第七話(2/3)「相反する感情が、とめどなく溢れて止まらない」
くっついたまま、二人は廊下を行く。
すれ違う人が、皆振り返るのが気配で分かる。
「……」
「どうした?さっきから黙り込んで」
「あまりにも恥ずかしくて、声を出すことも出来なかったんですけど」
「手をつなぐのと大差ないだろう」
「そんなわけないじゃないですか!下ろしてください!」
なぜか彼女は、咲哉をおんぶしていたのだ。
周囲に顔を決して見られたくなくて、必死に後頭部に顔を埋めるも、それはそれで悪目立ちしている。
(これじゃオンブバッタだよ)
さして昆虫に詳しいわけではないが、確か大きいメスが、小さなオスを背負っていた気がする。
「すまんすまん、背中を許すと言うのは、私にとって最大級の愛情表現なのでな」
「……先輩は本当に唯一無二の存在です。俺を背負ってくれる奴なんて、世界中どこを探しても先輩しかいないと思います」
「誉め言葉として受け取っておこう。やはりお前の言葉が一番沁みるな」
言いつつ、彼女は階段の前で降ろしてくれた。
……かと思った次の瞬間、ふわりと身体が宙に浮く。
あっと思う間もなく、今度はお姫様抱っこされていた。
まさかの二段オチだった。
抗議する間もなく、彼女はそのまま階段を駆け上がる。驚きの表情を見せる家族連れとすれ違う。なんらかのパフォーマンスだと早合点・あるいは深読みして欲しいと願うばかりだった。いやスマホで撮られたりしたら末代までの恥だけど。
六十キロを超える少年を抱えたまま、彼女はやすやすと階段を駆け上がっていく。
「いやあ、やはり少年をからかうのは楽しいなあ!」
「勘弁してください!」
階段を登り切ったところで、彼女は本当に咲哉を下ろす。
多分この人は、本当の意味でワガママなのではなく、周りから奇異の目で見られることさえも楽しんでしまう人なのだと、改めて悟る。
校舎の最上階は教室の代わりに、視聴覚室や美術室、化学実験室などが並んでいた。
おそらく何かしらの展示などをやっているのだろうが、もうこの時間帯はおそらく、客などいないだろう。待機している生徒か顧問が一人か二人、いるかどうか。
階段から離れると、もはや喧噪も聞こえない。廊下の電源も切られていて薄暗く、立ち入り禁止区域に入ってしまったかのようだった。
「どこかに向かっているんですか。俺はてっきり、単にゆっくり話せるところに行こうとしてるのかと……」
「昨日のポーカー、わざと負けてくれたんだろう?」
唐突な話題転換は、本題だった。
「何を……」
「おや、お前もとぼけたりするのか?可愛いものだな」
「可愛いって……」
二人は前後に並んで、ゆっくり歩き続ける。
「そりゃ小鳩には悪いですけど、負けたらどうして先輩が俺を好きになってくれたのか、その理由を教えてくれるって言われたら、そりゃ負けますよ」
「ふふ、やはりこちらの意図は伝わっていたか。賢いな」
「それを考えた本人には及びませんよ。だけど小鳩たちは普通にプレイしてましたよね。どうするつもりだったんですか」
「『フラッシュとストレートのどちらが上か、覚えているか』と言ったのを覚えているか。それを聞いたつぐみは、本気で私が良い役を揃えたと思っただろう。彼女はあの場面では部外者だが、すなわち彼女だけは負けても何も失うものはないということ。深く考えず無理やりいい手を狙いに行き、その結果ノーペアだったというわけだ」
「あっ……」
「同じスタッフとして、彼女がボードゲームの試しプレイをしているのを何度も見たこともある。非常に素直な性格であることも分かっていた。打ち合わせなどせずとも、私の手のひらで踊ってくれたということだよ」
「そこまで考えて……」
「会長も頭に血が上って、見るからに冷静な判断が出来そうではなかった。ライカはどうやら冷静だったみたいだが、それでも実質的に一騎打ち。三回連続で負ける確率は二分の一の三乗で、八分の一だ。土壇場でそれを引くような私ではない」
「即興でそこまで考えていたんですか」
「お前のためなら他人を出し抜く策など、一秒に一つ思いついて見せる」
「じゃあ、先輩がいきなりフルハウスを引いたのは」
「それは偶然だ。あの場面でいきなりあの手を引いたあたり、やはり今ここでお前と一緒にいることは運命なのだろうな」
ゆっくり歩いていた彼女は、見慣れない部屋の前に立つ。機能しているのかどうか疑わしい目安箱が、隅っこに置かれている。
(生徒会室……?)
