第八話 迷い子たちの幕間 〜第二幕〜
勘吉と陽介の熱心な勧誘もあり、棒踊りを始める事になった太一。退助を港へと送り出した後、稽古日には公民館へと足を運ぶ日々を、送る様になっていた。
そんなある日。太一は退助を送り出した後、今日は一人で心療内科を訪れていた。
「一人で大丈夫か?」
と、退助は当然の事の様に心配をしたのだが。
「子供じゃないんだから、心配するな。」
との本人の一言で、その日の二人は行動を別にする事となった。
1.
「会長と桐野君から聞かされたときは、ちょっとびっくりしましたよ。」
太一に着席を促しながら、白石はそう彼に言葉を掛ける。
「無理強いされたりしませんでしたか?あの二人には、焦るなって言って有るんですけどねぇ。」
やれやれ。と言った表情で語る白石に。まぁ、多少の圧は感じたかなと思いつつも、太一は穏やかに応じる。
「いえ、そんな事は無いです。何となく、やってみたいなと思えたので。」
その太一の言葉に安堵しながら、白石は太一に尋ねる
「それなら良いんですけど…で、保存会には、もう慣れましたか?」
「ええ。皆さん、ホントに良くしてくださってます。」
白石はタブレット上のカルテに軽く目を落としつつ、太一の表情にも気を配りながら続ける。
「実際に参加されてみて、どうですか?疲れすぎたり、不安が強くなったりは、してませんか?」
「そういう事は無いですね。会の雰囲気も明るくて助かってます。」
その言葉を聞き届けた後、白石は質問を変える。
「ところで、この事は、中島さんには話されましたか?」
その問いに、太一は小さな決意を込めて、答えを返す。
「…まだです。」
「何か理由が?」
白石のその言葉に、少し考えを巡らせた後、太一は照れ臭そうに笑った。
「驚かせたいんです。」
白石の細い目が、驚きに見開かれる。
「驚かせたい…と?」
悪夢に魘された夜、不意に身体が強張ってしまった昼。いつも側で見守り、抱きしめてくれるときの退助の、無骨だが優しい表情を心に浮かべた太一の顔に、その流れ込んできた優しさが、笑顔の形を取り滲み出る。
「退助は今でも、俺を腫れ物みたいに扱わない様に気を遣いながら、それでも心配してくれてますから。」
太一は更に言葉を続ける。
「だから今度は、俺の方から安心させたいんです。『俺もちゃんと前に進んでる』って。」
白石は、その言葉に深く頷き、応じる。
「なるほど、お考えは良く分かりました。それなら、中島さんも喜ばれるでしょうね。」
そして、医師としての表情を強め、付け加える。
「一言いわせてもらうなら…無理はしないでください。」
「驚かせる事より、続ける事の方が大事ですから。」
そして今度は、悪戯っ子にも似た笑顔になりながら、言葉を続ける。
「及ばずながら、私も協力させてもらいますよ。これからは、同じ会の仲間でもありますから。」
2.
その数日後、その日は保存会の稽古日に当たっていた。太一は朝から二人分の弁当を詰めている。今日のおかずは太一手作りのハンバーグに、付け合わせは人参とブロッコリーのグラッセ、退助お気に入りの、甘めの卵焼きにキノコのソテーと、中々のラインナップだ。
「おはようさん。」
欠伸をしながら、寝ぼけまなこの退助が台所に入ると、太一を背中から抱きしめる。
「おう、おはよう。…って寝ぼけてないで、早く顔洗ってこい。」
「うぅ、最近太一が構ってくれない。」
退助が太一の背中に額を当てながら、ちょっと拗ねてみせる。
「子供か?おまえは。」
太一の背中越しに、退助の視界には出来上がりつつある、二人分の弁当が入ってくる。退助は、顎を太一の右肩に乗せつつ彼の耳元で尋ねる。
「今日はお前も弁当か。どっか行くのか?」
キノコのソテーで隙間を埋めて、盛り付けを終えようとしていた太一の手が、一瞬止まる。
「…こうした方が、無駄が出ないし手間も省けるだろ?」
「まぁ、それもそうだな。」
退助はそれ以上深く訊く事も無く、名残惜しげに太一の身体から手を離し、洗面所へと向かって歩き去っていった。
3.
