もう逃げ場はなかった。
「おい、娘!すぐにこちらへ来い!何度掟を繰り返せば気が済む?…いや、ちょうどいい。お前を他の者への見せしめにしてやろう」
将軍は骸骨の門番たちに命じ、門を開かせた。
ツキヨは近づきながらも、自分に何が待ち受けているのか分からなかった。
その頃、ミカヅキは家の空虚さを見つめていた。
——「もし僕が消えたら…誰も気づかないだろう」
喉に詰まるような思いを抱え、小さく呟いた。
部屋の灯りを点けながら歩き、扉に手をかけたが、開ける力が出なかった。
頭から離れないのは、墓地で見たあの少女。
彼女は確かに自分を求めていた。
この家とは違い、自分が居場所を持てるように感じさせてくれた。
考えるより先に、彼は走り出した。
まだ顔を見ぬ前から芽生えた感情を追いかけて。
今では、それが当然のように思えた。
街灯が点滅し、泥の跡がまだ残る道を駆け抜ける。
心にあるのはただ一つ——彼女に再び会いたい。
答えはそこにあると信じて。
墓地に着くと、開いた門が軋み、彼を迎えるように鳴った。
冷たい夜気と沈黙するカラス。
数歩進み、周囲を見渡す。
彼女が隠れていた木には、もう気配はなかった。
その時、墓が揺れ始めた。
驚きと希望が胸を走る。——彼女かもしれない。
だが違った。
土の中から現れたのは老人の亡骸だった。
彼は生者であるミカヅキを気にせず声をかけた。
「少年…こちらへ来い」
ミカヅキは目を見開き、恐怖を隠そうとしながらゆっくり近づいた。
言葉は出なかった。
「本当に戻る選択をしたのか?霊廟の扉を越えれば、もう戻る場所はない。お前はあの世界に属することになる。だが、そこにはお前を待たない者がいる」
ミカヅキは一瞬ためらった。
胸に恐れを抱えながらも、声を絞り出した。
「ぼ、僕には居場所なんてない…あの少女の願いを…知りたいんだ」
老人の体は崩れ、片足が土に沈んだ。
「お前の心はすでに答えを持っている…あの扉を進め。そこにあるものは、お前が備えているものだ」
ミカヅキは冷や汗を流しながら数歩後退した。
老人は別れの言葉もなく、再び土の中へと沈んでいった。
ミカヅキは霊廟へ向かい、扉の前で立ち止まった。
振り返ると、背後には三日月が浮かび、まるで新たな始まりを象徴しているようだった。
墓の前に立ち続ける死者たち。
霊廟の上を旋回するカラスたち。
まるで彼の決断をすでに知っているかのように。
彼は果てしなく続く階段を降り始めた。
一段ごとに心臓の鼓動が耳に響く。
——「もし居場所があるなら…悪くはないかもしれない」
その思いが心に囁いた。
やがて、出口の光が見え始め、階段の終わりが近づいてきた。
闇に慣れた目は、強い光に涙を浮かべる。
その先には群衆。
友人たちと走り回っていた町と同じくらい生き生きとした街並み。
だが、彼の視線は一つの場所に釘付けになった。
巨大な門。開かれたまま。
その前に立つ、小柄なミイラ将軍。手には燃える槍。
そして——ツキヨ。
心臓は暴れ、思考は空白になった。
彼はただ走り出したい衝動に駆られた。
自分がどうなるかなど気にせずに。
ミイラ将軍は傲慢に宣言した。
「さて…さて…燃える槍を持ってこい。これがお前の罰だ。他の者に掟を破る愚かさを知らしめるために」
ツキヨは恐怖に震えながらも、その場を離れなかった。
苦い覚悟。
——いつかこうなることを知っていたかのように。
だが、その胸には深い悲しみがあった。
あまりにもありふれた願いを果たせなかったこと。
——誰かを愛し、愛されること。
彼女は両手を胸の前で組み、目を閉じた。
迫る衝撃を受け入れるように。
ミイラ将軍は冷笑を浮かべ、吐き捨てるように言った。
「ちっ…これで全員に分からせてやる」
老母は走りながら叫び、必死に止めようとした。
その声はツキヨに届き、彼女は目を開けて微笑み、再び閉じた。笑みを残したまま。
苛立つミイラ将軍は骸骨の門番に命じた。
「その太った婆を捕らえろ。邪魔は許さん」
槍の先に巻かれた布を燃やし、構えを取る。
ツキヨはミカヅキの顔を思い出し、彼に出会えた喜びを胸に抱いた。
——彼なら、私の願いを叶えてくれるかもしれない。
将軍は最後の叫びを上げ、愉悦に満ちていた。
「下がれ!」
誰も退かなかった。
彼は槍を突き出し、中心を狙った。
顔を歪め、笑い声を響かせる。
「ハハハハ…待て…!?」
見上げると、そこには少年の顔。生者。
その光景は彼に奇妙な驚きと誇りをもたらした。
槍を引き抜き、地面に落とし、誇らしげに叫ぶ。
「これは予想以上だ!見たか?これが——」
だが、言葉は続かなかった。
群衆が怒りに駆られ、将軍へと殺到したのだ。
声が響く。
「哀れなツキヨ!」
「暴君め!」
「逃がすな!」
「門番を止めろ!」
ツキヨは何が起きているのか理解できず、目を開けた。
そこにあったのは、彼女の前に立つ少年の背中。ミカヅキだった。
彼は血を吐き、腹を貫かれ、崩れ落ちようとしていた。
ツキヨは彼を抱きとめ、地面に横たえ、頭を膝に乗せた。
唯一の緑の瞳が彼女を見つめ、彼女は幸福と悲しみを同時に感じた。
ミカヅキは微笑み、彼女の顔に触れ、髪を耳にかけた。
「ツ、ツキヨ…僕は…この場所に…君のそばに…属したい…教えて…君の願いは…?」
彼の命は薄れていく。
ツキヨは胸に手を置き、心臓の鼓動が弱まるのを感じた。
「わ、私は…愛し、愛されたいと願った」
ミカヅキは目を閉じ、大きな笑みを浮かべ、力なく手を落とした。
ツキヨは微笑み返し、心の中で思った。
——彼は戻ってきた。
しばらくして、ミカヅキはゆっくりと目を開けた。
自分がどこにいるのか、誰のためにここにいるのかを理解して。
「僕のために」
― 終 ―
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