咲哉は困惑する。どうしてこんなところに連れて来られたんだろう。去年ライカは生徒会に所属していたと言っていたが、今は何の縁もないはずだ。
「失礼する」
中は思いのほか広々としていた。教室の半分くらいの大きさはあるだろうか、十五人くらいが会議を出来る環境になっている。コの字型に並べられた机の上に、受験生向けの様々な資料やパンフレットが置かれていた。
「……あれ」
ふと、既視感を覚える。
机の一番端には、どこかで見たことのある女子生徒が座っていた。就任時の演説か、あるいは美化運動か挨拶運動か何かか……。
「生徒会」という腕章をつけたまま船をこいでいた彼女は、咲哉たちにようやく気がついて同時に目を覚ます。
そして怪訝な顔になる。
「……こんにちは」
一応挨拶はしてくれた。
ディーラーのコスチュームに身を包んでいる女子一名と、クラスTシャツを着ている男子一名。いずれも明らかに在校生だ。
こんなところに一体どういう用事で来たのか、不思議に思っていることだろう。
ライカはその少女に向かって、ずいと身を乗り出す。
「すまないが、三十分ほど席を外してもらえるか」
「えっ」
「三鷹という人物から聞いてないか。顧問からも承諾をもらっているはずだが」
「そういえば、一方的になんかそんなこと言われましたけど」
「私は三月まで役員だった、誰かが来ても対応できる」
「はあ……」
タメ口でライカのことを知らないということは、一年生だろう。半信半疑の様子ながら、少女は深く追求してくることもなく、席を立ってくれた。
「それと聞きたいんだが、ドアを閉め切っているのは誰かの指示か?」
「いえ……」
「ここのドアは窓がすりガラスで中が見えないんだ、これじゃ中学生には入りづらいだろう」
「え、でも冷房が……」
「南向きだから、窓を開ければ風も吹きこむんじゃないか?送風機だってあるだろう」
「す、すみません」
「別に怒っているわけではない。もうじき文化祭も終わるから、今更言ってもしようのないことだがな」
少女は申し訳なさそうな態度でその場を立ち去る。
静かになった部屋には、窓の外から漏れ聞こえる、ひぐらしの鳴き声がわずかに響いた。
「やれやれ、我ながらうっとおしく思われただろうな」
ライカは先ほどまで少女が座っていた席に、深々と腰かける。
指を組んで、机の上に置く。
「何か思い出さないか?」
「……!」
その姿を見て、何かが引っかかった。
「去年の文化祭、確か自分はここに来ました。ということは」
「そう、会ったことがあったんだよ、私たちは」
あの夏期講習の日、ライカに話しかけられて思い出したのは、四月に声をかけられたときのことだった。
それよりも更に前、入学前に会ったことがあるなんて、思いもよらなかった。
疑っているわけでもないのに、嘘だ、信じないぞ、という言葉が喉元までこみ上げる。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?」
「覚えていないなら仕方ないと思っていた。自分が覚えていればそれでいいと思っていた。一から関係を築き上げればそれで良い、とな。お前自身すら気が付かないお前の魅力に、私だけが気づいているというのも精神的に優位に立っているようで、気味が良かった。だが、ようやく気が付いたのだ、私とサクを隔てる壁の正体を。それはお前の自己評価の甘さだ」
「自己評価……」
壁を打ち破るには、私あの日ここで、お前に心を揺り動かされたという事実を伝えなくてはならない。そのためにまず、今日ここにお前を連れてこなくてはならない、そう悟ったのがあの体育祭の次の日のことだ」
烏山ライカは瞳を閉じ、深呼吸。
そして、目を開いた。
「いいか、少年。私は今から、本気でお前を口説き落とす。この一年間、片時も失うことのなかった思慕の感情を、余すところなくぶつけてやる」
文化祭のパンフレットを見ると、生徒会室のところにはこう書かれている。
