第四話 その五
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朝焼けの赤にずるりと…着物の裾を引き摺る様な妖しい墨色が広がっていく。
それと言うのは勿論、どの光源よりも強くこの場を照らしていた紫鳶が、急激に弱まったこと原因であり…しかるにその、目蓋の底を焼く様な仄暗さは…洋平がフェイスマスクを閉じて、『流』の仕様を終えたことをも物語っていた。
土壇場で洋平が下したこの決断。今の洋平にとって鬼鎧から、そして己の内心から全ての力を抜き去ってしまうようなこの振る舞いは…まさか、この勝負の勝敗を…諦めてしまったのと言うのか…。
黒い鬼人も洋平のその有り様を認識しているのは間違いない。であるならば洋平とは逆に、この『遊び』に生き残った事を確信し、安堵感に浸っているのだろうか…いや、どうやらそうではないらしい。
黒い鬼人がまるで勝負を焦るかの様に、空いた右手で洋平へと貫手を打ち出した。…それに、『虚抜き』を使っているというのに、重ねて、『能力』で貫手を超高速のスピードにまで高めたのは解せない。そこまでする必要も無く、『虚抜き』で四肢を動かすことの出来ない洋平には、どんな攻撃でも…それこそ先程のジャイアントスイングだろうと…お望通りにぶつける事が可能だろうに…。
やはり、黒い鬼人らしからぬ慌て振りと言われても仕方なかろう。こうも事を急ぐ姿を…それも瞬きする様な束の間に、見せられてはな…。
(せめて、『虚抜き』が、あいつの全身の自由を奪うまで待っても良かったんじゃないの…。)
そんな千明の心配を…それと序での序でに著者の不安を余所に、黒い鬼人は洋平の眉間の辺りへと貫手を疾駆させた。そして…洋平が再び牙が剥いたのもまた、まさにその刹那…。
それはすなわち、洋平が『流』の作動を再開させた事を意味している。
それこそが洋平、最大の妙手だったことだろう。…なんと、内側から爆発する様な鬼の流動が、洋平の鬼鎧内部を侵食していた『虚抜き』を吹き飛ばしてしまったのだ。
黒い鬼人はこうなることが解ってか、らしからず功を焦ったのだ。
黒い鬼人の指先が眉間に触れる…残影を纏うその貫手なら、次の瞬間には洋平の頭部を貫き、西瓜の様に爆ぜさせたのは間違い無い…しかし、当の黒い鬼人自身が一番、その『次の瞬間』が永遠に訪れないであろうことを知っていた。
洋平が、黒い左手に握られた尾を、凄まじい力で引っ張り上げたのである。
それで…それだけのことで…黒い鬼人の指先と、洋平の眉間との間には1ミリにも満たない僅かな隙間が…洋平にとっては、そして鬼人にとっては、これだけ余裕があれば十二分なのだ。
洋平は首を寝かせ、限られた空間を最大限に活用して黒い鬼人の貫手を回避。それと足並みを揃えて、バランスを崩した黒い鬼人へと右拳を突き込んだ。
「『流』で『虚抜き』を無効化するとは…僕の言った事を覚えてくれていたみたいですね。」
いつの間にか、洋平の尻尾を離した黒い鬼人の左手が、盾に成って洋平の突きを受けている。だが、この分だと…黒い鬼人の左腕はもう、盾としても、ましてや矛としても機能してくれはしないだろう。黒い左腕の手の甲から肘にまで伸びた亀裂が、衝撃と、損傷の大きさを雄弁に物語っている…。
「そう言えばそんなことも言ってたな。悪いが、『お前の言葉を思い出して』って訳じゃないんだ。第一、俺はお前みたいに咄嗟の判断でどうこう出来るってタイプじゃないからな、覚えてたとしても頭が回らなかっただろうよ。」
と、洋平が、黒い左腕に拳を更に押し込む。黒い鬼人は黒い鬼を注ぎ込んで、腕を潰されまいと抵抗する。…そうなると必然的に…黒い鬼人の巨体が浮き上がり、細身の洋平の驚異的な腕力で、後方へと殴り飛ばされた。
「俺に出来るのはただ、俺の内心を卵の殻みたいに突き破りたがってるやつの力に、逆らわないことだけだ。だから、加奈子の言ってることに従ったのさ…弾けて、消えてしまいたいって声にな。」
洋平の追い打ちが黒い鬼人に襲いかかる。千明はその、猛然と拳を、尾を打ち込む洋平の姿に、
(これは…今度という今度は、不味いんじゃないの。お願いだから…私のこの、『貴方ならって』期待感を裏切らないでよね。)
確かにこれは…千明の汗ばむ手に力が入るのも無理は無いか…。
黒い鬼人は深手を負った左手をかばう様に、大きく後退しながら洋平の攻めに対応してはいるが…お世辞にも、上手く洋平の連携攻撃を処理しているとは言い難い。それどころか、二、三発に一度と言うかなり高い頻度で、洋平の攻撃をまともに貰う様にすら成って来ている…。
「くっ、仕方ない…。」
と、黒い鬼人が初めて、苦汁の跡がありありと滲む声を漏らした。そしてここで黒い鬼人の後退の脚が止まる。
「鬼鎧全体の強度を上げたか。…って、ことは、俺の攻撃を避けきれないって判断した訳だ…お前にしては諦めるのが早いんじゃないのか。」
洋平の言った通り、黒い鬼人の鬼鎧全体で、内側に宿る鬼の領域が拡がり、その巨体が一回り大きく成った様に見える。
黒い鬼人はその他を寄せ付けない程の強度で、なんとか洋平の猛攻を耐えしのぎながら、
「いえいえ、僕は、夏芽に告白するという人生の重大事さえも、すっぱり諦めてしまった臆病ものですよ。それに…僕だって使えるもんなら、出来ればスマートな戦法を使い続けたかったに決まっています。だけど、貴方が僕の想像を超えて強かったもんだから…こ、こればっかりは、どうにもなら…ない…。」
黒い鬼人が話している間にも、洋平の攻撃が面白い様にヒットしていく。鬼鎧の中で最も高い強度を誇ると言われる、流石の黒い鬼鎧を持ってしても…黒い鬼人の喋る声が、消え入りそうに成っているではないか…。
じりじりと後ろに追いやられる黒い鬼人の足取りが、瓦礫を踏みしだく。
強度を上げたことにより、黒い鬼鎧の重力が増しと言う事だろうが…しかしこのままでは、洋平の攻撃を避けられるはずもない。…かと言って、強度を下げれば洋平の攻撃を耐える事は出来ないことも事実。
四方から飛んでくる洋平の攻撃に、完全に八方塞がった状況の黒い鬼人。…そうだ、背後へと追いやられている黒い鬼人とてよく解っているのだ…こっちに進んだところで、そこは逃げ場など無い事は…。
この窮地を打開する方法が、果たして、黒い鬼人に残されているのだろうか。
洋平は黒い鬼人のペースに合わせて、ゆっくりとした歩調で…しかし確実に…重みのある一撃をテンポよく、黒い鬼鎧に打ちこんでいく。
「俺が強すぎだって…嘘吐くな。そんなことこれっぱかしも思ってない癖によ。目を見ればそれ位は解るっての。まぁ、赤いは赤いが…どうみても兎の目には見え無いからな。それになぁ…やっぱお前、俺のこと舐め過ぎだ。」
と、洋平のパワーが目に見えて上がっていく。…ところで、目に見えとは言うまでも無く…黒い鬼人の鬼鎧が、砕かれ始めているということだ…浅くではあるが、少しずつではあるが…確実に…。
「甲羅を硬くしたくらいで、俺に攻撃を防げると思ったら大間違いだ。こちとら、腹の底から加奈子に突きあげられて、力が有り余ってるんだからな。…それに…。」
と、どういう事だろうか…。洋平が黒い鬼人の胸元の前で、右拳を止めた。そして…、
「今度は…こっちがお前を罠にはめる番だ。」
そう言うと洋平は、何を思ったのか、黒い鬼人の胸板をポンッ押した。ただそれだけのこと…。
しかしそこは鬼人の腕力。たった『それだけのこと』でも、黒い鬼人の足は一歩、二歩と後ずさって…そこで何と、黒い鬼人の踵が瓦礫の…否、地面の中へと沈み込んでいくではないか。
強制的に視野を上へと振り向けられた黒い鬼人へ向けて、右拳を振り上げた洋平が言葉を放つ。
「それなっ、俺が健の為に作ってやった、墓穴だ。」
洋平の渾身の力を込めた右拳が、黒い鬼人心臓へと一直線に突き出された。
…それにしても、つくづく思う…流石は鬼人たちの口の端に上るだけのことはあるな、黒い鬼人と言うのは…。
黒い鬼人は虎の尾を踏んだかの様なこの状況下でも、あくまで冷静に、洋平の狙う心臓の周囲に鬼集中させ強度を高める。彼はこうやって、幾多の危機を乗り越えて来たのだろう。…だが、今度は…。
「何度も、何度も…だから言ってんだ…舐めるなっ。」
怒号と共に、洋平の拳が黒い鬼人の胸板にぶち当たった。…手榴弾でも握っていたのかと思う様な爆音と、激烈な紫鳶の閃光が響き渡る…。
千明でさえ思わず眉を潜めた程の大激突と末に、黒い鬼人は…、
「こ、これは効いたぁ…フフッ、ここまで目立つ傷を付けられたのは、初めて…ですよ。」
と、胸に刻まれた大きな亀裂を覗きこむ様に俯いて…まだ、よろよろと後ずさりを続けている。
洋平はと言うと…、
「俺だって、伊達で爪が食い込むほど強く拳を握りしめちゃいないさ。血の出る様な思いをするのも、ギリギリまでパワーを絞り出すためならばこそってことだ。…たくっ、まったく人生最高の手応えだったぜ。」
と、手首の先から切れに爆砕した右腕を見た。
黒い鬼人はまだ、後ずさりを止めようとしない。…いや、それとも、
(まさか、あの黒いの…鬼鎧の制御が出来ていないの…。深手を受けて、一気にあの人喰いの鬼を内部に送り込まれたから…。)
その千明の推測が正しければ、後ずさりを止めないのではない…止められないと言う事に成る。そして、黒い鬼人とってただでさえ悪い状況が、さらに悪化する。
「そのまま行くと…さっき俺が溶かして、まだ固まりきって無い地面があるな。まっ、確かにお前は、他人の墓穴なんかに収まりきる器じゃないよな。それも良いと思うぜ。」
そう言って洋平が、黒い鬼人の後を追いかけ、歩み始めた。
「右手が有ろうと、無かろうと、そんなことは関係ない。なんせ、俺の命はもうじり貧だ。例えお前を、両手と、尻尾で追い詰めて倒したとしても…その後に、お前の身体から心臓を引っ張り出すだけの力は残らなかったよ、きっと…。だから俺がお前の心臓を喰らうには、片腕を二度失う恐怖を味わったとしても…最初から、こうするより他に方法は無いと思ってたんだ。」
恰も、既に死んだ生き物の肉をさばく様な、平静な洋平の声。それを耳にした千明は、身体中を凍りつかせる様な寒気に、思わず、
「なにぼんやりしてんの、しゃんとしなさいってば。…ねぇ、本当に…死んじゃうわよ。」