退助に朝食を摂らせ、港へと送り出した太一は、棒踊りの稽古場として使われている公民館の広場へと来ていた。 短パンにスニーカー、Tシャツの軽装に、頭にはタオルで鉢巻きをして、汗が目に入ってくるのを防いでいる。
録音された唄に合わせながら、既に何度か教えられた振り付けを繰り返し、身体をその動きに馴染ませていた。その様子を、傍で見守っていた勘吉が口を開く。
「太一っちゃんはホントに、飲み込みが早いのぉ。」
「皆さん、親切に教えてくれますから。」
解いた鉢巻で汗を拭いながら、照れ臭そうな笑みを浮かべ、太一がそう答える。
「その謙虚さ、さすがワシの太一っちゃんじゃ!」
そう言いながら勘吉は太一の肩に手を回し、その身体を抱き寄せるとガシガシと頭を撫で始めた。
「ちょっと、会長!」
彼は困惑しながら、身を躱そうとするがこの老人思いの外力が強く、太一でさえ、振り解く事にてこずる程の怪力だ。現役時代を海で過ごしたと語る男の剛腕は、伊達では無かった。
「おい、じじい。」
そこへ聞こえてくる若い男の声に、勘吉が振り返る。
「なんじゃ、陽介か?今いいトコロなんじゃ。」
「何ワケの分かんないコト言ってんだ、八木さん困ってるだろ。」
「イヤじゃ、太一っちゃんはワシんじゃ。やらんぞ。」
「バカなの?」
冷ややかな視線を勘吉に浴びせながら、そう問いかける陽介に、コホンと咳払いをしつつ勘吉が言葉を返す。
「…冗談はさておき。」
「到底、そうは見えなかったぞ。」
「うるさいわい、これからの時代は海に生きる男も、ゆーもあと、うぃっとに裏打ちされた、いんてりじぇんすに、こみっとして行く時代なんじゃ。」
「意味分かって言ってないだろ。」
「まぁ兎に角じゃ。陽介、お前これから太一っちゃんと合わせてみろ。その様子を見て行けそうなら皆の中に入っても良い頃合いじゃて。」
勘吉の指示を受け、陽介は太一を広場の中央へと促す。
「じゃあ八木さん、これまでの稽古を思い出して、二人で合わせてみましょう。」
二人は自ら唄いながら、棒を担いでゆっくりと歩き始める。
『オセロが山は 前は大河…』
「エイエイ、サーサ。」
やがて二人は歩みを止めると、棒を振り始める。
「サーサ、エイエイ。」
前後にステップを踏みながら、棒で前を突き、器用にくるりと回す。
「イヤ、サッサーサ、エイエイ。」
突き、振り上げ、振り下ろし、くるりと回す。唄に合わせ、その所作を繰り返した。
棒振りが終わると、本踊りへと移る。
『焼野のキジは おかの背にすむ…』
二人は互いに棒を打ち鳴らし、飛び跳ね、しゃがむ。くるくると位置を変えながら、リズミカルに動き続ける。
棒を右手に携え、大の字に身体を開き、その棒で地面を打ち鳴らし、互いに打ち合う。その都度、乾いた音が鳴り響き、棒が心地よいリズムを奏でる。
何度かそれを繰り返すうちに太一と陽介の息は溶け合い、陽介の踏み込みに太一の足が合う。棒を打ち鳴らす音が、一つになった。
本踊りを終える頃には、二人の額に玉の汗が夏の日差しに照らされ、光っていた。
「よし、良いじゃろ。太一っちゃんや、どうじゃった?」
勘吉の、その問い掛けに太一は答える。その表情には、久々の明るさが射していた。
「今、合わせてみて少し分かった気がします。」
「八木さん、今の感じとても良かったです。」
勘吉は微笑みながら、太一に告げる。
「うむ、合格じゃ。次からは皆の列に入って良いじゃろ。」
「ありがとうございます!」
太一の顔に、久しぶりの笑顔が戻る。
「やはり、ワシの目に狂いは無かった…。」
そう悦に入る勘吉に、陽介の容赦ない指摘が入る。
「それ、自分しか褒めてないだろ。」
太一の中に、一歩の前進をもたらしたその日の稽古も、この師弟コンビにかかると、いつもの調子で過ぎていくのだった。
4.
「ただいま〜…って、あれ?」
その日の夕刻、帰宅した退助の第一声が、それであった。いつもは台所に立っている筈の太一の姿がそこには無く、静寂が家中を支配していたのである。
「珍しいな…。」
と、台所に至った退助が、冷蔵庫から出した麦茶をグラスに注ぎながら独り言を漏らしたとき、玄関の引き戸がカラカラと音を立て、人の入って来る気配がした。
「あ、もう帰ってたのか、すぐ風呂と飯の用意するからな〜。」
いつに無く上機嫌な様子で、太一が台所に入って来た。シンク脇にあるタッチパネルで浴槽へのお湯張りの操作をした後、冷蔵庫を開けて食材の在庫を確認している。その格好は短パンにTシャツと、これもまた、最近の太一にしては珍しい、気取らない活動的な服装である。
「おう、おかえり。今日はどっか行ってたのか?」
退助は、そう問いながら空になった弁当箱を、振り返った太一に手渡す。
「ああ、白石先生に言われてた散歩な。最近は距離を伸ばしてみてるんだ。」
太一は受け取った弁当箱の軽さに満足感を覚えつつ、そう答えた。
「…そうか、お前が楽しんでるなら何よりだ。」
退助は少し怪訝に感じながらも、かろうじてそれを表情には出さず、太一の返答に納得してみせる。
「ちょっと汗かいたから、先に着替えてくる。」
「それなら今日は、先に一緒に汗流そうぜ。」
退助が、相変わらずのアプローチを太一に掛ける。
「今日は準備が遅くなったから、俺は後で入るよ。とにかく腹、減ってるだろ?」
「う゛…。」
痛いトコロを突かれ、言葉を失う退助。
「気にしないで、ゆっくり入ってこい。毎日お疲れ様。」
太一の作る毎日の食事に、見事に胃袋を掴まれている退助は、彼のその言葉と食欲には、遂に抗えず浴室へと向かい、着替えを終わらせた太一は、夕食の支度に取り掛かった。
実際の所、二人の生活は経済的に、宇宙開発機構での長年の働きに対する年金と恩給で、一般的な世帯よりもかなり、余裕の有る生活を送る事が可能なのだが、太一は自らの人生の中で最愛の存在である退助の、活動的な本質を深く理解していたし、何より自分の存在が、退助の枷になる事を望んではいなかったので、彼が港の手伝いに通う決断と、日々の暮らしを素直に受け入れていた。
その日も深く浴槽へと身を沈め、一日の疲れを心地よい温度の湯の中へと、溶かしていた退助だが。
(……散歩だけで、あんな汗かくか?)