「統計資料・アンケート・過去問など配布しております。役員常駐!ご相談お待ちしてます!」
去年も大体同じことが書いてあっただろう。それを見た当時の咲哉は、緊張しながら一人、最上階のフロアに上がったのだった。
そういえば、確かにドアが開いていた気がする。そうでなくては、わざわざ勇気を出してまで入ることはなかっただろう。
「……それで、当時中三の俺に惹かれたってどういうことですか。何話したか、まったく覚えてないんですよね。タカさんに憧れる青臭い夢とか語りましたっけ」
「いや?」
「入試の傾向と対策とかですか」
「いや?そんなことを聞かれても、何も答えられなかっただろうしな」
少女は座ったまま少年を見上げ、にやにやしている。もう何度見たか分からない、ふてぶてしい笑みだ。でもこの顔を見るたびに、咲哉は精神的優位に立たれているということ自体が心地よくなっていた。彼女に何もかもを委ねたいと思ってしまうのだった。
「お前が話してくれたのは、これだよ、これ」
そう言って彼女は立ち上がり、机のあるものに手をついた。
思わず近寄ってみる。
「……ノート?」
そこに置かれていたのは、ノートと参考書だった。
表紙には、「3-2 野川智晶」と書かれていた。
「生徒会では毎年、役員が受験に際してノートや参考書を展示することになっている。去年の役員で、それを保管していたのは私だけだったんだ。少なくとも、他の奴は名乗り出さなかった。お前はそれを、じっくりと読んでいた」
「ああっ……」
そこまで言われて、記憶が鮮明によみがえる。
建て付けの悪かった扉が開いたような感覚。
「そうだ。とても理路整然としていて、余白がたっぷりあって、字が嘘みたいに整っていて……」
「思い出してくれたようだな」
小鳩の友人に字が巧いと褒められたとき、何か引っかかるものがあったのを思い出した。それもそのはず、咲哉が真似をしていたのは、あの日、ここで見た字だったのだ。
「面倒だと思っていた。そもそも自分のために、自分が読み返すためだけに作ったノートを他人に見せても意味などないと思っていたからな。会長がどうしてもと頼み込んできたから、持ってきただけに過ぎない。
だが私のノートを見たお前は、明らかに何かに感銘を受けたような顔をしていた。何かを吸収しようと真剣に目を通していた。
話しかけたのは、退屈していた私からだった。『何か参考になるか』とな。
お前の口から飛び出したのは『とても参考になります』『すごい』『分かりやすい』といった、どこまでも素直な言葉だった。ノートの持ち主が目の前にいるとも知らずにな。お世辞でないことは明白だった。それは私のだ、と明かすと、それはより熱烈なものとなった」
「よく覚えてますね。俺、なんか話したってことしか記憶にないですよ」
「私は自分を特別愛しているからな。普段から他人に褒められるための行動ばかりしていたから、思いがけないことで褒められたということが、強烈な印象として脳に焼き付けられたのだよ。何千回と褒められ、何万回と自画自賛してきたけれど、お前の言葉には、自分やお前以外の言葉とは違うエネルギーがあった。
初対面というのもあっただろうな。私に媚びる理由もない少年が、見返りも求めず何度も何度も褒めてくる。……ああ!今思い返しても総毛立つ!」
ライカは自分の肩を抱いてみせる。
「お前は私のことを、一方的に好きだなんだと言ってくる、得体の知れない存在に思っているのかもしれない。だが私に言わせれば、それなりに、いやかなり自分で自分のことを愛していた私に、想像を超えた多幸感を与えてくれたお前こそ、恐ろしい存在だった」
そう語る彼女は、今までで一番輝いて見えた。顔も少し高揚していた。彼女が一年かけて内面に蓄積したものが、とめどなく放出されていくかのようだった。