洋平はチラリと千明の方を顧みて、小さく笑った…。
「俺も心の隅っこの方では、お前に生きて欲しい…生きてお前の女の前で赤っ恥をかいて欲しいって思ってるよ。本当さ…。そしてそれと同じくらいには…このまま人喰いとしてでも良い。心を失った餓鬼に成り下がったとしても、俺の心が無くなるまでは、一分でも、一秒でも長く生きたいと思うんだよな。」
「それで…良いじゃないですか…。」
と、千明には返事をしなかった黒い鬼人が、洋平の言葉を掛けた。
洋平はもう一度、笑った。
「そうだな…最低な、クソ野郎で、人喰いの俺だけど…せめて、お前に生きて欲しいのと同じくらいなら、生きるよって…言ってやっても良いかもしれないよな。」
洋平は黒い鬼人の正面で立ち止まった。そして左拳を振り上げる。
「どうやら、お前のおかげで後もう少し位なら、貪欲な鬼人で居られそうだ。その後でなら、鬼姫さんに八つ裂きにされても悔いは無い。…何も、『後悔』するようなことは無いんだ…。そう言う事だから…俺のこの牙にとっておそらくは、最後になる仕事をさせてやる為に…お前の心臓を引き摺りださせてもらうからな。」
紫鳶の鬼が、鬼鎧の内部を駆け巡り、洋平の左拳へと流れ込んでいく。…紛れもなく、洋平の全ての鬼がそこへと集結しているのである。
先のことなど全く考えてはいない…左拳が砕けるであろうことなど…鬼を大幅に消費して餓鬼化が進行することなど…千明になぶり殺しにされるであろうことなど…そして、生きている限り自分は、永遠に加奈子への恐怖の虜であることなど…そんなことなど、今の洋平には、関係無いのだ。
後はもう、黒い鬼人が自らの墓穴の上にたどり着いたところで…そこに己の全てを叩き込めばいい。…と、渾身の力を溜めに溜めて待ちかまえる洋平に、黒い鬼人が死地まであと一歩と言う所で問い掛ける…。
「『牙にとっての最後の仕事』…。それは、左手も砕け散った後で…僕の身体を喰い破り、心臓を食べると言う仕事ですか。」
「その通りだ。じゃあ悪いんだが、もう一歩後ろに下がって貰えるか。」
「良いですとも。…だけどその前に…鬼人の牙と、口は、そんな事をする為にあるんじゃないんですよ。」
「またその問答かよ…解ってるって、『流』を起こして、無理矢理に自分の鬼を活性化させるためにあるんだろ。」
「違いますよ。」
「はぁっ、じゃあ何のためにあるって言う積りなんだ。」
「それは当然…おっと…。」
答えを言おうとした黒い鬼人の足が、バランスを崩して一歩後ろへ。その瞬間、反射的に洋平の左拳も動き出した。
洋平の思惑通り、地面を踏み破って沈み込んでいく黒い鬼人の身体。そして黒い鬼人の胸の傷へと今にも到達せんとする拳。
千明も白銀の瞳を見開いて…、
(終わる…。)
そう張り裂けんばかりの感情を内心に刻み込んだ…その瞬間だった。
沈み込みきったと思われていた黒い鬼人の脚が…更に深く、地面の底へと落ち込んで至ったのである。
そして…黒い鬼人の脚が、膝の辺りまで土に埋まったことにより…洋平の拳の当たるべき場所が…ずれた。
左拳が、首を寝かせた黒い鬼鎧の頭部…そのたてがみに似た部分を砕いて、空を切り裂く。その直後、ズンッという重い衝撃に、紫鳶の鬼鎧が震えた。
紫鳶の瞳が静かに目線を落とすと…黒い右腕が、洋平の心臓の有るべき場所を貫いていた…。
「鬼人の牙がどうしてあるか…そんなもん、敵を嘲笑うためにあるに決まってんだろ。」
黒い鬼人が目を真っ赤に腫らして、笑う…。
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風の無い路地裏で、朝日が息をする様に波立つ…。
黒い鬼人は洋平の胸を貫いた腕を、ぐるりと180°回転させてから、一息に引き抜いた。その反動で、洋平がよろめく。
「くっ…ククッ…ホントに空っぽでやんの。」
黒い鬼人の腕に研磨されて、奇麗な円筒形の風穴が開いた心臓部。洋平はそれを見て笑った。
その穴からは、肉片の一欠片すら見当たらず…洋平の胴体の全てが紫鳶の結晶に取って代わられた事実を、今更ながらに浮き彫りにするかの様な…そんな光景だけが向こうまで広がっていた。
千明は大きな溜息を一つ。それでも、その表情は浮かなかった。
(ほん…っとに危なっかしいんだから…私の心臓までどこかへ行っちゃうんじゃないかと思ったわよ。だけど、これでやっと…眠れるよね…。)
千明は心の中でそう呟いて、黒い鬼人を、洋平を見つめた。
そして、もう一人…黒い鬼人はと言うと…膝まで地面に埋まった右脚を引っ張り上げてからは、地面にどっかりと胡坐をかいて、さも可笑しそうに、止めどなく笑いを漏らしていた。
その黒い鬼人のあまりの無防備さに、洋平もようやく思考を一巡させて、今の自分が死中に居ることを思い出したようだ。
「お前、何を余裕こいてんだよ。まさか、身体に穴を開けたくらいでもう、俺に勝ったと思ってんじゃないだろうなぁ。てめぇにも、ちょこちょこと詰めの甘いところがあるようだが…元より、俺の心臓は喰われちまってたんだ。この程度、痛くもかよくもねぇんだよ。…それどころか、風通しが良くなって清々しいくらいだ。」
と、強がる声に充ち溢れる自信からも、洋平にとってこれらの言葉がただの虚勢ではない事がうかがい知れる。ならば…そして鬼人ならば…気力が衰えていなければまだ闘える…『遊び』続けることが出来る…命ある限り…。
しかし、洋平のその意気込みをぶつけられても…黒い鬼人にはてんで暖簾に腕押し。それどころか、洋平の活気ある態度に対しても、まるでそよ風に軽く撫でられた位に、
「まったく、ご立派な事だ…。」
と、どこ吹く風。笑ってまともに取り合おうともしない。
「お前、ここにきて勝負を放棄する気じゃないだろうな…。」
洋平の声は怒りに打ち震えていた。…そして、その怒気が乗り移ったかのように、紫鳶の鬼鎧も小刻みに震えだした…。
黒い鬼人は洋平の怒りがそんなに面白いのか、更に、大きく笑う。
洋平は左拳をやや引いて…そして、拳を打ち込む前に無礼な黒い鬼人に一言喰ってかかろうと…だが…。
洋平は黒い鬼人の笑い声の中に、嘲笑う様な、そしてどこか抗議するかの様な響きが宿っていることに気付いて…その舌鋒と、左拳の切っ先を下ろした。
洋平のそんな様子に、黒い鬼人は大きく深呼吸をする。そうして喉から、舌の根を痛めそうな酷な笑いを収めると…振るえる左腕を持ち上げて、洋平の尻尾を指さした。
「そっちこそ、『心の隅っこの方で俺に生きて欲しいと思ってる』、とか言っておいてさぁ…本当はあんたの心臓から…いいや、心の芯から俺を生かしたがってた癖に…。でなきゃ、そうはならないって…。」
洋平は黒い鬼人の言葉に何の気無しに…不思議なことだが、本当にまったく何の気無しに、尾を目の前へと運ぶ。そこには…尾の全体に平がる亀裂が…。
そして、洋平が尾の有り様に驚いたのも束の間。おそらくは、そんな状態の尾を動かしたことも災いしたのだろう。
洋平の尾の内側から紫鳶の光がかき消えた次の瞬間…洋平の尾は繊細なガラスの割れる様な音を残して、粉々に砕け散ってしまった。
「蒐祖に縁のある鬼人とって、尻尾とは己のコンプレックスの具現化。そしてあんたも知っての通り、鬼鎧を自らの意志で解く時には、そうやって理性の上っ面が最後まで残る。それを自らの意思で砕くことでようやく…鬼人は人の姿に戻れるってことだな。」
洋平は、そんな黒い鬼人の話声を潮騒のように聞き流しながら、震えの止まらない左手を見つめていた。
洋平にはちゃんと解っていたのだな…。短い付き合いだが、言葉からも馬鹿丁寧さが消えているが…黒い鬼人が何を言いたいのかを…。
それでも洋平は尋ねる。
「もっと解りやすく言ってくれよ。お前が何を言いたいのか、解んねぇよ…。」
黒い鬼人は大きく、聞えよがしに苦笑して、
「知らん振りか…俺は許しても、あんたの腹の底に居座ってるあんたの女は、許してはくれないじゃないか。…んっ、あぁ、この話題は墓場まで持ってく約束だって言いたいんだろ。別に良いじゃないか、だってここが俺の墓穴だって言ったのはあんたの方だろ。…なんてな、ハハハッ…。」
黒い鬼人は思うさま言葉を弄してから、
「だけど、まぁ…。」
と、手を着いて自らの墓穴の上に立ち上がって、
「死んでるのはこれ位にしておいて、そろそろ…俺も最後の一仕事をさせるとするか…俺の『牙』にな。クククッ…。」
「おい、そこは俺が笑うところだろ。…『お前には牙なんてないだろ。笑わせるな。』ってさ。」
「何言ってだよ。フフフッ…貴方だってさっきからずっと笑っているじゃないですか…。膝やら、肩やら、首やら…それにあんたの牙もな…。」
洋平はゆっくりと左手で鬼鎧の口元に触れた…カチカチと、確かに笑うかのように震えていた。
そして黒い鬼人も肩を震わせて笑っている。
「あんたも随分と、鬼人らしくなったじゃないか。」
「そうかよ、別に嬉しくもねぇな。それよりこの震えは何だろうな。なんか、力が入らない様な気もするんだが…って、おいっ、笑ってばっかりいないで少しは教えろよな。」
ここにきて、黒い鬼人が突然の大笑い。…そうかと思えば、今度は必死にそれを抑えようとして…それでもどうも堪え切れない様で、クスクスッと含み笑いが漏れ聞こえている。
こうなれば仕方が無い。この状況で洋平の疑問に応えられる者はただ一人なのだ。
「それは多分、あんたの内心が…あんたは鬼人としての主要機関である心臓を失ってしまったのに…それなのに、自分がまだ生命活動を続けているってことのギャップに耐えられなくなった。きっと、そういうことでしょうね。」
洋平は、横目で病的に笑い続ける黒い鬼人の様子を気にしながら、千明に問い返す。
「心臓を失ったギャップだぁ…何を今更…。俺が心臓を喰っちまってもう、結構な時間が経ってるんだぜ。だいたい、俺の内心はそんなことでガタガタ言うほどやわじゃねぇよ。」
「心臓を無くしたと知っているのと、実際に無くしていることを目の当たりにするのではやっぱり違うんじゃないの。それに…私にもはっきりとは解らないんだけど…多分、あんたにとって…あんたの心臓って言うのは…なんていうか特別なんだよ。」
「特別…って、どう特別なんだよ…。」
「それは…だから、私にははっきとは解らないって言ったじゃないの。」