という疑問が、ほんの一瞬だけ頭を過る。
(いや、考え過ぎか。)
「それよりホントに腹減ったな、今夜のおかずは何かな〜。」
天梯事件のときには鋭い洞察力で、湊と澪の窮地に駆けつけた男と、同じ人物とは思えない程の脳天気ぶりを、このときの退助は如何なく発揮していた。
5.
『少し出かけてくる、夕食の時間までには戻る。:太一』
退助がその様な書き置きを、広縁のダイニングテーブルの上に見つけたのは、夏も盛りを迎えつつある、とある夕方の事だった。
「散歩…ねぇ。」
と、呟きつつ、メモ用紙を裏返したり透かしてみたりする退助だったが、勿論それ以上の事が、書かれてあろう筈もなく。
(何処まで行ったんだ?…って、俺が心配しすぎてるだけか…。)
と、その時玄関から馴染みのある声が聞こえて来る。
「ただいま〜。退助、帰ってるのか?」
「おかえり、太一。今日も散歩か?」
そう問いかける退助に、台所で冷蔵庫を開け、グラスに二人分の麦茶を注ぎながら、太一が答える。
「ああ。まぁそんな所だ。」
太一はグラスを二つ乗せたお盆をダイニングテーブルまで運び、一つを退助に手渡す。
「飲むだろ?」
「ああ、ありがとな。」
退助は手渡されたグラスに一口、口をつけてから、太一に話す。
「最近は、外に出られる様になってきたんだな。どうだ今度、港の様子でも見に来るか?」
太一は余程、喉が渇いていたのか、グラスの中身を一気に飲み干してから、退助の問い掛けに答える。
「ああ、そうだな。今度、見に行ってみてもいいかもな。」
「たまに、ちょっとからかい甲斐のある女の子が来てな。」
そんな事を楽しげに話す退助に、太一は冷ややかな視線を送りながら。
「あんまり、嫌われる様な事すんなよ。」
「やっぱり、デリカシーが無いとか言われる。」
その退助の返事に、太一は呆れ顔になりながら。
「そんな事だろうと思った。」
と、空になったグラスを流しに運びつつ、背中越しに答える。
「それは今度の事として。今日のおかずは、牛スジを蕩ける迄煮込んだシチューだ。お前、好きだろ?」
「何!それは本当か?キバヤシ‼︎」
「誰だよ?それ。風呂はタイマーで沸かしてあるから、ゆっくり入ってこい。」
「はいはぁ〜い。」
と、喜び勇んで風呂場へ向かう退助は、シチューの誘惑の前に、また大事な事を訊き忘れてしまうのだった。
6.
