第0話
「コーヒーをひとつ頼みたいのだが」
——そう注文したカウンターの男は、知らない。この飲み物を運んでくる店員の二人が、かつて世界を二分して殺し合った勇者と魔王だということを。
喫茶リリー。
それがリゼット・ブランとアリシア・ノワールの働いている店の名前だった。
カウンター席からの注文に、明るい声が響いた。
「かしこまりました。リゼ、コーヒーひとつ!」
「はーい。ん、アリシア、向こうのお客様も頼める?」
アリシアと呼ばれた少女が頷き、濃紺のワンピースの裾を揺らしながら、奥へぱたぱたと駆けていった。
先程注文した客が目を丸くする。
艶やかな栗色のロングヘアを揺らす、大人びた雰囲気のリゼット。
そして、淡い桃色の髪をふたつ結びにした、人形のように愛らしいアリシア。
「こんなに可愛らしい店員さんたちが、リゼとアリシアだなんて。まるで西の大陸の勇者と魔王のようだね」
それを聞いた別の客が可笑しそうに答えた。
「物騒なことを言うもんじゃないよ。それに俺が聞いた話じゃ、あそこの魔王はもう倒されたみたいだぜ」
「そいつはすごい! それと比べてウチらのとこの勇者はいまいちパッとしないからねぇ。店員さん、あんたが代わりに倒しに行ったらどうだい」
突然話を振られたリゼットが、澄んだ青い瞳を細めて、苦笑いを浮かべる。
「名前が同じってだけで駆り出されてたら、溜まったものじゃないですよ。はい、こちらコーヒーになります」
「はは、そりゃそうだ。お、どれどれ……って苦っ! 何だこれは」
「なんだお前さん、それ飲むのは初めてかい。珍しい飲み物だからねえ」
彼はいわゆるこの店の常連客だ。初めて訪れたらしい隣の客に、得意げに解説を買って出てくれているらしい。
リゼットは手元の作業に戻ると、今度は店の奥から怒号が聞こえてきた。
「何してくれてんだガキ!」
声は先程アリシアが向かったところからだ。
店内の客の視線が、一斉にその方向へ向く。
リゼットがカウンター越しに目を向けると、どうやら親子連れの子供が、通りがかりの大人に飲み物をこぼしてしまったらしい。
アリシアは手近な布を持っていき、少年と男性客の服に跳ねた液体を拭いている。
その子供は男性の突然の大声に、泣きはじめてしまった。
「ふざけんな!」と男の怒声が響く。
母親が真っ青な顔で何度も頭を下げているが、男の怒気は一向に収まる気配がない。
あろうことか、彼は泣きじゃくる子供めがけて、太い腕を容赦なく振り上げた。
「きゃあっ!」
母親が悲鳴を上げる。
そして子供に向かって放たれた拳は――勢いよく、子供とは反対側の丸太柱に激突した。
「い、ってえええ!」
突然の出来事に、親子はぽかんと口を開けた。
拳を放った男性本人すら何が起きたのか分からないという風に、目を見開いている。
ささくれた表面から木くずが細かく落ち、全力で打ち付けられた手は赤く腫れていた。
その中で一人、アリシアだけが静かにその様子を眺めている。
一瞬だけ、その真紅の目が妖しげに光ったが、次の瞬間にはもう元の色に戻っていた。
アリシアはぐずる子供の頭を優しく撫で、それから男性を振り返った。
「困りますよ、お客様。お店のものを殴ったりしては……あとで掃除が大変じゃないですかぁ」
そう、わざとらしい猫なで声で言った。
口元には笑みを浮かべていたが、その目は不敵に細められている。
「てめえ、何かしやがったのか。ふざけんじゃねえっ!」
男性は目を血走らせ、その標的をアリシアへと移した。
大柄な肉体から、重そうな蹴りが繰り出される。
しかし、その脚がアリシアに当たる直前、今度は男性が後ろから羽交い締めにされた。
「はいはいはい、そこまで。これ以上やるなら兵に通報しますよ」
いつの間に現れたのか、リゼットは男性よりも遥かに小さなその身体で、がっちりと取り押さえていた。
男性は必死に抵抗していたが、まるで万力に掴まれているかのように、ぴくりとも動けない。
「ほら、そこの君も。人に飲み物こぼしちゃったんだから、ちゃんと謝りなさい」
リゼットがぴしゃりと言うと、呆けていた少年はハッと口を閉じ、慌てて気をつけの姿勢をとった。
「ご、ごめんなさい……」
尚も男性のこめかみに青筋が立っていたが、リゼットが無言でぐぐっと腕の力を強めると、「痛い、痛い!」とたまらず腕を叩いた。
そしてリゼットがようやく解放すると、男性は忌々しそうに舌打ちをして、乱暴に店を出ていった。
リゼットはふんす、と鼻を鳴らして腰に手を当てていたが、
「って、お代っ!」
と勘定していないことに気づき、慌てて店の外へ追いかけに行った。
子供の母親が、申し訳なさそうにアリシアに頭を下げる。
「本当にご迷惑をおかけしました……」
「いえいえ、またお飲み物ご用意しますね。君も頑張ったね、偉いぞ!」
アリシアはそう言って少年に微笑むと、カウンターへ戻っていった。
少しして、からん、という扉のベルの音と共に、リゼットが帰ってくる。
「あぁ、もう最悪。逃げられたんだけど」
「えっ、ごめん。足潰しておけばよかった……」
「あんた本当にやりそうだし、やったらこの店終わるからな」