と、何やら、千明と洋平の間がヒートアップし始めた所で、
「代わりますよ、鬼姫さま。そこから先は、僕のこの『口』の仕事ですからね。』
黒い鬼人がようやく笑いを鎧の下に押し込めて、千明から話を預かった。それに口調も丁寧さが戻ったようだし、これで一安心というところ…では無いのは、千明の、洋平への苛立ちすらどこかへ吹っ飛んだ様な、面喰った表情を見るまでもなく明らかだった。
黒い鬼人の砕けた左腕を、その亀裂を、眩いばかりの鬼の輝きが溢れ出し、埋めていく。ただし…漆黒の妖光では無い…恰も、深紅の血脈が露わになったのかと思わせるような、緋色の…彼本来の鬼の輝きが、損傷分へと注ぎこまれているのだ。…否、それだけでは…無い。
黒く、本質を塗り潰したはずの鬼鎧の中を…幾筋も、幾重にも、血管が蔦を伸ばすように、紅黒い鬼が縦横無尽に広がっているのだ。これは…何と危うい…そう、ぎりぎりの所で保たれているようなこのバランス感は…何と心細く、そして、何と人間的なのだろうか…。
「そんな、嫌なものを見る様な目をしないで下さいよ。僕だって本心では二度も本性を曝したくは無かった。ですが、鬼を圧縮して、内心を抑制したままでは、どうしても笑いを堪えられなかっただから仕方が無いじゃないですか。…まぁ、これでも、いつまで持つか解ったものじゃないという意味では大差いないんですけど…。」
と、話がすぐに脱線しかける所を見ると…どうやらその場しのぎとは言え、黒い鬼人は土俵際で鬼人としての自分を保つことが出来ているようだ。
そして黒い鬼人は洋平の方へ、黒と朱が溶けあう瞳を向けた。
「それがお前の、必勝のフォームって訳か…お前の戦い方を見て、なんとなくしっくりこないものを感じてたんだよなぁ…。だから詰まりは、手すきの時なら、尾の『能力』を最大限に活かした、鋭く、速い攻撃。そして、敵を掴んだならば一転して、『虚抜き』で敵の鬼鎧の強度を殺し、動きを殺し、それから…そうやって活動量の大きい紅い鬼を血管状に張り巡らせて、一気に相手を投げ飛ばす…と、そういう感じなんだろ。本当の、お前の攻撃パターンは…。」
それに黒い鬼人は、緋の灯り噴き出す左腕を撫でながら…どこか言い訳するかの様に…、
「大正解ですよ。ただ…普段なら、こうして本性の鬼を張り巡らせるのは、相手を掴んでいる手の指先から、肘に掛けての範囲くらいでしょうか…。でも、だからと言って、先ほどそれを貴方に対して行わなかったのは、別に…。」
「あぁ、解ってるって…気を遣って貰わなくても、ちゃんと、解ってるよ。」
と、洋平は、黒い鬼人の弁解がましい言葉を、事も無げに遮ってから、
「手加減していた訳じゃないって言いたいんだろ。いいさ、それだけ俺が…易々と、お前に力の出し入れをさせない程度には強かったんだな…と、勝手に自惚れてるから、気にすんな。それにしても、やっぱ、お前は大したやつだよ。スゲェってことなら、まぁ、鬼姫さんが頭抜けてるのは仕方ないことだが…流石の鬼姫さんでも、そこまでは自分の潜在能力を引き出せてないだろうからな。…あぁ、逆に、引き出すまでもないって考え方もあるのか…。まっ、何にしても、掛け値なしにギリギリまで…それこそ極限まで自分の力を掌握してんだからな…堪能させてもらってるよ、お前ご自慢の集中力を…大したやつだ。」
そうしみじみと褒める洋平の言葉が、心情が…まるで、彼自身の実力に裏打ちされているような…千明にはそんな、重い信憑性を抱えているかの様に聞こえた。…洋平は死の間際に、それほどの境地に到達し得たということなのだろう。そう…おそらくは、加奈子の存在を胸に抱いて…。
黒い鬼人の痛ましいまでの紅が、朝焼けに流れ出し、大河と成りてこの路地裏を…三人の足元を通り過ぎていく。時間も、命も…それに、学校の始業時刻も…そうも悠長には待ってはくれないようだ。
洋平は人の身に纏わりつき、鬼人と成った今でもわずかに残る、そんな…あらゆるものにせっつかれる様に、言葉を次ぐ。
「それに…何が大したやつだって言えば…俺の醜態を嘲笑いたいのを我慢してまで、わざわざ、鬼姫さまじゃ足りない部分を補ってくれようってところもか。まったく、ありがたくて、泣けてくるね。」
洋平がそう言って誘う様に笑いかけるのを、黒い鬼人は、
「ご期待に応えて、噴き出さない様にだけは気を付けないと…フフッ。」
と、これは長く持ちそうにない事は確かなようだ…。
「心配すんなって、ちょっとの間くらいなら俺が、お前の笑いを止めといてやる。」
そう言うと洋平は、黒い鬼人の心臓の辺りを左拳で殴る。
戦慄く手にはまだ、かなりの力が握られている様だ。洋平の一撃に亀裂の走った黒い鬼鎧が更に砕けた。…だが…黒い鬼人の心臓を引き摺りだすには、浅すぎる…。
洋平は我が身の重さを堪える様に、気だるげな舌打ちを一つ。
「チッ…お前の心臓にさえ届いていれば…。」
「僕の命にも届いていたでしょうね。そして貴方の命は助かった…かも知れない…。そう、貴方にとっては、心臓とは命そのものだった訳だ。」
「あっ、そりゃ誰だって、心臓は命そのものみたいなもんだろ。心臓が無くなりゃ人間なら即死だし…鬼人だってな…。」
と、洋平は震える手で左胸の空洞の縁を撫でて、
「心臓が無くなっちまったら、長生きは出来ないからな…。だからこそ、お前の心臓が…お前の命が要るんだよ、俺には。」
洋平が再度、黒い鬼人の胸板の亀裂を突く。抉る様な拳が、透明な鬼鎧の表面を砕き、剥がした。そして…それに呼応するように、黒い鬼が鬼鎧の内部で拡がっていく。
朝焼けがその色を仄暗く変えたとき、紅と黒に染まった一匹の鬼人がポツリと呟いた…。
「生きる為に命を奪うか…本当にシンプルで、本当に罪深いことだ。だからこそ…人は、生き物の死を食べていると言う後味の悪さに目を瞑りながら…それでも口にした肉を噛み締める。そこに罪悪感など無い。有るのは、舌の上でどろどろに溶けた甘美な現実感だけ…フフッ…。」
「それがどうした。そんなのは、人間だけじゃない…この世界のほとんどの生き物が、大なり小なり加担していることだろうが。」
「そうですね…でも、『食べる』という行為自体に罪悪感を覚えるのは人間だけ…そして…己の内心を纏って鬼人と化すのもまた人間だけ…面白い符合だとは思いませんか。」
黒い鬼人にもし牙が有ったのなら、こんな皮肉な笑いを噛み殺すことが出来たのだろうか。…もしそれが出来るのだとしたら…紅黒い鬼人のフェイスマスクに牙が象られていない理由が、何となく解る気がしてくる…そして彼が、フェイスマスクに刻まれた真一文字の傷を塞ごうとしない理由が…。
笑いとは…楽しい、嬉しい…そんな感情を誰かに伝える為の存在。
そしてもう一つ。以前にも記しましたことだが、笑いには別の面が在る…それは…笑いとは、敵を威嚇する表情から生まれたと言う事だ…。
人は困難を嘲笑う事で己を鼓舞し、敵に、そして危険に挑む。立ち向かっていく為だからこそ、牙をむき出しにして笑うのだ…だから、
「僕は夏芽という存在に立ち向かう事はしませんでした。きっと、そんな僕の臆病な気持ちが、このフェイスマスクを埋めて、僕から鬼人の牙を奪ったんでしょうね。僕には、鬼人として誰かを…貴方を笑う権利なんて無いんですよ、本当はね…。だから…貴方に『笑ってくれ』と言われた時には、つくづく思いましたよ。僕はなんて、自分の気持ちを表現するのが下手なんだろうって…僕の内心は笑い方さえも忘れてしまったんですから…。」
「なんで突然…話が『笑う』ことの方に逸れんだよ。あんまり脱線してるとまた、鬼姫さんにどやされるぞ。」
「そうですね。でも、これはまんざら『食べる』ということと関係の無い話ではありませんよ。それに…。」
と、黒い鬼人は穏やかな笑気を吐き出して、
「貴方が笑いたそうにしている…そんな気がしたものですから…フフッ。」
洋平は黒い鬼人のおどけた笑いを聞く度に、吐き出す前に毒気を抜かれる様な…なんだか物足りない、それでいて喉のつかえが取れる様な…そんな不思議な虚脱感を覚えていた。
それでも…洋平はそんな感覚を不快だとは思わなかったのではないだろうか。だから、洋平は大きく開けた『口』を言葉を探すかのように振るわせて、
「じゃあ、お前が俺の代わりに笑ってくれてるってことになるのか…。」
黒い鬼人は…これは間違い無く彼自身の笑みだろう…洋平の言葉に小さく苦笑を漏らした。
「僕はただ貴方が笑うから釣られて笑っているだけですよ。」
「そうか…お前は俺の『鏡』だったよな…。そう言う事なら不思議は無いよな。…んっ、だとしたら、俺は…『食べる』ってことに罪悪感を覚えるって話に笑っていたってことになるのか。ハハッ、まぁ、心当たりがあるのは確だよな。そうか俺は笑ったのか…。」
と、洋平はクックックッと、さも可笑しそうに笑った。そして、胸にぽっかり空いた穴の縁をなぞっていた手を、少しだけ下げて…洋平は鬼鎧の腹を撫でながら呟く。
「こんな…好き放題、内側から突き上げられていてもまだ…俺は加奈子に立ち向かおうとしていたんだな。ククッ…あぁ、そうだよな。それだから俺の尻尾は、役目を終えて消えたんだな。俺が本当に怖がっていたのは…死なんて言う明日の話でも、人として生きていた昨日の事でも無かったんだな。」
洋平は腹部に落としていた紫鳶の瞳を、紅黒い鬼人へと向けた。
「お前はずっとそれに気付いていたんだな…そうなると、俺とこうして居ることも、お前にとっては暇つぶしってことなんだろ。もうちょっと良い奴なのかと思ってたよ。」
「僕だって鬼人ですから。それと…僕はただ…もし、今日死ぬことが食べられるだとしたら…彼女に僕の命なんかを背負って生きて欲しいとは思わないし…もし、今日生きることが食べることだとしたら…僕は…明日訪れる死に、今日殺されたとしても構わない。そんな事を…昨日も、今日も、それに多分明日も思っている…それだけなんですよ。」
「ハッ、格好つけやがって…ったく、嫌味なやつだ。俺が進みたくても、進めなかった道の上に居るんだからなお前は、感謝しろよな…まっ、誰にとは言わないけどな。」
「僕は貴方の様に、後ろを振り向いて彼女を直視する勇気が無かっただけです。それに…もし、貴方より先に加奈子さんが鬼人へと生まれ変わっていたとしたら…。」