夏の強い日差しが照りつける午後。その日も、太一が持たせてくれた弁当を平らげ、昼からの作業に精を出している退助の背後に、声を掛ける女性の姿があった。
「お疲れ様です、中島さん。」
その声に作業の手を止め、振り向く退助。
「おう、里奈ちゃんか。今日はもう、仕事終わりか?」
「ええ、学校も夏休みに入って、今日はプールの監視も、他の先生の番なんで。」
ほう。と言う表情で、退助は言葉を返す。
「夏休みでも、先生ってのは大変なんだな。」
「そうなんですけど、好きでやってる仕事ですから。」
里奈のその言葉に、退助は表情を柔らかくする。
「で、また親父さんに届け物か?」
「今日は違うんですけど。夏休みの校外学習で、子供達の棒踊りの稽古が始まるので、その話をしに、保存会の会長さんのご自宅に伺う途中なんです。」
「あぁ、確か元は漁協の組合長だったとかって人だよな。」
里奈は若干の驚きを、表情に混ぜながら言う。
「あら、よくご存知ですね。」
「直接会った事は無いけどな。なんでも、伝説の漁師とか言われてるって聞いたぞ。」
ふふふ、と笑いながら里奈が返す。
「豪快だけど、気さくで優しい方ですよ。ちょっと、中島さんに似てるかもしれないです。」
「そうなのか?できれば会ってみたい気もするな。」
里奈の言葉に少し視線を上げて、人物像の想像を膨らませながら退助が呟く。
「中島さんなら絶対、気に入られて保存会に誘われますよ。」
「そうか…。そういや保存会も、人手不足で大変なんだってな?」
退助のその言葉に、里奈は突然思い出したかのように、話し始める。
「あ!そういえば最近、保存会に入られた方が一人いらっしゃるんですよ。」
「へぇ、そうなのか?新たにやってみたいってヤツも、やっぱり居るんだな。」
「ええ、副会長さんの紹介で見学された事が、きっかけだったみたいです。」
興味津々の面持ちで、退助が言う。
「ほう、それは一度会ってみたいもんだな。」
「あ、たしか以前は、宇宙開発機構で働かれていた方、だそうですよ。お名前は八木さん。」
「へ……八木?」
退助は驚きの表情を浮かべるが、この時の里奈に、その表情の真意を掴む事が出来る筈もなく、彼女はそのまま言葉を続ける。
「そう!ビックリしますよね?木星太陽化計画の功労者、八木太一と同じお名前なんですよ。でもあの木星探査行って、もう今から40年以上昔の事でしょ?年齢的には、かなりお若く見えるから、同姓同名の別の方なんでしょうけど。」
退助は驚きの表情を隠す事が出来ないまま、何とか平静を装おうとする。
「…そうか…。し、しかし珍しい名前だな。」
「そうですよね。私も最初、ちょっと驚きました。」
「でも、会長さんも驚かれる程覚えが早くて、とても上手に踊られるんですよ。若手リーダーの陽介くんと組むと、もうかなり息が合うし、けっこう仲良くなってるみたいです。」
その言葉の後、里奈は左手で潮風に乱れた髪をかきあげながら、右手首を返して腕時計に視線を落とす。その左手の薬指には、以前に会ったときには無かった、銀色に光る指輪が嵌められていたのだが当然、今の退助が、それに気が付く事は無く。
「あら、いけない。もうこんな時間!私そろそろ行かなきゃ。中島さん、お仕事の手を止めてしまって、ごめんなさい。」
退助は、心ここに在らずの状態にありながらも、里奈のその言葉に、何とか応じる。
「お…おう!気をつけて行けよ。」
「それじゃまた。お仕事頑張ってください!」
「…じゃあ…またな…。」
退助は呆然としながら、立ち去る里奈の後ろ姿を見送っていた。
7.
その日の夕方、帰宅した退助を待っていたのは、またもやの静寂に支配された、家の空気だった。ふらふらとした足取りで広縁のダイニングチェアに腰を下ろした退助の目に、書き置きのメモが映る。
『今日は少し遅くなるかもしれない。夕食は冷蔵庫に、筑前煮と焼き魚に、胡瓜の酢の物が入ってるから、温めて食べてくれ。:太一』
そのメモを手に取りながら、退助の頭の中は、里奈から告げられた事実で一杯になっていた。
(…陽介?…男…だよな…?)
(太一のヤツ最近、一人で出掛けて…今日はまだ帰ってきてない…。)
(俺には散歩だと言って…まさか?)
「太一のヤツ、他所に好きな男が出来たんじゃ…?いや、太一に限ってそんな事…。」
見事に事実の斜め上に行き着きかけた、退助の思考を現実に引き戻したのは、彼の腹の虫の鳴き声だった。人間、どんな時にも空腹には抗えないものなのである。
(何を考えてるんだ、俺は。)
「太一が、俺に黙ってそんな事する筈がないよな。」
冷蔵庫から取り出された筑前煮が、レンジの中で元の温度を取り戻していく様を、ぼんやりと見つめながら退助が呟いた時。
「ただいま〜。」
玄関から届く太一の声に、退助の肩が一瞬びくりと震える。そして、台所へと姿を現した太一に退助は声を掛けるが、ぎこちなさを隠せるほど、彼は器用な人間ではなかった。
「おぉ、おかえり!な、なんだ、今日は遅かったな。」
「どうかしたのか?」
退助の、らしくない振る舞いに、怪訝な表情を向ける太一。
「いや!なんでもないぞっ‼︎」
「なら良いんだが。あ、食事温めてくれてたな。遅くなって済まん。」
「いや、良いんだ。それにしても、散歩にしちゃ遅かったな。」
辛うじて平静を取り戻し、太一にそう尋ねる退助。
「ああ、白石先生と会ってた。」
「今日って、カウンセリングの日だったか?」
「…いや、今日は違うが…個人的にな。」
この時、決して太一は嘘をついていた訳では無かった。棒踊りの稽古で、白石とは実際に会っていたのである。
「それにしても毎日暑いな。今日は、俺が先に風呂もらっても良いか?」
太一にしても、この場を避けたい気持ちからか、つい、そんな言葉が口をつく。
「お、おう勿論だ、ゆっくり入ってこい。」
「飯、一緒に食えなくて済まんな。」
「気にするなって。」
口に出してはそう言ってみても、内心とても気にしている退助なのだった。
8.
