第14話 ③
「ここから逃げられるなどと、夢にも思うな。大人しくしていれば、生き延びることだけは出来る。だが……逃げようとすれば、終わりだ」
「それは……」
「数ヶ月前にも、お前たちのように目の光を失っていない若い獣人が、夜陰に乗じて脱走を試みたことがあった」
老いた男は、淡々と、まるで昔話を語るような抑揚のない声で紡ぎ始めた。
「外壁を越える寸前で捕まったそいつを、監督官はすぐには殺さなかった。脱走の罰として……そいつの両足の甲を、鍛冶用の大きな鉄槌で原型がなくなるまで念入りに叩き潰したんだ。もう二度と、走ることも立つこともできないように」
「っ……」
あまりの仕打ちに陽菜は思わず息を呑んだ。
何のために、そんなことを——。
「這いずることしかできなくなったそいつは、毒溜まりと呼ばれる最下層の極細の坑道へ回された。そこはな、複雑に入り組んでいて所々に毒の空気が充満してるんだ。普通の人間なら数分留まるだけで死ぬより苦しい目に遭うと言われている。……だが、そいつは獣人で人よりも遥かに頑丈だった——それが仇になっちまったんだ。真っ暗な穴の底で助けてくれと泣き叫ぶ声が、上まで響いてくるんだ。でも一週間経って、その声はいつの間にか聞こえなくなった」
男の言葉が終わると、牢の中は再び静けさに包まれた。
周囲でうずくまる奴隷たちが、その時の悲鳴を思い出したのか、さらに身を縮めて震えを強くする。
「命を捨ててでも逃げたいなら止めはしない。だが、あいつらの手にかかれば、死ぬことすら最大の苦痛を伴う労働に変わる。……ここには、希望なんてものはねえんだ」
老人は力なく首を振り、再び壁へと背中を預けた。
絶対的な諦念。どんな力を持っていようと、この収容所に囚われたが最後、あらゆる救いも希望も無意味である。そんな現実が、冷たい石の壁と共に陽菜を圧迫する。
「……それでも」
震える声が、暗闇を打った。
陽菜の隣にいるアルトが、顔を上げ、涙目のまま老いた男をしっかりと見据えていた。
「それでも、僕は逃げなきゃいけないんだ。ここで死ぬわけにはいかない……お母さんを探さなきゃいけないから……っ!」
必死に叫ぶ少年の言葉に、老人はわずかに眉をひそめた。
「お母さん……? こんな地獄で、人探しでもしていると言うのか。お前の母親も奴隷に落とされたとでも?」
「うん。僕を逃がすために、身代わりになって……」
アルトは、震える声で母親の容姿を語り始めた。
アルトと同じ特徴的な髪の色。細身で、少し吊り上がった気の強い目元。そして何より、半魔の子を身ごもった人間であるという特異な身の上。
一通りの特徴を聞いた老人は、記憶の糸をたぐるよう視線を落としていたが、やがてゆっくりとアルトの姿を見つめた。
「……お前、その角。それにその髪の色……そうか。あの時の」
「え……? おじいさん、お母さんのこと知ってるの!?」
アルトが弾かれたように身を乗り出す。
老人は信じられないものを見るようにアルトを見つめ返し、やがて深々と息を吐き出した。
「ああ……覚えている。半年ほど前だ、ここにお前と同じような雰囲気の女が連れてこられた。奴隷の身分に落ちながら、その目は少しも死んでいなかった。同室になった俺に、『息子は無事に逃げ延びただろうか』と、そればかりを呟いていたよ」
かつて奴隷商に連れて行かれそうになったアルトを庇って自分自身が奴隷になったという母親。
その誇り高き姿は、この収容所に捕らえられてもなお失われていなかったのだ。
そしてその母親は、たとえ地の底のごとき劣悪な環境でも、常に息子の身を案じていた。
「お母さんだ……! お母さんは今、どこに!? 坑道にいるの!?」
アルトの顔に、明確な希望の光が差した。生きていた。手がかりが見つかったのだ。
しかし、老人の口から告げられたのは、その希望を打ち砕くような冷酷な事実だった。
「……ここにはいない」
「え……」
「その女は、坑道には下りなかった。広場で検められた数日後には、別の馬車に乗せられたんだ。……北へ向かう、厳重な馬車にな」
「北って……」
「珍しい境遇の女だ。魔族領の貴族どもが、見世物として高値で買うと……監督官が下卑た顔で笑っていたよ」
それは、アルトの表情から血の気を引かせるには十分すぎるほどの衝撃だった。
魔族領。人間にとっては、文字通りの死地。そこへ彼の母親は売られていった。この鉱山でさえ生き残っているかどうかの瀬戸際と思われたのに、魔族領となると生存していると考える方が難しい。
陽菜は、己の呼吸が浅くなるのを感じた。
(魔族領へ……)
別の大陸とはいえ、かつて自分が魔王として君臨し、そして人間として生きるために、切り捨てた過去の地。
それが運命の悪戯か、今再び陽菜を引き寄せてくる。
陽菜は、絶望に打ちひしがれて俯くアルトの小さな身体に、そっと肩を寄せた。
牢の外の篝火が、二人の心の内を表すように揺れ続けている。