「言うなっ。…言わない約束だったろ。」
洋平が、低く、静かで、そして…塗りつぶし、己の内心から消し去ってしまったあの理性の様に…透き通った声で、黒い鬼人の言葉を制止した。
「心配しなくても、俺が言うからさ…だから…お前は…もし頼めるのなら…俺の代わりに、笑って居てくれよ。…加奈子に言ったら、その時には…俺の最後の力で、お前の心臓を奪う。だからそれまでは…そのお前の本心で…笑ってくれ。」
黒い鬼人は右拳をギュッと握りしめて、
「クククッ、えぇ、僕ももう、我慢できそうにない…。」
と、何を思ったのか、黒い鬼人が突然に自分のフェイスマスクをガンガンッと殴り始めた。
洋平にも、紅黒い鬼人が何をしようとしているのかは解らない。だが彼には、黒い鬼人が今やろうとしていること…その意味するところは解っている…解っているのだ…。
自分の口元をしこたま殴った黒い鬼人が、今度は…深く、大きくなったフェイスマスクの傷に…ズブズブと両手の指をねじ込んでいく。そして遂に…紅黒い鬼人は力任せに…フェイスマスクの『口』を開いた。
「お互いに随分、長々と女を待たせたけど…決着、つけようか。」
『口』から引き抜いた指の先を見れば、なんと…彼が拒んだはずの鬼人の『爪』が、妖しい黒い光を滴らせている。
そんな、紅黒い鬼人の言葉を待っていたかのように…紅黒い鬼が、洋平に責め苛なまれ、ボロボロに成った鬼鎧を突き破らんばかりに暴れ始める。…この鬼の活性化の仕方は…見紛うはずもない…。
(『流』…あいつにも流れが使えたんだ…。ううん、そうじゃないわね。局所的に鬼の圧縮を止めて、あいつ本来の…あの気色の悪い色を、鬼鎧の内側全体に這わせたからこそ…あいつにも『流』が使える様になったのね。だけど今更…『流』なんて身体に負担のかかる様なことして…いったい…。)
千明は吸い寄せられる様に鉄骨の上から立ち上がった。そして、黒い鬼人の…その顔を見て、ポツリと…、
「あいつ…笑ってるの…。」
千明がそう呟いた通り…黒い鬼人の顔はまるで…歯の無い口をカッと開いて、笑っているように見えた。
それはこの上もなく醜悪で、それでいて…否、それだかこそ…ただただ、可笑しいのだ。
「はぁ~あっ。」
千明はそう呟いて、にっこりと笑った。
それは呟いた声そのままの、やれやれと言いたげな笑顔。けれど千明は、欠伸の時には決して感じることの無かった頬の緩みと、表情筋を動かす充足感を覚えていた。
そうして…千明が、周囲に張っている鬼膜に費やす鬼を、そして意識を、これでもかと言うほどに高め始めた。
そうなると当然のことだが…鬼を吸い取られる様な、そして無理矢理に力を引っ張り上げられる様な感覚に…黒い鬼人と、洋平が千明の方を向いた。
その四つの瞳に抗議の意味合い見て取ったのだろうか。千明は両手を腰に宛てて斜に構えると、
「何よ…別に良いじゃない。あんたたちだって派手にやる積りなんでしょ。だったら私も、あんた達のやらかす馬鹿に、一口乗って上げるって言ってんの。あんた達が好き放題に壊した後始末をするのは私何だから、それくらいの権利が私にだってあっても良いでしょ。」
まぁ、それを言われるとなぁ…。
「俺は良いよ。…と言うより、止めてくれって言って、止める女にじゃないだろアレは…。」
と、洋平は黒い鬼人の方へと振り向いた。
今や、『流』での鬼の活性化がピークを迎えている黒い鬼人は…意外に冷静。小さく、そして応えるのも億劫そうに溜息を吐いて、
「どうせ一回っこきりの勝負だしな。好きにすると良いよ。」
と、馬鹿丁寧さが剥がれた彼の口調に成れていないせいだろう。まるで親しげに言葉を投げ掛けられたかのように、千明はどぎまぎして、
「あ、えっと…そ、そう、じゃあ…せいぜい、派手にやりなさいよね。あんた達がどれだけ暴れよと、遮音と、耐衝撃は、私が責任もってやるから…。」
白い肌、赤らめた頬。そして白銀と、朝焼けに染まる路地裏。
瓦礫の中で向かいあう二匹の鬼人は互いに、如何に強く、大きく命を燃え上がらせるかを競うかの様に、鬼鎧に宿るそれぞれの鬼を輝かせ始める。
紫鳶の光はまさに洋平の命そのもの…そして今、その自らの命すらも突き破らんとしとする力を全て、相対する者にぶつける力へと変えていく。
紅黒い光は自分を偽ることを止めた色なのかも知れない。だから、そこには解放感と、悲壮感が見え隠れしている。…自分に素直で居ることほど不自由なことは無く、自分を偽る事ほど疲れることは無いのだから…。
その紅黒い光に照らされた足元が、ミシミシと音を立てて潰れている。千明はその音に耳をそばだてながら、
(重量を増やしてるわね。…黒い鬼だけを使っている時から見れば、効率的とはお世辞にも言えないけれど…そう、あくまでも『能力』を駆使して勝負をつけようって積りね。)
と、自分にも黒い鬼人の重みが加わったかの様に、鉄骨の上へストンッと腰を落とした。…って、どうやら、少し強く打ちつけてしまったようだ。視線は二人から外さず、顔色も変えてはいないが…無言でヒップを摩っている。
思えばこのお嬢の天然っ振りに、この殺伐とした空気の中、何度も救われた気がする。
そう言ったとしても多分、あの二人も…まぁまぁ、笑って見逃してくれることだろう。
黒い鬼人の脚がさらに広く、舗装された地面を砕いた。
その振動を利用して、ガクガクと笑う洋平の脚が5、6歩、大きく後ろに下がる。…確かに、間合いとしてはこのくらいで十分であろう…そして洋平は、胸にポッカリと開いた穴を塞ぐように左手を宛がって、呟くのだ…。
「なぁ、知ってたか。ぶつかるものの威力の大きさは、そいつの重さに比例するんだってさ…要するに、あいつは本気で俺を粉々にする気だってことだな。…そして…自分の鬼を黒く圧縮していない今のあいつの鬼鎧なら、俺が…お前が俺を突き破ろうとしている力に乗っかって拳を突き出しさえすれば…それで、あいつの鬼鎧も粉々ってことになる。…なぁ、どうする、加奈子…。」
洋平は胸板に被せた左手にわずか隙間を作ると、真っ暗なその洞を覗き込み、続ける。
「あいつはこうも言ってたな。『重いものからは、力を消しきれない。』とかなんとか…。あ、それがどうしたって…フフッ、だからな、あいつはあの状態から超高速のダッシュを掛けるとなると、多分、尻尾の『能力』を使っても止まることが出来ないし、途中で進行方向を曲げることも出来ないってことだよ。…そう、俺の方へ真っ直ぐ突っ込んでくる訳だな。しかも空気の抵抗なんてお構いなし、その上きっちりと尻尾の『能力』で、蹴りだす足からあっちこっちに分散する力を最小限に抑えるはずだから…。まず間違い無く…俺の拳があいつを砕くか、あるいはあいつが俺を砕くかしない限り…あいつはどこまでも真っ直ぐにぶっ飛んでいくだろうな。」
と、洋平が…ほろ苦く、どこか甘い余韻を感じされる笑いを漏らした。
一頻り笑いをこぼして、洋平は内なる誰かに弁解するように、そして心底から楽しそうに、
「んっ、あぁ、悪い悪い。だってな、あいつ、『趣味じゃないから真っ向勝負は絶対にしない。』って俺に言ったんだ。なのに、最後の最後で、一番真っ直ぐなやつを選ぶんだもんなぁ。…まったくあいつときたら、人が良いのか、悪いのか…きまぐれなやつだってのは知ってるけどな。…だからさぁ、加奈子…どうするかって話なんだよ。お前だって、俺と一緒にあいつの心根に触れたんだから…解るだろ…。」
洋平は苦笑のさざ波を止めると…水面から内心の奥深くを覗きこむ様に、内心の奥深くから水面に映る自らの本心を覗かせる様に、小さく息を吐きだした。
「俺が勝っちまった場合、俺はあいつの心臓を喰って、生き恥さらすためだけの持ち時間が延長することになる。…まっ、それはどうでも良い事なんだが。問題は、その持ち時間があいつの命そのものだってことだ。んで、それは同時に…あいつが、お前も良く知ってる夏芽に告白する事が出来なくなるってことでもある…なっ、これは大問題だろ。もちろん覚えてるって、お前が人の恋ばなが大好物だったことは…。あぁ、確かにこれまでは素気ない態度とってたけど…仕方ないだろ、マジで他人事だったんだからさぁ…でも、今度のは、俺も一緒になって楽しんでるよ、正直な。こいうのが、仲人の心境みたいなことなのかな…。」
洋平は左手と胸の穴との隙間を閉ざすと…加奈子と二人分の目線を紫鳶の瞳に乗せて、黒い鬼人へと向けた。…彼の『流』は洋平とは違い、早くも鬼の活動量の減衰が始まっている様だが、それでも…黙々と力を溜め込みながら、洋平と加奈子の会話が終わる時を待ち続けていた。
そんな目の前の鬼人の良い所も、悪い所も知っている…だからこそ、洋平たちは笑うのだ。
「そうだな。俺もそう思うよ…あいつが夏芽に告ったら、夏芽はわりとあっさり受け入れるんじゃないかってな。だがそれは…夏芽にも…俺や、お前の様に、鬼人という自分の一面を気付かせることになるかも知れない。今のところは、あいつが、自分を自分自身の殻で押し潰してまで上手くやってはいるけど…一度お互いの距離感が変わると解んないぜ。俺達がそうだったみたいに…。でもまぁ、それでも一応は、俺はあいつの事を結構買ってるってことを付け加えておこうかな。…ハハッ、むしろ減点材料ってか。あいつに悪いことしたな。で、腹は決まったのか。お前を殺して喰っちまった俺には、夏芽の『これから』を心配する権利すらないだろし…俺の分の決定権もお前に任せるよ。あいつも口には出さないけどそう思って。…ただ、あいつは…俺と似ているところも多いんだけどさ…けど、あいつは俺なんかとは違って、お前が期待しても、ちゃんとその期待に応えてくれるやつだって、俺は…。」
…洋平のその後の言葉続かない。そして、傍目には残念ながら、加奈子からのどのようなシグナルさえも見てとることさえ出来なかった。
距離が離れている上に、ミシミシと言う音に阻まれて千明には洋平たちの会話は聞こえていない。黒い鬼人にしても、鬼の制御に手一杯でそれどころではないだろう。
そんな無機質な音に潰れた、耳鳴りの様な静けさの中で洋平が呟く。