夕食を摂った後、退助は浴槽にその身を沈めていた。普段なら心地良いお湯の温度に、疲れが溶け出していく実感を味わう瞬間なのだが、その日はそんな感覚も遠いものへと変わっていた。太一手作りの、好物であるはずの筑前煮も、どこへ入ったのか分からない程だ。
(あ!…明日は港の手伝いは休みだったな、太一に言い忘れてた。)
そんな事を考えていた時、カラカラと音を立てて脱衣所の引き戸が開き、曇りガラスの向こうに、太一の影が浮かぶ。
「退助、着替えここに置いとくぞ。」
「あ、ああ、済まない。ありがとな。」
いつもは、ここで出ていく太一だが今日はその場に留まり、退助に声を掛けた。
「お前、今日は変だぞ、港で何かあったか?」
こういう時、太一はやはり鋭い。マズいと思いながら、退助は何とか平静を装い、応じる。
「いや〜、そんな事ないんじゃないかな。最近、忙しいからかな〜。」
明らかに怪しい口調なのだが、彼にはこれが精一杯なのである。
「そうか、それなら良いんだが、明日も港か?」
「い…ああ!明日も、いつも通りだ。」
何故か、思わず嘘をついてしまった退助。もはや、自分でも何を言ってるのか、分からなくなっている。
「分かった。じゃあ、弁当作っとくな。」
「おう、よろしく頼む。」
そして、再び引き戸の音をたてて、太一の影は脱衣所から消えた。
(…俺は一体、何考えてんだ、太一の後を、こっそりつけようだなんて…。)
退助は、鼻までお湯の中に浸かりながら、自己嫌悪に陥っていた。
9.
夢の中で声が聞こえる、とても大切で、失いたくない者の声。これまでと、そしてこれからも、自分と共に在ると、信じて疑う事の無かった声。
「…すけ、退助。おい退助、起きろ!」
「……!」
目を開けた退助の眼前にあったのは、見慣れた太一の顔だった。
「いつまで寝てんだ、港、遅れるぞ!」
「え…港?」
寝ぼけまなこの退助に、やれやれ…といった表情で、太一は言葉を続ける。
「なに寝ぼけてんだ?今日も手伝いの日だって言ってたのは、お前だろうが。」
ベッドに身を起こした退助は、目をこすりながら答える。
「ああ…そうだったな、済まん。」
「とにかく、朝飯と弁当の用意は出来てるからな。早く顔洗ってこい。」
そう告げると、エプロン姿の太一は寝室を後にした。
大きく欠伸をしながら、退助はベッドから立ち上がる。頭の中をよぎる、様々な思いに邪魔をされ、明け方まで退助の許に、睡魔が訪れる事は無かったのである。
「ほら、ご飯粒、付いてるぞ。」
そう言いながら退助と向かい合い、食卓に座る太一は右手を伸ばし、退助の右頬に付いた米粒を取り、自分の口に運ぶ。
「ああ、済まんな。」
「お前、今朝は顔色悪いぞ。仕事、休むか?」
その気遣いを、退助は慌てて否定する。
「いや、大丈夫だ。そんな事はないぞっ!」
「そうか?それなら良いんだが…無理はするなよ。」
昨日から取り乱したままの退助に対して、太一の様子は極めて普通に、通常通りである。
朝食を終えた退助は、出掛ける準備に取り掛かる。太一は食事の後片付けの為に、流しで洗い物をしている。台所のカウンターの上に置かれている弁当の包みを、いつも通りバッグに詰め込みながら、太一の背中越しに声を掛ける。
「そ、それじゃ、行ってくるな。」
太一は振り向きながら、笑顔で答える。
「おう、行ってこい。気をつけてな。」
10.
退助は一旦、車で家を出て近所の駐車場に入り、車内で悶々とした時間を過ごしていた。
「…俺は一体、何をしようとしてるんだ?」
もし太一が出掛けるとしたら、一通りの家事を終わらせた後の事だと、目星を付けた退助は、その頃まではと思い、車の中で待機している。
(いや、太一に限ってまさかな…。)
(でも…。)
(いやいや。)
そんな思いが堂々巡りで、腕組みをした退助の中を流れていた。
「…一度だけだ、一度だけ確かめてみよう。それで何も無ければ、俺の考え過ぎってだけの事じゃないか。」
そうやって、自分を納得させる退助だった。
そして、太一が一通りの家事を終えるであろう、午後の時間。彼から持たされた弁当は、ちゃっかりと平らげ仮眠をとり、睡眠不足を解消した退助は、自宅近くの物陰に身を隠し、家の門から太一が出てくるのを、待っている。
「まさか、保安部の頃に身につけたスキルを、こんなコトに使うとは…太一、済まんな。」
そう一人で呟く退助の背後を、近所の母子連れが通り過ぎている事に、彼は気づいていない。
「ママ〜あのおじちゃん、何してるの?」
「しっ、見ちゃいけません!」
本当に天梯事件のときとは同一人物とは思えない程の、不審人物っぷりである。
退助がそうやって物陰に身を潜めて、どのくらいの時間が流れただろうか、家の門扉がカチリと硬い音を立てて開いた。
「…!」
退助の全身に、緊張が走る。
門から出た来たのはやはり、ここ最近の彼の定番となった、スポーティーな服装に身を包んだ、太一の姿だった。門に施錠し、鍵をポケットへとしまうと、町の方へと 歩き始める。なにやら鼻歌など口ずさんでいるように見えるが、この距離では何を歌っているのかまでは分からない。
「…さて、尾行開始だ。」
そう、自分に言い聞かせる様に呟くと、彼は動き始める。
11.