息を切らしながら半眼で睨むリゼットに、「冗談、冗談」とアリシアがいたずらっぽく笑う。
その頃には先程の騒ぎも落ち着き、他の客たちの様子も元に戻っていた。
カウンターに座る二人の客が、リゼットとアリシアのことを見ながら興味深そうに話しかけた。
「あんたら、息ぴったりじゃないか。昔からの知り合いなのかい?」
何気ない問いだったのだろうが、二人は思いの外、言葉に窮した。
「うーん、まあ何というか、前世からの仲というか」
「命のやり取りをした仲というか」
アリシアとリゼットが交互に言うと、客は呆気にとられたような顔をした。
「な、なんだか複雑な関係のようだね……?」
その言葉に、二人は顔を見合わせてお互いに吹き出した。
まあ、とリゼットが続ける。
「今は、ただの喫茶店の店員ですよ」
嘘ではない。だが、本当のことを言っているわけでもない。
◇
その日の夜。
店を閉め、二人はホールの後片付けをしていた。
リゼットはアリシアが掃除する様子をぼんやりと見つめていた。
小柄な身体を丸め、きゅっきゅ、と丁寧に床を拭いている。
その背中に、そっと呟いた。
「ねえ、陽菜」
それは、二人きりのときだけの特別な名前。
アリシアは当然のようにその名前に反応し、くるりと振り返った。
「どうしたの、莉子ちゃん」
その響きに、リゼットは肩からすっと力が抜けるのを感じた。
遠い昔、親友として当たり前のように交わしていた名前。
それを今、この小さな店で再び呼び合えている事実が、冷えた身体の奥をじんわりと解きほぐしていく。
振り返ったアリシアの口元に浮かぶ笑みも、営業中の「店員」のものではない。
かつての世界で自分だけに向けてくれていた、無防備なものだった。
「私たち、上手くやれてるのかな」
「喫茶店の話? それとも……私たちの秘密の話?」
アリシアは拭いた布を洗いにカウンターにやってくる。
そして、自然とリゼットと隣り合わせに立った。
ホールに水の流れる音が響く。
「二つ目の方。もしバレたら、私たちどうなっちゃうんだろうって」
蛇口がきゅっ、と締められ、雫の落ちる音だけになった。
「宿敵であるはずの勇者と魔王は実は異世界からの転生者で、二人は親友同士。そして今は隠居して喫茶店を営んでいる。――良くて研究対象のモルモット、普通は即処刑だよね。あはは……」
「だよねえー……」
二人は揃ってため息をついた。
勇者リゼット・ブランは柊莉子。
魔王アリシア・ノワールは有栖陽菜。
それが二人の前世の名前であり、絶対に隠し通さなければならない秘密だった。
建付けの悪い窓から、晩秋の冷たい風が入り込む。
リゼットとアリシアは思わず寒さに身体を縮こまらせた。
「ひぃ、寒いねえ。莉子ちゃん、ホットミルクでも飲む?」
「おっ、いいね。飲む飲む」
アリシアはマグカップを二つと、牛乳を取り出した。
しかし、ポットに注いだ牛乳は思ったより少ない量で、底をついてしまう。
「ありゃ、これだと一人分だね。分け合いっこしよ」
そう言いながら手際よく温め始め、刻んだ生姜を混ぜた。
完成して注がれたマグカップから、気分の安らぐ香りが漂ってくる。
「ふーっ、ふーっ……。はい、どうぞ」
息を吹きかけて少しだけ表面を冷ましてから、リゼットにカップを手渡した。
「ありがと、陽菜。……はあ、美味しい。あったまる」
そうして返ってきたマグカップを、今度は自分の口へと運ぶ。
先ほどリゼットが口をつけた場所と同じところから、こくこくと飲み始めた。
ランプの柔らかな灯りを反射して、淡い色の唇が艶やかに潤っていく。
その様子をじっと見つめていた視線に気付いたのか、アリシアは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、ううん。なんでも」
「変な莉子ちゃん。あっ……」
その途端、ふいっとリゼットのほうへ顔を近づける。
「えっ」と小さく声を上げる間もなく、柔らかな指先がリゼットの唇に触れた。
「ミルク、唇についてたよ」
そう言うと、彼女はその指先を自身の舌でそっと舐めた。
あまりに突然のことに、リゼットはカッと熱くなった頬を隠すように、たまらず視線を背ける。
ドクン、ドクンと嫌に大きな心音が、夜の静寂に響いてしまいそうで怖い。もう、まともに彼女の顔を見れそうになかった。
(以前なら、こんなことなかったのに)
喉の奥がつかえたように苦しくて、けれど少しだけ甘い。
勇者でも魔王でもなく、親友という枠にすら収まりきらない何かが、ここ最近ずっとリゼットを振り回している。
◇
そんな会話が続いた頃、店の扉が勢いよく開いた。
とっさに身構えたリゼットとアリシアの前に、二人の少女が現れる。
「――っ! 探しましたよ、リゼ様」
「魔王陛下っ。何でこんなところにいらっしゃるのですか!」
突然の出来事に、二人とも目を丸くして顔を見合わせる。
ピクリと引きつったリゼットの頬と、乾いた笑いを浮かべるアリシア。
言葉を交わさずとも、お互いの言いたいことはだいたい伝わってきた。
――これはきっと、面倒なことになる。
そんな予感とともに、彼女たちの新しい日常はまた別の形で動き始めようとしていた。