「俺の首にはまだ、痛いほどにあいつの内心が食い込んでるんだ。だから、お前にもよく解っていることだろが、敢えて言わせてもらう。あいつは、俺とぶつかり合えば自分が粉々になるかもしれないことを理解している…。それを承知の上で、あいつは俺の最後の力に応えようとしている。だがそれは、なにも俺の為だけじゃないんだよ。あいつは俺やお前に託そうとしているんだ…あいつの『明日』を、夏芽のことを…。もしここで俺達に殺されたとしたら、それが自分と、夏芽のために最善だって本心から思ってるんだぜ、あいつは…本当、馬鹿なやつだよな。あれだけの鬼人としての素質に恵まれてるのに、こんな重大な場面でそれを信じずに、俺達の決断の方を信用してるんだからさ。それも命まで投げ出して…。なぁ、俺は死ぬまで…死んでも、最低の人喰い鬼人で良いんだ。だけど、あいつには…いや、あいつとお前には、鬼人とは違う命の残し方を選んで欲しいんだ。…お前が、夏芽を守った時の様に…。悪ぃな、本当に自分勝手なことばっかり言って。」
…消え入りそうな呟きから数秒の時が流れ…洋平が胸元から左手を離す。そして、洋平は…ゆっくりと五本の指を曲げ、掌に開いた穴に再び爪を喰い込ませて…その左手をギュッと握りしめた。
「詰まりは、俺に餓鬼となって、苦しみもがいて、醜く生き恥を曝せってことだよな。了解した。…それに…そうだよな。夏芽はお前が命懸けで守った子なんだ。不幸になると知っていて、わざわざ鬼人の生き方に関わらせることもないよな…。」
洋平はそう言って、納得した様に、どこか寂しそうに笑った。
そして、左拳を肩の辺りに引き上げ、満身の鬼と、力を込めて…、
「…それにしても…あいつには可哀想な気もするが…俺はちょっとだけ嬉しくも思うんだ。なんでかって…それはな…。」
と、洋平は少しはにかんだ様に首を傾げて、
「お前も、あいつが夏芽に告ったら、夏芽が断るはず無いに決まってるって思ったんだろ。…だからなんだってことも無いんだけどな…お前と同じ様に思えたって、たったそれだけのことが…なんか、無性に嬉しかったんだ…。例え、お前が俺の妄想の産物だとしても…俺にはそれで十分。勿体ないくらいだよ。…って、容赦ねぇなぁ、加奈子は…。」
大口を開けて微かに笑う、洋平。その紫鳶の瞳が白く濁っていく…まるでこの路地裏から、どこか遠くの青空に浮かぶ入道雲を移した様に…。
洋平が魂が抜けだす様な溜息を吐きだしてから、黒い鬼人に語り掛ける。
「そう言えば、お前の名前を聞いて無かったよな。…いや、別に良いか…。俺たち鬼人にとってはそんなもの、どうせ空っぽの墓に掘られる名前でしか無いんだからな。俺が死ねば、お前は俺を殺した鬼人で…お前が死ねば、お前は名も無い餓鬼の一部になる。それで俺とお前の関係は事足りよな。」
洋平の言葉に、黒い鬼人は言葉を返すことはしなかった。しかし…朱漆色のその瞳が、どんな音よりも雄弁に訴え返していた…『覚悟はもう、出来ている。』と…。
洋平もその黒い鬼人の心情を察して頷く。
「俺にはもう、脚に回している鬼も、力も無い。そういう訳だから、不本意だが先手はお前にくれてやる。いつでも好きな時に掛って来い。お前のぶちまけるもの全部、俺が砕いてやる。」
その洋平の勇ましい宣言に、紅黒い鬼人は拳を握り、圧し掛かるものに踏ん張って耐え抜く様に、鬼鎧に力を込める。
そして…開いた『口』から烈々たる咆哮を上げ始めた。
それは、獣の遠吠えとは明らかに異質な…まるで荒れ狂う暴風が通り抜けていく様な…そう、まさに鬼人の咆哮そのものであった…。
この鳴動に、全ての生き物はひれ伏し、頭を抱えて震えるしかあるまい。唯一、彼と同じく鬼人の巷を生きる鬼人達だけが…興奮にうすら笑いを浮かべ、武者震いで身体が燃える様に熱くなる。
千明も我知らずの内に、白銀の鬼膜で二人を掻き立て、駆り立てる…その最中…。焦点を得た様な黒漆の瞳が、洋平の紫鳶の瞳へと視線を放った。
「来いっ。」
洋平のその声を合図に、黒い鬼人が一直線に洋平へと…否、洋平と、加奈子へと突進する。
尾の『能力』で空気抵抗を無効化していないためか、黒い鬼人が飛び出した瞬間に凄まじい爆風が辺りを蹴散らし…更に…その渦中では未だ、さっきまで黒い鬼人が居た場所から咆哮が響き渡っている。
しかもそれが、一瞬にも満たない様な時間の経過の中で起こっている以上、二人の明暗が超音速領域での激突で別れることは、明白。
黒い鬼人は右肩を突き出してショルダータックルを、そして…洋平はそれを向かい打つべく、振り上げた左拳を遂に…放った。
強弓の如き剛腕が唸りを上げ、大気を裂きながら、黒い鬼人の咆哮へと突き進んで行く。
洋平には見える…この先の展開が…。
一秒をも経ずに、黒い鬼人の肩と、自分の左拳が重なる。その刹那、血脈の浮かぶ黒い肩の表面が、そして洋平の左拳の浅い部分が同時に潰れるであろう。…それが破壊の呼び水になるのだ…。
そして、潰れながらも相手に食い込んでいくのは、おそらく…いや、間違い無く洋平の拳。
それが肩へ幾分めり込み、圧力に耐えかねて…右拳がそうであったように…恰も、爆弾でも握り込んでいるのではないかと言う程の破壊力だけを残して、砕け散るはず。
無論、その瞬間には…黒い鬼人の鬼鎧も木端微塵に成っていることであろう…。
その後は、バラバラに成った残骸の中から黒い鬼人の心臓を探し出して、咥え上げればいい。それで、両手を、尾を失いながらも…洋平がこの『遊び』の勝者と成る…それが十二分に解っているからこそ…。
洋平は勝利を確信した弛緩と、孤高の高みに残される憂鬱に、感じるはずの無い胸苦しさに苛まれていた。…だが、それだって一秒も続く様な感傷では無いのだ。終わってさえしまえば、目の前のこの鬼人が…あるいは、明日喰らう見ず知らずの誰かが…この胸の穴を埋めて、洋平の代わりにこの苦しみを味わってくれるであろう。
自分自信の存在と、命と、離れ難いが故の苦しみを…。
黒い鬼人との交点に近づくほどに、凝縮され、加速していく洋平の思考。その只中、自分の思考が行き着いた答えに、洋平は…、
「俺は恐怖だの、生きる為だの…なんだかんだと理由をすり替えながら…本当は当り前ってくらいに、失ったものを埋められる何かを欲しがってたんだな。」
それは声に成らないほど小さな、小さな…無限に加速していく思考の狭間にまどろむ様な、心の欠伸の様なものだったかもしれない。だが、それでも…洋平は思うのだ。
「全てが後ほんの少しで終わる。それまでの間を、寝惚けていられるなら…こんな感覚に埋もれて行くのも良いかもな。…あいつをこの手で殺してしまったら、それで…俺が俺自身で居る意味も消えるんだ…だったらもう、役立たずのこの脳味噌ごと、俺の内心を餓鬼にくれてやるのも悪くない。…『あの日』にこんな風に思えて居られたら、お前を死なせずに済んだかな…加奈子…。」
それは、洋平の左拳が紅黒い鬼人と交わる…その寸前のことであった。
全てを投げ出してしまおうとした洋平の体内で、ドクンッと、何かが鼓動を打ったのだ。
洋平は口を開けっ放しで、背中まで貫いた痕を見下ろした。そこには…空っぽのはずの内心の要に、灰桜の淡い光が蹲っていた…。
洋平はその牙を振るわせながら、温もりを顔中に広げる様に笑った。
そして…まるで引き寄せられるように黒い鬼人に近づいて行く左拳を…未練に…運命に…逆らう様に、力ずくで自分の胸元にまで引き戻す。
洋平は広げた左手で胸の穴を塞ぐと…もう二度と失わない様に…投げ出せない様に…その爪を自らの鬼鎧にしっかりと喰い込ませた。
迫りくる黒い鬼人。洋平にはもう、それを迎え撃つことも、かわすことも出来ないだろう。だが…そでも…それでいいのだ。紫鳶の瞳がそう誰にともなく微笑んでいる。
洋平が赤く燃えるような空を見上げて呟く。
「加奈子、ごめんな…俺…怖かったんだ。生きられない事でも…死ぬ事でも無くて…だたただ、お前に心臓を喰われちまうのが…怖かったんだ。」
その瞬間、洋平と黒い鬼人が…いや、小太郎の身体が激突した。
二人を中心として、鼓膜を破る様な大音響が、そして皮膚を裂く様な衝撃波が乱れ飛ぶ。
さしもの千明も両腕で顔をかばいながら、しかし、白銀の眼光は鋭く二人の行方を見守っている。
(これってまさか…音速を超えたってこと…嘘っ。だって私の感覚では、あの黒いのが飛び出してから十秒くらい衝突まで掛って…。)
そう愕然として思考を巡らす千明の頭を、ズキリッと鈍い痛みが襲った。
しかしながら、その鈍痛のお陰で千明も気付くことが出来た様だ。…あの程度の距離を詰めるのに、あの黒い鬼人にはそもそも、十秒どころか、その十分の一の時間も必要では無いということを…。
千明のこの頭痛は、寝不足の頭を、一瞬が十秒にも感じる程に感覚を研ぎ澄ました…それほど頭脳を酷使したことから来たものだったのだろう。
だが、そんな果てしなく長く、それでいて一瞬より短い時間も終わりが来たのだ。小太郎との激突で、洋平の右半身は消し飛んでしまったのだから…。
半分に成った身体を地面にうつ伏せに…洋平は朦朧とした意識の中、消えかけた紫鳶の瞳だけは何とか燃やし続けながら…小太郎の姿を見上げた。
小太郎は両手でフェイスマスクを掴む。
それから、爪の鋭い十本の指を口元に突き刺すと、まるで、上顎と下顎と縫い合わせるかのように…メキメキッと、緋の筋に塗れた黒い鬼の結晶を砕きながら、潰しながらして、『口』を閉じた。…それを境に、小太郎の本性はまた…仄暗い黒へと吸い込まれて消えてしまう…。
「ふぅっ…お陰さまで、ただでさえ短い寿命が、更に縮みましたよ。ですが…まったく、笑いました。今まで生きてきて、これほど笑った事はありませんでしたから…それも、貴方のお陰ですよね。いやはや、笑い過ぎで、まだ顎が痛いくらいですよ。」
黒い鬼人に戻った小太郎が、潰れたフェイスマスクの笑顔を洋平に向けた。…引き抜いた両手の指からは…どこに落っことして来たのか…爪が無くなっていた。
洋平は横倒しの視界から、赤の和らいだ空を、そして地面から伸びる様な真っ黒な小太郎を見つめて…ポツリと…、
「なぁ、聞いても良いか…。」
「なんなりと…。」
「お前が牙と爪を無くしたのは…いや、牙と、爪を捨てたのは…夏芽を喰っちまわないためだったのか。」
「…さぁ、どうでしょうか…。夏芽のことを思えば思うほど…僕自身、自分がどうしたかったのか解らなくなる時があります。だけど…。」
と、小太郎はおどけた様に笑って、