「おう、行ってこい。気をつけてな。」
そう言って退助を送り出した太一は、洗い物を終えると洗濯機を回しながら、家中の掃除に取り掛かる。
(退助は外で汗かいてるんだから、こっちは俺がやっとかないとな。)
掃除が終わると洗濯物を干し、夕飯の仕込みまでを、こなしておく。今夜のおかずは、退助が漁港から調達してきてくれた、シビを漬け丼にする為に、薄切りにして太一特製の醤油ダレに漬け込んでいく。残りの切り身は唐揚げにして、冷蔵庫の中の生野菜を添える事にする。丼が醤油味なので、こちらはあっさりとした塩唐揚げにする為に、これも手作りの塩ダレに漬けておく。味噌汁は買い置きの、即席のヤツで済ませる。
「よし、こんなもんかな。」
テキパキとここまでの段取りをこなし、太一がふと時間を見ると、時計の針は正午を回っていた。
「お、いかんいかん。今日は陽介君が自主練に付き合ってくれる日だったな。」
その日は保存会の稽古日には当たっていなかったのだが、本踊りの後半で、三尺棒を持つ事になった太一は、その振り付けも覚える必要が有るのだった。
勿論その決定に至るには、勘吉の。
『なぁに、ウチの太一っちゃんは出来る子じゃ。』
そんな無責任な一言があった事は、言うまでもない。
「まぁ、やると決めたのは、自分だからな。」
と、その経緯を思い出しつつ昼食を済ませた太一は、いつもの短パンにTシャツの軽装に着替え、鏡を見る。
「よし!秋の奉納では、退助のヤツを驚かせてやろう。」
そう、鏡の中の自分に話しかけ、玄関と門扉の施錠を確認し、鍵をポケットにしまうと、町の方角に向かい歩き始める。
「オセロが山は 前は大河…」
最近は一人で居ると、つい口ずさむ鼻歌が、これになってしまっている。一応、退助の前では出ない様に、注意を払っている太一だった。
太一は公民館の方角へ足を向けながら、ふと考える。
「あ、陽介君に何か、差し入れでも持って行くか。」
ちょうどそこから公民館までの間には、この辺りではちょっと名の知れた洋菓子店が有った事を思い出し、道すがら、そこへ立ち寄る事にする。
「そう言えば、白石先生と里奈ちゃんも、来ると言ってたな。」
白石と里奈はその日、公民館で校外学習の打ち合わせをする予定になっていたのである。そうなると、何だかんだと言いながら勘吉も姿を現すのが、保存会の常になっているので太一はその事も考慮して、少し大きめの焼き菓子の詰め合わせを、そこで調達した。
「会長、自分の分がないと…拗ねるからな。」
店から出た太一は、袋の中を覗き込みながら、そう呟く。当然その中には退助の分も、別の包みで入っているのである。退助が嬉しそうに菓子を頬張る姿を心に浮かべると、太一の顔には自然と、笑顔が滲み出る。
「退助、喜ぶと良いけどな。」
12.
その太一の後方から、人知れず彼の後を追う人影が一つ。言わずと知れた、中島退助その人である。彼とは一定の距離を保ちつつ、交差点では尾行対象(笑)の挙動を読み取り先回りをし、人の気配に太一が振り返ると、巧みに物陰へと身を潜める。
(ふっ…こんなところで役に立つとは思わなかったな…。)
卓越した尾行の技術を、この上なくしょうもない事に使いながら、心の中で退助が呟く。そうして暫くの間、太一の後をつけていると、彼は一軒の店の中へと入っていく。そこは、この辺りではちょっと名の知れた、洋菓子の店だった。併設されているカフェの評判も良いと里奈から聞き、近い内に太一を誘ってお茶しに来ようと、退助も考えていたところだった。
数分間、店付近の物陰に身を隠していると、太一は大きめの紙袋を手に下げ、外へ出て来た。
(この店であの袋くらいの買い物すると…ちょっとした金額になる筈…だよな…?)
そう考えた退助の口から、思わず愚痴が漏れる
「あぁ…俺には買ってくれた事…無いのに…。」
(ちくしょう、何処のどいつだ!)
