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初陣の青い軌跡


港町の朝は、いつだって塩と鉄の匂いがした。

だがその日、少年エインの鼻に満ちていたのは、潮風よりも自分の汗のにおいだった。


甲板は濡れていた。夜明け前の霧と、さっき浴びせられた海水と、誰かが流した血とで、木目は黒く光っている。帆柱の上では見張りが怒鳴り、縄が軋み、砲煙の名残がまだ薄く漂っていた。


「見習い、下がってろ!」


誰かが叫んだ。だがエインの足は下がれなかった。

いや、動けなかったのだ。


目の前に、大男がいた。敵船から飛び移ってきた男で、肩幅は樽のように広く、片頬に古い裂傷が走っている。手には鉈じみた湾刀。息を吐くたび、獣のような音がした。


周囲では仲間たちが別の敵と斬り結んでいる。だがこの瞬間だけ、世界は奇妙なほど静かだった。耳鳴りの奥で、自分の鼓動だけが大きい。


逃げろ。

頭のどこかが叫ぶ。


無理だ。

別の声が返す。


ここで背を向ければ、きっと一生、誰かの背中しか見られない。


エインは唇を噛んだ。痛みで、ようやく現実に触れた気がした。腰の鞘からナイフを抜く。


刃渡り三十センチほど。細身で、薄く青みがかった刃。鍛えた古鋼に、海底石の粉を混ぜて焼いたものだと、船の鍛冶師が自慢していた。陽を受けぬ朝の光の中でも、その刃だけは冷たい水面のように淡く光っていた。


大男が嗤う。


「それで俺を刺すつもりか、小僧」


膝が震えた。情けないほどに。

ナイフの柄まで震えが伝わり、手汗で滑りそうになる。


怖い。

死ぬのが怖い。

痛いのも怖い。

笑われるのも怖い。


だがその恐怖の底に、ひどく小さな怒りがあった。

なぜ自分だけが、ずっと怯えていなければならないのかという怒りだった。


男が踏み込む。甲板が鳴る。湾刀が横薙ぎに唸った。


エインは転がるように避けた。髪が数本、宙に散る。次の一撃が来る前に立てず、四つ這いのまま息を呑む。死ぬ、と思った。


しかし男はわずかに間を置いた。

見下しているのだ。獲物が怯える様子を楽しんでいる。


その傲慢さに、エインの胸の奥で何かが弾けた。


立ち上がる。

怖さは消えない。だが怖さごと前へ出るしかない。


船長に教わった言葉が脳裏をよぎる。


――刃は腕で振るな。腰で導け。呼吸で流せ。


エインは息を吸い、吐いた。

肩の力が一瞬だけ抜ける。


男が再び斬りかかる。今度は上段からの叩きつけ。

エインは半歩だけ踏み込み、身体を捻った。


青い刃が走る。


それは斬撃というより、水が器を伝って流れる軌跡だった。

硬さのない、けれど抗えぬ流れ。

薄青い光が弧を描き、男の手首の内側をさらう。


血が散った。湾刀が甲板へ落ちる。


男の顔から嗤いが消える。


エイン自身も信じられなかった。だが止まれば終わる。恐怖はすぐ背中に噛みついてくる。


叫びながら前へ出た。声は勇ましさではなく、怯えを押し出すためのものだった。


男は左拳で殴りかかる。視界がぶれるほど速い。頬を掠め、火花のような痛みが走る。エインは倒れかけながら、最後の力で身を低く潜り込ませた。


至近距離。汗と血と酒臭い息。


ナイフを逆手に持ち替える。

そして下から上へ、すくい上げるように振った。


青い軌道が、滝壺から跳ね上がる水の筋のようにきらめいた。


刃先は男の脇腹を裂き、深くは入らなかったが十分だった。大男は息を詰まらせ、数歩よろめき、膝をつく。


その巨体が崩れ落ちる音は、妙に静かだった。


エインはその場に立ち尽くした。

勝った。そう理解するまで数秒かかった。


手はまだ震えている。膝も笑っている。頬は痛み、喉はからからだった。英雄のような高揚など、どこにもない。ただ吐きそうなほど気分が悪かった。


それでも、胸の奥にひとつだけ確かなものが残っていた。


恐怖は消えない。

これから先も、何度でも自分を縛るだろう。


だが――恐怖を抱えたままでも、人は前へ出られる。


「見習い!」


仲間たちの声が飛ぶ。次の敵が迫っている。


エインは荒い息のまま顔を上げ、青い刃についた血を振り払った。刃先から散った赤は、朝の光の中でしぶきとなり、海へ還るように落ちていく。


ナイフを握り直したエインは、鳴り響く怒号と剣戟のただ中へ、次の戦いを求めて駆け出した。


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