「夏芽のことを『食べてしまいたい』くらい好きだって思える。それが偽り無い、僕の本心なんです。」
洋平は咳きこみながら小太郎に笑い返す。…苦しさなんてどうでもいい。笑い過ぎて、苦しくて、苦しくて死ねるなら本望だと…洋平はそう言うかのように何度も笑い返した。
「へへっ、なんだよ。やっぱり、闘う前から俺の負けだったんじゃないか…ハハハッ。」
黒い鬼人はそん洋平の前に跪いて、
「だから言ってるじゃないですか。僕は貴方にとっては単なる『遊び』相手に過ぎないって…貴方が本当に闘うのは…闘わないとならないのはこれからですよ。」
「…あぁ、そうだったな。…約束だ。どこへなりと連れてってくれ。ところで、一つだけ頼みがあるんだが…聞いてくれるか。」
「なんです、言って下さい。」
「もし俺を担いで持っていく積りなら…背中を上にしてくれないか。こいつだけは二度と、落っことして行きたくないからな…。」
洋平そう言うと、愛おしそうに、指の隙間から漏れる灰桜に紫鳶の瞳を向けた。小さく、弱弱しい瞳の光を…。
「承知しました。だけど僕がお連れするのは途中まで、そこから先へは…天国へは貴方が、ちゃんと彼女を連れてってあげて下さいね。」
「言われなくても、解ってるって…ったく、きついよな、お前の一言は…。」
と、可笑しそうに笑う洋平の背中を上にして担いで、小太郎はやおら立ち上がった。
白んできた朝日が傷らだけの黒い鬼鎧に滲みわたる。…と、くるりと向きを変えた小太郎の正面に、
「折角まとまった話に水を差して悪いんだけど…私に一言も無しで、勝手にそいつを連れていかないでくれる。」
立ちふさがったのは勿論、千明であった。
千明は白銀の瞳を爛々と輝かせて、不敵に笑う。
「その人喰いは、私の大切な人であり、私の大切な人のフィアンセでもあった人を殺した。それに健さんの同僚の、警察の皆だってそいつを八つ裂きにしたいって思ってる。…当然、私もね。…その人喰いを渡しなさい。貴方にはそいつと『遊ぶ』のに十分すぎるくらいの時間をあげたんだから、ここからは私のやりたいようにやらせてもうらうわ。」
そんな千明の言い分に、小太郎は小さく息を漏らして、
「鬼姫さまの仰り様はもっともなことだと思います。ですが…どうか、見逃して頂けませんか。僕はどうしても、彼をある所に連れていかないといけないんです。ですから、どうぞ…もう少しだけ僕達に時間を下さい。それが終わった後でなら、僕は貴女から逃げも隠れもしない事を誓います。だから、どうか…。」
「いやよ。そんなこと言って、どうせ私のことを騙そうとしてるんでしょ。貴方に信用あるとでも思ってたの。」
「どうしても…駄目ですか。」
「駄目。…だけど…貴方も、どうしてもそいつを連れてく積りなんでしょ。」
「えぇ、どうしても…。」
「なら、しょうがないわね。そいつの身柄を賭けて、今度は、貴方と私で殴り合いの勝負をしましようか。」
と、ニヤニヤしながら首を傾げて見せる、千明。
小太郎は…こんな状況でまでも、やはり…飄々として揺るがない。
「しょうがありませんね。それしか方法が無いのなら…こっちはいつでも構わないので、御随意に仕掛けてきて下さい。」
と、根負けしたのは千明の方だった。小太郎の馬鹿丁寧な言い回しに、遂に吹き出してしまった様だ。
千明は握った右手を肩の辺りに持ってくると、力瘤を作る様に可愛らしいポーズを取る。そして…、
「…本当にしょうがないんだから…今回は『これ』で、私の負けってことにしといてあげる。」
ズシンッと、重い一撃が小太郎の腹に打ちこまれた。…千明の右腕は、いつの間にか鬼鎧を纏っている…。
千明の鬼人の膂力を腹部にまともに受けて…小太郎は…、
「ありがとうございます。勝ちを譲っていただいた分は、後日、きちんとお返ししますから…僕に出来うる範囲で、ですけど…。」
と、何事も無かったかのように涼しげに答えた。…小憎らしい奴だ、つくづく…。
千明は小太郎の前に右腕を差し出して、
「当り前でしょ。ほら、これ…。」
と、右腕の鬼鎧を器用に解いて…開いた生身の掌には、折り畳んだ一枚のメモ用紙が握られていた。…しかも…彼女の力の入れ具合が伺える程度には…ぐしゃぐしゃに成った状態で…。
「これは…また…。」
そう恐々と、千明の手からメモ用紙を摘まみ上げる小太郎。千明は一先ずは負けたはずなのに、なぜか勝ち誇った様に、
「私の携帯の番号と、メールアドレス。二十四時間いつかけてくれても構わないから、万事終わったら連絡ちょうだい。あと…警察関係とか、それに、ここの惨状とか、諸々…その辺のことは私が何とか処理しとくから…あんたたちは満足のいくようにすると良いわ。」
「えぇ、そうさせて頂きます。それでは…。」
と、メモ用紙を鬼鎧の掌の中にトプンッと沈めて、小太郎がこの場を飛び去ろうとしたその時だった。
「ありがとな、鬼姫さん。あんたきっと良い女に成るよ。」
不意に洋平が千明に声を掛けた。
千明は、小太郎と顔を見合わせてから…、
「別にあんたの為じゃ…無いこともないか。まぁ、鬼人のかく乱ってやつだとでも思っておいて…私、寝不足だし。…って言うか、あんたには他の女に脇目を振ってる様な余裕は無いはずでしょ。」
「あぁ、違いねぇ…。」
小太郎の肩に負われた洋平は、そう言って笑った。そして洋平は、今度は、小太郎の大きな背中をぼんやりと見つめながら、
「おい、意識のある内に、もう一つ…もう一つだけ頼んでおきたい事があるだけどな…。」
と、その場から飛び去ろうと千明に背を向けた小太郎に、呟いた。
「聞きましょう。でも、特別ですよ。」
そんな小太郎の言い草に、洋平は飽くことなく笑いを漏らしながら…、
「『諦める』なんて言うなよ…。お前が惚れた女と一緒に居るのに理由が必要なら、胸張って言い訳すれば良いじゃないか。お前はまだ死んじゃいないんだ…言い訳して、言い訳して…それでもあいつと一緒に居る自信が無くなったなら…自分に言い訳すれば良い。何度だって言い訳すれば良いだよ。だから、諦めるなんて寂しいこと、言うな。…それでいつか…お前が言い訳したくなくなったその時には…ちゃんと、夏芽に…好きだって言えよな…。」
それきりで、洋平の鬼鎧のフェイスマスクは、カチリッと閉じてしまった。
小太郎は…尾をスルリッと波打たせて…、
「そうですね…よく考えておきますよ。まぁ、あっちで、期待しないで待って居てくれると助かります。」
と、そんな味わい深い言葉と、墨を虚空に流したかの様な残影を残して…小太郎と、洋平は、この路地裏から飛び去っていった。
路地裏の上の青空に白い雲が漂う。二人の飛び去る背中に掛けられた千明の、
「ちょっと、本当に連絡ちょうだいね。」
という声は…きっと、小太郎の超音速に置き去りにされてしまったであろう。
千明は呆れた様な苦笑いで、鬼膜を収め、ポケットから取り出した携帯電話の電源を入れた。
「えっ、嘘っ、今、八時なの。だって、遂さっきまで空、赤かったじゃないの。」
よっぽど驚いたのだろうな。千明から思わず独り言が飛び出した。そしてその声が、靄の様な白銀の鬼膜が晴れた空へと消えていく…。
千明は仰け反る様に空を見上げながら思う。
(あれはもしかしたら…私と、あの黒いの、それにあの人喰いの鬼の煌めきが朝日に混じって…ここに居る者にだけ、ずっと消えることの無い朝焼けを見せてくれていたのかな…でも…。)
と、千明は高い、高い、空に笑い掛けると、
「そのお陰で、私、眠る時間が無いどころか、学校にも完璧に遅刻だわ。」
そして大きな溜息を一つ。首を戻して俯くと…まったく忙しいことだ…今度は欠伸のお出ましの様だ。
千明は服の袖に口元を押し当てて、大きな、大きな欠伸を隠した。
それから、袖で涙を拭って…しかし、まだ視界がぼやけている。もう一度、拭って…それでもまだ、涙が止まらない。
「あれっ、可笑しいな…。」
千明は何度も目蓋を拭うのだが、涙は一向に拭いきれない。仕舞いにはごしごしと袖で涙を拭うのだが…、
「あれっ、あれっ、ホントに可笑しいな…私、鬼人なのに…。」
どんなに力を込めようとも、どんなに笑おうとも、千明の涙が枯れることは無かった。
「うっ…うっ…うっ…ぐすっ…。」
服の袖に顔を押し付けて泣き続ける、千明。
静寂の翳り取り戻したこの路地裏で、降り注ぐ朝の光は優しく彼女を包み込んでいた。
[39]
斜面を清澄な風が吹き抜けていく。
憂いや、喜びに満ちた記憶を空へと抱き上げ様に…ただ、青い草の香だけを残して…。
それでも今は…と、夏芽は在りし日の思い出を懐かしむかの様に…躊躇いがちに両手で包み込んで、優しい風の腕から蝋燭の火を守った。
小太郎と洋平があの路地裏で激突してから三日目の朝。小太郎と夏芽は再び、加奈子の墓参りにこの墓地へ訪れていた。
どうやら二人連れだって、登校前にこの墓地を訪れた様だ。二人とも学生服を身に纏い。近くの地面には、鞄が放り出されていた。…そうそう、地面と言えば…。
「ところで、地面のこの滲み…いったい、何だっただろうな。」
「加奈子のお母さんに聞いたんだけど、警察の人が言うには、猫の血だって…酷いことする人も居るもんだよね。」
「そうだな…墓の前で罰当たりも良い所だ。」
小さく笑ってそう応えた、小太郎。その足元には、確かに、血の様な赤い滲みが…恰も、地面に擦りつけたかのようにこびり付いていた…。
線香のか細い煙がくるくると、絞られたカーテンが拡がる様に、真っ直ぐに晴れ渡った空へと延びていく。どうやら、風が止んだようだ。
夏芽は蝋燭の火を包む両手をそっと離すと、加奈子の墓前に手を合わせた。
「私、昨日また、加奈子のお母さんに会いに行ったんだ。それでね…今日はその報告がてら、お参りに来たんだ。良い報告ばっかりだから、きっと加奈子も喜ぶと思うよ…。」
夏芽の声を聞きながら、小太郎は…墓石の居並ぶ斜面の先、その向こうに見える街の景色を眺めていた。朝日に照らし出されて、瓦屋根が白く輝く姿が…ここではなぜか切ない…。
夏芽が言葉を続ける。