「あの日初めて、私は他人に興味を持った。それも加減を知らない、特別強い興味だ。彼がこの学校に来れば良いと祈った。初めて他人の幸せを願った。半年経ってお前が入学したとき、その姿を見つけたとき、すぐに気が付いた。まさしく我が事のように嬉しかった。高校入試なんて、モチベーションがほぼ全て。コツをつかめば一気に成績は伸びる。そこに私が寄与出来たのかと思うと、舞い上がるばかりだった。
そして偶然、お前と話す機会に恵まれたときは、湧き上がる感情を抑えるのに必死だったのだよ」
「……ジュースおごってくれたやつですか」
あのときの「部活動は入るのか」「生徒会には興味ないのか」という発言は、何気ない世間話ではなく、本当に答えが聞きたいがゆえの質問だったのか。
「じゃあ仮に、俺がどこかの部活に入るって言ったら、先輩も後を追ってそこに入ったっていうんですか。二年から」
「どういう形であれ、関わり合いをつくろうとはしただろうな。違う部活同士でも、行事の時に連携したり、合同で合宿したりすることもあるだろう?素っ気なく『予定はない』と言われたときは、寂しかったものだ。よほど『私と一緒の委員会に入ろう』とでも言おうかと思った。今にして思えば、私の方から『あのときの生徒会の人間だぞ』と言えば良かったんだろうがな。
だが、あの日中学生だった少年から感じとった強い意志は、私に合わせてもらうのはもったいないと感じるものだった。
ひょっとしたら、他人を尊重したのも生まれて初めてのことだったかもしれない。不思議な感覚だった。悪くない気持ちだった。すごく人として自然な感情を、お前との出会いを通じて会得したような気がしたのだ」
これはある種の一途なんだろうか。それとも、単に究極の自分本位という形なんだろうか。
「どの組織にも入らなかったのもまた、お前の選択。これ以上接点は生まれない、お前に感じた運命は所詮気のせいにすぎなかったのだと、自分に言い聞かせていた。
だが、それからも私は度々、一人のお前を見かけた。朝の通学路、昼休みの廊下、放課後の昇降口。いつも一人だったな」
「うっ」
「誰とも接点を持たず、一目散に下校するお前を見かけるたびに、呼び止めたい衝動にかられていた。ずっと、ずっとだ。お前の意志の強さが何らかの事情で裏返って、かたくなに周囲との関わり合いを拒む方向に働いているのだろうというのは、想像に難くなかった。よもや特別進学コースに入れなかったことを悔いていたとはな」
「先輩、俺より俺のこと詳しいですね」
「普通の人間が割くであろう、趣味や対人関係への興味関心が、ほぼお前のためだけにつぎ込まれているからな。
いつまでもお前に追いかけられる憧れの先輩でいたいという気持ちと、お前がいともたやすく私を追い抜くところを見たいという気持ち。
精神的に優位に立ちたいという気持ちと、いつか逆転されたらたまらないという気持ち。
相反する感情が、とめどなく溢れて止まらない。
いや……そもそも私がお前を導けるほど優れていると言うこと自体、錯覚に過ぎないのかもしれない。お前がしゃがんでいる姿を見て、私が大きいと勘違いしているようものなのかもしれない。なにせ一年もの間、私が一方的に慕っていたのだからな。
なあ少年、これを恋と言わずして何と言うのか?」
一気に話し終えたライカは満足げな表情で、ほっと一息つく。
彼女の強い意志、強い気持ちを受け取った咲哉は、軽く感動していた。
打算も何もない率直な物言いが、ここまで誰かの気持ちを動かしていたなんて。
体育祭が終わった時のやり取りを思い出した。
自分が築き上げた壁をものともせず、突き破ってくるライカ。
でも実は、自分も一緒になって壁を壊していたのだ。
だって壁を作ったのは本心じゃないんだから。
お互いに、惹かれ合っているんだから。
「…………」
そこまで考えて、不意に、ほの暗い感情がこみあげた。
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