そして再び歩き出しつつ、袋の中を覗き込み、笑顔になる太一を、退助は見ていた。その目は、なぜか涙に潤んでいる。
「俺…もしかしたら、振られるのかもしれない。」
かつて木製圏の英雄とまで謳われた男の、的外れな不安はこうして、際限なく膨らんでいくのだった。
13.
洋菓子店から数分程の距離を歩くと、目指す公民館の建物が視界に入ってくる。広場の入り口には、見慣れた男の姿が有った。その男は、太一の姿を見つけると声を出し、笑顔で手を振る。
「八木さーん!」
棒踊り保存会の若手リーダー、桐野陽介だ。均整の取れた体型に、男っぽく整った顔立ちと、どこか育ちの良さも滲み出る、中々の好青年なのである。保存会の会長を務める、榊原勘吉とは、言わば師弟の関係にあるのだが、勘吉と絡む際には、何故か毒舌が止まらなくなってしまうと言う、奇妙な個性を持っている。
「おう、陽介君。お疲れ様、休みの日にまで済まんね。」
「いえ、そんな事は無いです。俺、八木さんと踊るの、楽しいですから。」
その言葉に相貌を崩しながら、太一は応じる。
「そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ。」
そう言葉を返しながら、手に下げている紙袋から小さな包みを取り出し、あとの中身を紙袋ごと陽介に差し出しながら。
「これ、少しだけど差し入れ。後で白石さんと里奈ちゃんも来る筈だから。」
「ありがとうございます。ここの美味しいって、里奈も言ってました。後でみんなで食べましょう。」
受け取った紙袋を覗き込みながら、陽介が言う。その左手の薬指には、前回までは無かった銀色の指輪が、夏の日差しを跳ね返し、光っていた。
「あれ、陽介君。その指輪は?」
「ああ、これですか?ええ、実は…そう言う事で。」
日に焼けた頬を赧めながら、陽介は言う。
「良かったじゃないか、おめでとう!で、相手はやっぱり…。」
「はい…里奈です。」
「やったな!そうか…そう言えば、この前までは、ちゃん付けで呼んでたのに、変わるモンだな、こんにゃろ!!」
そう言うと、太一は陽介の肩に手を回すと身体を引き寄せ、彼の頭をガシガシと撫でる。
「ちょ、やめてくださいよぉ、子供じゃないんですからぁ!」
と、言いながらまんざらでも無い笑顔で、陽介は太一に身体を預けている。
「と、その話はこのくらいにして。八木さん、そろそろ始めましょうか?」
「お、そうだな。時間も限られてるしな。」
そう言って二人は広場の中へと並んで歩いて行く。その途中、陽介の視線は太一の手に有る包みに止まる。
「それ、相方さんへのお土産ですか?」
「ああ、アイツも疲れて帰ってくるからな。」
太一の返事に、陽介はふと思い出した様に言葉を続ける
「港に手伝いに来てくれてる人ですよね?なんか突然現れて、揉め事を解決しちゃったって聞きました。スゴいですよね?一度お会いしたいです。」
陽介は太一の配偶者が、男性である事にも抵抗が無い様子で、素直にそういう言葉が出てきている様だが果たして今、すぐ側で物陰に潜んでいる状態の退助を見ても、その言葉が出てくるのかは、保証の限りでは無い。
「ああ、そうだな。そのうち里奈ちゃんと二人で、遊びにでも来てくれ。」
「はい、是非。近いうちに!」
退助の顔を思い浮かべながら。
「…俺には勿体無いくらい、出来た相方なんだ…。」
そう呟いた太一の顔には、優しい笑顔が浮かんでいた。
14.
その出来た相方は、広場の入り口から少し離れた位置から、二人の様子を窺っていた。
「あれが『陽介』…か?」
広場の入り口で太一を待っていた若い男は…ハッキリ言ってイケメン。と、言うよりはちょっと古風な男前…と言うタイプだった。男っぽく整った顔立ちに爽やかな笑顔、そして自分よりも背が高い。その男が太一の姿を見つけた途端にその満面の笑顔で嬉しそうに手を振って、彼を出迎える。
(もしかして、最近太一が元気になって来ていたのは、既に新しい居場所を見つけていたから…なのか?)
そして二人は何やら親しげに話し込み、男は太一から菓子の入った袋を受け取り、中身を覗き込む。その仕草は退助の目から見ても、どこか可愛さを感じさせてしまうモノだった。そして次の瞬間、太一は男を抱き寄せ、ガシガシと頭を撫で始める。
「!!」
最近は自分が求めても、太一からは何かと躱されていた退助にとっては、衝撃の光景である。
「そうか太一…最近は俺もお前に、寂しい思いをさせてしまっていたしなぁ…。」
そして二人は広場の中へと並んで歩き始める、男が何やら太一に話しかけると、太一はこの上なく優しい笑顔になり、言葉を返している様だ。
「あぁ…俺…終わったわ。」
広場と道路を隔てる生垣の陰に身を潜め、退助がそう呟いた瞬間。
「キサマ何モンじゃ?」
いつの間にか背後に迫っていた気配から発せられた、年配の男性の声に退助は振り返る。
「へ…?」
「何モンじゃと訊いておる。」
(…マズい!)