「加奈子の遺骨だって言われてたものを、どこかの大学の研究室で改めて調べて貰ったら、それ…ちゃんと加奈子のお骨だったって…悲しいけど…だけど、間違い無いって…。それからね、加奈子のお母さん…おじさんとよく話し合って、やっぱり離婚するのは止めることにしたって言ってくれたんだよ。加奈子を失った事を納得することなんか出来ないけど、加奈子が居ないってことを受け入れるって…加奈子の居ない寂しさも全部…おじさんと一緒に、受け入れて生きていくんだって…。加奈子の為にも…加奈子が自分たちの所為で迷ったりせずに、ちゃんと天国に逝けるように…加奈子を悲しませる様なことはしたくないからって…だから、加奈子の死を背負って、前を向いて生きていくことにするんだって言ってた。よかったね、加奈子…。」
夏芽は瞳を手の甲で拭う。墓石の前に腰を下ろしたその背中が、小さく震えていた。
小太郎はそんな夏芽に何か言おうと口を半ばまで開けて…だが、出来たことと言えば…首筋を撫でる弱気な風を、頭を左右に振って振り払う事だけ…。
夏芽はまた、細い両腕をあらん限り伸ばして、蝋燭の火を庇う。
「ねぇ、お墓って…いったい、誰の為に在るのかなぁ…。」
そう誰にともなく尋ねると、夏芽は両手を引いて膝を抱えた。…と、バランスを崩した夏芽の身体が、後ろに倒れそうになる…。
すかさず、小太郎はその丸めた背中を左手で支え、押し戻す。それから…黙って夏芽の後ろ姿を見守っていた。
「私ね、思うんだ…お墓って生きている人が、大切な、大切な思い出を詰め込んで置くために在るんだって…だから皆、亡くなった人との思い出に会うため、お墓を訪れるんじゃないのかな。」
夏芽の声を聞きながら、小太郎は立ち尽くしたまま息を吸い込んで、青空を見上げた。空高くに浮かぶ雲へと向かって、線香の白煙が立ち上り、消えていく。
しばしの沈黙…。風が木々の梢を揺らす音が、小太郎の肺一杯に溜め込まれた空気を通り抜けていった。
そして…小太郎が細く、長い息を吐き出し終わった頃に…夏芽が話の続きを口にする。
「私も今日は…ここに、昨日までの加奈子との思い出を置いていく積りだよ。明日を、しっかりと生きて…素敵な女になって、また、加奈子に会いたいから…。だから…私は貴女との思い出をここに預けて、生きていきます。大丈夫。ここに加奈子との思い出が在るって知ってるから、私は大丈夫だよ…。」
と、夏芽は泣き顔で微笑んで、胸に手を宛てて、
「でも…ここが加奈子への気持ちで一杯に成ったら…寂しくてどうしようもなくなったときには…また、ここに来るかも知れない。それまでは…またね、加奈子。」
それから、夏芽はもう一度、加奈子の墓前に手を合わせた。そして…、
「ありがとうね…こたちゃん。」
「んっ、何が。」
「いろいろだよ。」
「少なくとも、夏芽にいろいろ有り難がって貰えるほどには、俺は何かをした覚えは無いけどな。」
「それでも…ありがとう、こたちゃん。」
「…あぁ、いいよ…。」
それから夏芽は、立ち上がり様に、
「よしっ。」
と、掛け声も快活に、小太郎へと振りかえって、
「ところで、こたちゃん…今朝からずっと『スイッチ』入りっぱなしみたいだけど、どうしたの。」
夏芽にそうニタニタと笑い掛けられて、小太郎は困った様に後ろ髪を撫でる。
「あれっ、気付いてたの。」
「気付くに決まってるでしょ。何年あんたの幼馴染やってると思ってんのよ。…だけど、本当にどうしたの。」
と、瞳をパチクリッさせて顔を覗きこんでくる夏芽に、小太郎は視線を逸らしつつ、手で腹を摩って見せて、
「いやぁ、ちょっと、腹具合が悪くて…。」
どうやら、鬼鎧を通してしこたま千明の鬼を流し込まれたのが、まだ尾を引いているらしい…良い気味である…。
「ふーんっ…まぁ、良いけどさぁ。でも本当は…私の為に何かやった所為で、『スイッチ』が接触不良を起こしてるんじゃないの。」
そう言って真顔でじーっと凝視する夏芽の肩を押し止めて、小太郎は引き攣った愛想笑いを浮かべる。
「違うって、電化製品じゃあるまいし…第一、今回のことで、僕に出来ることなんて何も無かったことは、夏芽だって解っているだろ。」
夏芽はそれでも小太郎を凝然として見つめ続けて、
「どうかなぁ。…本当の、本当は、あの地面の血とかも、こたちゃんが何かしたんじゃないの。」
「まさか…ていうか、夏芽は、僕があんな所に猫の血を捲く様な、罰当たりで、傍迷惑なやつだって思うのか。」
「…それは…ときどき卑怯だし、性格はお世辞にも良いとは言えないけれど…そこまで大それた馬鹿をやる人だとは…思わないかな…。」
と、夏芽が俯いて目線を逸らしたのを機と見て、小太郎が一気に畳み掛ける。
「だろっ、確かに俺だって、夏芽の為なら喜んで、なんだって手伝ってやりたいとは思うよ。とは言え、何にだって限度ってものがある。心配してくれるのは嬉しいよ。でも、僕は大それたことの出来る様なタイプじゃないのは知っての通りだから…夏芽は何も気に病む必要はないんだよ。」
…いったいどの口が…いいや、ここは小太郎に花を持たせてやろう…。
それに…それでも夏芽はまだ、納得がいかないかの様に…、
「うん…でもなぁ…やっぱり…。」
と、シュンとした…のもつかの間。
「あっ。」
突然、何かに気付いた様に、項垂れていた夏芽の顔が跳ね上がった。
小太郎は驚いて両手を彼女の肩からどかして、そのまま…ホールドアップの姿勢で審判の時を待つ。
夏芽は凄みのあるニヤリとした笑いを浮かべる。
「そう言えば、まだ…あの日…カラオケに私を置き去りにして逃げ出した理由を聞いて無かったわよねぇ。」
「えっ、だからそれは…ほら、事前にね、状況によっては一人で逃げ出すかもって伝えておいた訳だし…。」
と、両手を上げたままの恰好で弁明を続ける小太郎に、
「んなの、言い訳に成るかっ。」
ピシャリッと夏芽が一刀両断。そして今度は乾いた笑いを浮かべながら、
「想像してみなさいよ…あのとき、私がどれだけ心細い思いをしたか…。」
「えっと…悪かったとは思っているよ。土下座でも何でもして謝るから…それでどうにかならないかな。」
「駄目ねっ。許すかどうかは、きちんと理由を聞かせて貰ってからによるから…。じゃあ、とりあえず、学校に遅刻しない様に道すがら、こたちゃんの言い訳を聞かせて貰おうかしら。」
そう言って夏芽は小太郎の腕を引いて…が、なぜか小太郎はその場から動かない。
夏芽は訝しげに、
「どうかしたの、こたちゃん。まさか、本当にお腹の具合が悪かったの…。」
小太郎はそれに頭を振って応えて、
「いいや、腹具合が今一つなのは本当のことだけど…そうじゃないんだ。ただ…僕も土屋さんに一言、お礼を言っておきたくてさ…。」
夏芽はそんな小太郎の言葉に…やはり心配そうな目付きで、
「それって、今言えばいいんじゃないの。」
「夏芽の前では、言えない事もあるんだよ。」
そんな小太郎の冗談めかした言葉に、ようやく、夏芽も安心したようだった。
夏芽は大きな溜息を吐きだすと、小太郎に優しく笑い掛けた。
「そう言う事だったら、私も邪魔する気は無いわよ。まっ、せいぜい、加奈子と一緒に、腹痛よりもマシな言い訳を考えるんだね。」
と、夏芽は足元に置いてあった鞄を取り上げて、チラリッと…少し寂しそうに加奈子の墓を見つめて、
「じゃあ、私行くけど…こたちゃんも、遅刻しない様に来なさいよ。」
「あぁ、そうする。」
手を振り見送る小太郎に応じるのもそこそこに…そうして夏芽は、今日へと向けて歩きだしていった。
さて、とりあえずはまだ、昨日と今日の間に残った小太郎だが…。加奈子の墓前にニッコリと笑い掛けると、
「お待たせしてしまったようですね。…ですが、気を遣わず、こっちに来て一緒にお参りしても良かったんですよ。」
「貴方が良くても、私は気を遣うわよ。…って言うか、あんな空気に入り込めるとでも思うの。」
そう喋りながら近づいてきたのは、『鬼姫』こと千明であった。その右手の携えられた手桶には、白菊と、淡い紫のダリアが鮮やかに咲き誇っている…。
小太郎は食当りでも起こしたかのような千明の問いに、少し考える様に目線を青空の上で泳がせてから、
「ですから、『お待たせしました』と…。」
「嫌なやつね、あんたって…関屋さんの言う通りだわ。…にしても。」
と、千明は手桶を地面に置きながら矯めつ眇めつ、小太郎の顔を覗きこんで一言。
「あの黒い鬼鎧からすると…もうちょっと、その…ねぇ。顔立ちとか、身長とか、総合して、カッコイイ部類の男性かと思ってたのに…。あの時…あの人喰いに貴方のことが好みかって聞かれて、取りあえず保留にしておいて良かったわ。」
そう言って千明は健康的な白い歯を覗かせて笑った。…ところで、千明は小太郎達と違って制服を着ていない様だが…学校は大丈夫なのだろうか…。
まぁ、その疑問は一先ず置いておいて…小太郎は言うまでも無く、その程度の言い草では微笑みを小揺るぎもさせずに、
「あれっ、夏芽の繋がりから調べれば、僕が鬼人で、それに加えて、あの黒い鬼鎧の主であることはすぐに解ったでしょうに…。それとも…律儀に僕との約束を守って、僕の素性を今日まで調べないで居てくれたんですか。」
「まぁ、積極的には調べようとしなかったけどね。…でも、そんなこととは関係なく、すぐ貴方だって解ったわよ。…まったく…よくもまぁ、私と同じクラスで席を並べておいて、今日まで知らぬ存ぜぬで過ごしてこれたわねぇ…出席番号一番、相坂小太郎くん。まっ、これだけ強力な鬼人が2メートル以内にいつも座って居て…気付かなかった私も、私だけど…。」
そう言って溜息を吐きだすと、千明は夏芽がしていた様に墓前で屈み、瞳を閉じ、手を合わせた。
「あいつ、もう…天国に居る土屋さんには会えたかなぁ…。」
「さぁ…でも彼のことだから、今頃はもう彼女に地獄に蹴り戻されて…三回くらいは輪廻を往復しているかもしれませんね。」
「そうかもね…。だと、良いね…。」
そう、加奈子の墓前で熱心に祈る千明に…、
「貴女も知っての通り…そこに、加奈子さんの遺骨は納められてはいませんよ。」
唐突に、小太郎がそんなことを言った。千明は目蓋を閉じ、祈りながら、
「それはそうだけど…別に、そんなに難しく考えることも無いんじゃないの。土屋さんのお母さんに会いに行った時も、御仏壇に手を合わせさせて貰ったけれど…故人を悼む気持ちが在って、そこが彼女に縁のある場所であるならばどこでだって…こうして御冥福を祈って良いんだって、私は思うけどな。」
「そんなものでしょうかねぇ…。」
