妖怪サトリ
山路の宿に、一夜を明かすことになった。
雨はしめやかに降り、杉の梢を濡らしていた。私は帳場の隅に腰をおろし、煤けた行灯の光の下で、湯呑の縁をなぞっていた。主人は無口な男で、こちらの問いにも、ただ曖昧にうなずくばかりである。
「このあたりには、妙なものが出ると聞いたが。」
何気なくそう言うと、主人は初めて顔を上げた。薄暗がりの中で、その眼だけが妙に光って見えた。
「……覚でございましょう。」
私は苦笑した。人の心を読む妖怪など、与太話にすぎぬ。だが主人は、なおも低い声で続けた。
「人の胸の内を、言わずとも言い当てるのだそうで。」
そのとき、不意に背後で戸の軋む音がした。
振り向くと、そこに一人の女が立っていた。旅の者らしく、濡れた髪が頬に貼りついている。年の頃は二十を少し過ぎたほど、しかしその顔には、妙に老成した陰があった。
「お泊まりでございますか。」
女はそう言って、私を見た。いや――見た、というより、覗き込まれた気がした。
私はなぜか、胸の奥を掴まれたような心地がした。
(この女は――何か知っている。)
そう思った瞬間、女はふっと笑った。
「あなた、先ほどから主人を疑っておいででしょう。」
私は息を呑んだ。確かに私は、あの男の無表情の裏に、何かを勘ぐっていた。
「それから――」女は続ける。「ご自分の臆病さも、少し恥じていらっしゃる。」
私は思わず立ち上がった。
「誰だ、君は。」
女は答えず、ただ静かに言った。
「人は皆、自分の心を知られたくはないものです。」
その声には、どこか哀れみがあった。
雨の音が、いよいよ強くなった。行灯の火が揺れ、女の顔が一瞬、歪んだように見えた。
「では――あなたの心を、申しましょうか。」
私は叫びそうになった。だが声は出なかった。喉の奥に、冷たいものが詰まったようである。
女は一歩、近づいた。
「あなたは今、この女を恐れている。だが同時に――」
そのとき、私は耳を塞いだ。
「やめろ!」
静寂が落ちた。
恐る恐る目を開けると、そこにはもう女の姿はなかった。戸も、閉ざされたままである。主人は相変わらず帳場に座り、こちらを見ようともしない。
私はその夜、一睡もできなかった。
翌朝、宿を発つとき、主人に尋ねた。
「あの女は――」
主人はゆっくりと首を振った。
「この宿には、女はおりませぬ。」
私はそれ以上、何も言えなかった。
山道を下りながら、私は何度も振り返った。しかし宿は、霧の中にすぐに消えた。
ただ一つ、確かなことがある。
あのとき女が言いかけた「同時に」の後を、私は今でも知りたくないと思っている。