と、なぜか気の無い返事をする、小太郎。
千明はそんな彼に、瞳を閉じたままで微笑む。
「そう言えば…本当に良かったの。思考の改変させるのが、土屋さんのお母さんだけで…。」
「えぇ、それで十分です。鬼姫さまには手数をお掛けしましたけど、ご助力を賜った甲斐もあって、万事上手く纏まってくれましたよ。本当に、お疲れ様でした。」
「まったくよ。一日経って、貴方からようやく連絡が来たかと思えば…ここにある血の滲みのことを、警察に言って問題にならない様にしろだの…土屋さんのお母さんに、私の『能力』で納得感を与えてやってくれだの…ただでさえ、あの作業場の事後処理でひいひい言ってた私を、扱き使ってくれちゃってさぁ。…良い御身分よね、本当に…。」
小太郎はまた後ろ髪を撫でながら、これっぽっちも悪気が無さそうな顔で笑う。
そしてその事は、瞳を閉じている千明にもきっと、良く解っていることであろう。だからこそ、千明は少し意地悪な質問をするのだ…。
「でもね、私が貴方に聞いたのは、『御用命は以上でしょうか。』なんてことじゃないんだけどなぁ。…まっ、貴方のことだからわざとはぐらかしたんでしょうけどね。…で、どうなの。本当に、関屋さんに私の『能力』は使わなくても良いの…。」
そう改めて尋ねられて…苦笑いの小太郎は、陽気に温まった頭を今度は、左手でガリガリと掻いた。
その音に、千明が墓前を向いた姿勢から、横目でチラリと小太郎の様子を盗み見る。
小太郎は何故だろう…頭を掻いたその左手を不思議な面持ちで見つめていた。
「…もう良いんです。それにこれ以上、鬼姫さまの御手を煩わせるのも心苦しいですから…。」
冗談めかした口調はいつも通りだが、千明にはその声がどこか覇気に掛けている様に聞こえた。
千明はそんな小太郎に発破をかける様に語り掛ける。
「そんなこと言って、本音は、私に関屋さんの頭の中を弄られるのが嫌だっただけなんじゃないの。」
小太郎は目線を左手から上げて、千明を見る。
「否定はしませんよ。ですが…それだけじゃないんですよ。」
楽しげな声に招かれたかの様に、千明は思わず後ろの小太郎へと振り返る。そこには、見たことも無い様な優しい顔をした一匹の鬼人が居た。…考えてみれば…毎日、教室で顔を合わせ、三日前などは一晩を共にしたと言うのに…小太郎の顔をまじまじと見つめたことは無かったのだ…。
(…って、私何を考えているんだろ…そう言えばビルの屋上でも一緒だったとか…そう言うの、今は、どうでも良いからっ。)
…んっ、もう良いのか…それは著者としては甚だ残念ではあるが…仕方が無い。
小太郎と千明に先を続けて貰うとしよう。
千明は威儀を整えるべく、咳払いをして、
「でっ、それだけじゃないんなら、何があるの。」
小太郎は苦笑を漏らすと、目線を左手に戻して答える。
「いや、大それた何かが有る訳じゃないんです。あるのはたった一つだけで…それも面白くもない…僕の確信だけなんですよ。」
小太郎は左手をギュッと握りしめて、続ける。
「きっと夏芽なら、誰かがくれる納得よりも、もっと自分に相応しい何かを見つけ出すことが出来る。今度の土屋さんの死にも。…それに、近い内に訪れる僕の死のときにも…夏芽なら必ず、夏芽自信が幸せになれる最良の何かを見つけて…『今日』を生きていってくれるはずだって…僕はそう確信している…とまぁ、そんな程度の、面白くもない話ですよ。」
最後に思い出したかのようにおどけて見せた小太郎に、千明は切なげな瞳で笑い返して、
「そうだね…貴方が関屋さんの傍に居られないんじゃ、面白い訳無いよね…。だけど私は…いつかそのお話が素敵な物語に成るって確信してるよ。」
「ごく普通の女と、死に掛けた鬼人の喜劇じゃ…満席は期待できないでしょうけどね。それでも…ここに一人、熱心な観客が居てくれる以上は…あまりいい加減なことも出来ないな。」
そう言って小太郎は鞄を拾い上げて、
「それじゃあ、とりあえず、人並みの日常へと戻るとしましょうか。」
と、墓地の出口へと歩き出そうとした小太郎に、
「ちょっと待ちなさい。貴方が進むのはこっちだから。」
立ち上がった千明が、小太郎の進行方向とは真逆の方向を指さした。そして…、
「貴方から私への頼みはこれで全部、片付いたんでしょ。だったら今度は、私の言う通りにしてもらうから…実はもう、『萩の会』に新しく入るメンバーを紹介するからって、皆に集まって貰ってるんだよね。久しぶりの歓迎会でみんな張り切ってるから、期待してていいよ。あっ、だけど、鬼人の歓迎だから多少は手荒くなるかもしれないけど、貴方強いんだから、怒っちゃだめなんだからね。『虚抜き』とかして、メンバーの皆を怖がらせるような事は絶対にしないこと。良い。」
「あの…そこまで形に成ったお話しを崩すのは気が引けるんですけど…学校の方は…。」
「それなら大丈夫。公欠にしておいて貰ったから、勿論、貴方もね。」
「いや、記録上はそれで問題無いかもしれませんけどね。それに、僕は確かに『萩の会』へ入会するのに異存は無いと言いました。それに今更、そのことを有耶無耶にしようという気は毛頭ありませんけどね。だけど…そのことが人としての僕の日常生活を破綻させる様なら話は別です。『萩の会』入会に関してはもう一度、鬼姫さまとじっくり話し合う機会を持たなければいけなさそうだ。ですが今日は、一先ず学校にですね…。」
と、しち面倒くさい理屈をこねだした小太郎に、千明は余裕の笑顔で応戦する。
「な、なんですか…。」
「相坂くんは…あの人喰いの頭をどうしたのかなぁ。」
「人喰いの頭って…大野さんの頭のことですか。それはですねぇ…鬼鎧が崩れるのと一緒に、消えてなくなってしまったので…それっきりなんですけど…。」
「それ、本当のことなのかしらねぇ。累が、強力な餓鬼の遺骸に興味を持ってるから…私は協力しても良いかなって思ってるんだけど…あっ、だけど、誰かさんが大人しく歓迎会に来てくれれば、そんなことをしてる暇なんて無いわねぇ。」
「えっ、えーっとですねぇ…。」
どうやらまだ押しが足りないと見える。千明は今度のことで小太郎から学んだことを…自分には詰めの甘いところがあったという反省を如何無く生かして、小太郎に止めの一撃をお見舞いする。
「ああ、それから、貴方達が暴れまわって壊しつくした作業現場だけど…瓦礫の撤去費用と、作業のやり直しの費用で億単位の請求が来てるんだよねぇ。当然、貴方の方に回しても良いんだよね。だって、貴方の方から、どうしてもあの人喰いと闘いたいんだって言ってきたんだしねぇ。」
「うっ…それは…。」
「でも…今すぐに私と一緒に来るなら…。そのお金、貴方が『萩の会』に入会する契約金と考えて、私が代わりに払ってあげても良いんだけどなぁ。それとも…そんなに学業が大切なのかしら…本当、頭が下がるわぁ…。」
小太郎の弱みを突く、千明の巧みな心理攻撃。だが、ここまで言われて黙っているのは男では無い。小太郎は敢然と姑息な手段を弄する千明に対して…、
「是非、ご一緒させて頂きます。」
と、何とも男らしい言葉を返した。…えっ、話が違うだろって…いや、それはですね。だから…女の方からこれだけ熱心に誘わせておいて、その誘いを拒むだなんて男じゃない…と言う事で、小太郎共々、ここは一つご勘弁を…。
小太郎が思惑通りに付いてくることに成って、プライドお化けは…もとい、千明は細かいことなど忘れさせてしまう様な、童女の様な満面の笑みを浮かべた。…笑顔を照らす太陽も随分と、空の高いところまで上っている様だ…。
小太郎は日を一杯に浴びた左手を心臓の上に宛てた。千明はそんな小太郎を見つめて、朗らかに尋ねる。
「ねぇ、何がそんなに可笑しいの。」
「いえ、ただちょっと考え事を…。」
「へぇ、何考えてたのよ。そんなに嬉しそうに笑って…。」
「相変わらず、期待されるほどのことは考えていませんよ。…ただ…今度は、夏芽にどんな言い訳をしようかなって…ね。」
心臓が、小太郎の左手に時間を、そして今生きている現実を刻みこんでいく…。
小太郎はこの時の刻みが許す限り、生きて、生きて、生き抜いて…この鬼人の巷を歩んでいくのだろう。
他人の死を、そして自分の死を乗り越えて…夏芽に『今日』出会うために…『明日』、彼女の思い出として生きるために…小太郎はどれだけの命を踏み越えていくことになるのだろうか…。
それは、子供染みた我が儘かも知れない。それは、この世に生きる生物として許され得ない事なのかも知れない。それは…全てが無駄な事なのかも知れない。
だが…それでも…それでも、鬼魅は笑う。
ここまでで、『それでも、鬼魅は笑う。』は一区切り。さしずめ、第一篇了と言ったところでしょうか。…いやはや、まったく、梟小路がここに、何とかかんとか到達できたのもの…ひとえに、この小説を読んで下さった読者様のお陰でございます。
本当に、ありがとうございました。
さて、話は変わりますが、第四話までの第一篇、その作中には未だ帰結してはいない伏線が幾つか残っています。
例えば、そう…micoという歌手の事など…。
それらの伏線は、当然、第五話以降の、第二篇、第三篇と続いていくストーリーへと繋がっていくことになります。…梟小路は伏線大好きな伏線中毒なので、度々、この様な次話への導入の形をとることになると思います。悪しからず…。
という訳で、ここまで『それでも…』をお読みいただけた読者さま方には、それなりに…申し訳程度には…今後の展開に興味を持って下さっていることと存じます…無論、梟小路の希望的観測込みで…ですけどね。
兎に角、その希望的観測を胸に、出来るだけ早期の投稿を果たせる様に努力する所存です。…まぁ、実際には、三作品目を交えたローテーションでの投稿とする積りなので…次回作が空回りしない程度にと言うことになるのかな…。
そう言ったことですので、読者の皆様には、『それでも、鬼魅は笑う。』をお待ち下さっている間、梟小路の別作品を読みながらお待ち頂くことを、強く、強く、お勧めしつつ。第一篇、後書きの結びとさせていただきます。
それでは、ここまで読んでやって下さった皆様、本当にありがとうございました。また、次の梟小路の文章で…特に、『それでも、鬼魅は笑う。 第二篇』でお会いできることを心待ちにしております。(^v^)