反射的にそう感じた退助は咄嗟に身を翻し、その場から離れようと動く。
「待たんか。」
老人はそう呟くと、退助の襟首を掴み、足払いを掛ける。そして次の瞬間には、退助は柔道の袈裟固めの体勢で、なんと路上に組み伏せられていた。
「何っ!」
驚愕の表情を浮かべる退助に、その老人は吐き捨てる様に言葉を放つ。
「大方、他所の保存会の回し者じゃろう。ワシの太一っちゃんは渡さんぞ、この泥棒猫めが!」
「ちょっと待て!俺は…。」
そう言いながら、退助は老人の袈裟固めを外そうと動くが、何故か退助の身体能力を以てしても、そこから抜け出せる隙を、見出すことが出来なかった。
「多少は腕に覚えが有る様じゃが、かつて伝説の漁師と謳われたこのワシを舐めるで無いわ。どれ、このまま絞め落としてくれる。」
この上なく物騒な事を言いながら、老人は退助を絞める腕に力を込める。
(マズい!このままじゃ…。)
薄れかける退助の意識に、辛うじて二人分の足音が駆け寄って来ている感覚が届く。広場近くの角を曲がった所で、その異変を認めた一組の男女、白石と里奈である。
「ちょっと会長!何やってんですか!!」
「おう、恒一と里奈ちゃんか。ちょっと食い意地の張った泥棒猫を、懲らしめている所じゃて。」
勘吉に絞め上げられている男の顔を覗き込み、驚きの表情を浮かべる、白石と里奈。
「中島さんじゃないですか!!」
「え…中島さん?」
二人それぞれの口から出る同じ名前に、退助を絞め落とそうとしていた、勘吉の力が弱まる。
「なんじゃ、お前らの知り合いか?」
「知り合いも何も、その人は…。」
白石が説明をしようとした時、騒ぎを聞きつけた太一と陽介も、広場の入り口へと駆けつける。勘吉に組み伏せられている男の顔を見た瞬間、太一の表情は驚愕に染まる。
「退助!なんでお前がここに居るんだ!!」
「…よぉ、太一。奇遇だな。」
15.
「…つまり中島さんは、八木さんの隠し事の真相を確かめる為に、ここまで尾行を続けて来たと。」
一連の騒ぎが収まった後、一同は場所を公民館の談話室に移し、事態を整理していた。敢えて「浮気を疑った」という言葉を使わないのは、白石の気遣いの表れである。
「それをワシが他所からの引き抜きと勘違いしちまったって訳じゃな、済まんかったのぉ、退ちゃんや。」
笑いを交えながらの勘吉のその言葉を、白石が冷静に嗜める。
「会長、例え今回の事が他所からの、そういう動きだったとしても、やって良い事と悪い事がありますよ。」
「…はい。面目次第も御座いません。」
珍しく殊勝な態度の勘吉に、陽介の言葉が続く。
「全く!一歩間違えば、立派な傷害罪だぞ。」
「うぅ、だってワシの太一っちゃんを、他所に取られたく無かったんじゃ!」
「だから、アンタのじゃ無いから。」
陽介のその言葉に、しょぼーんと下を向いてしまった勘吉の様子を見かねて、白石が助け舟を出す。
「まぁ、陽介君。会長も反省している様だから、その位にしてあげてください。それに私も、事情を知った上で、八木さんの隠し事に協力していた訳ですから。」
「まぁ、恒一さんがそう言うなら…。」
そこへ里奈も、申し訳なさそうに言葉をかける。
「元はと言えば、私が中島さんに八木さんの事を喋ってしまったからですよね。あのときは、こんなコトになるなんて、思ってなくて…ゴメンなさい。」
退助は当然、里奈を庇う。
「里奈ちゃんが謝る事は無いぞ。俺が勝手に突っ走ったからだ。」
「でも私が、陽介くんの話をした後に、中島さんの様子が変わったみたいだし。」
それは白石が敢えて避けた領域へ踏み込んだ、里奈の発言だった。それを聞いた退助が、さすがに戸惑いを見せる。
「いや、まぁ…それはその…。」
退助の胸中を察した白石が、再びの助け舟を出す。
「あぁ、里奈ちゃん。そろそろ喉が渇いてきたから、悪いけどロビーの販売機で皆の分、お茶でも買って来てくれないかな?ほら、八木さんからの差し入れもあるし。」
と、言いながら里奈に財布を預ける。
「わぁ、ここのお菓子。私好きなんです!美味しいんですよね。」
「じゃあ、里奈。俺も一緒に行くよ。」
「うん、陽介くん。」
陽介の申し出に、里奈が嬉しそうにそう言うと、若い二人は談話室を後にしてロビーへと向かう。
その後の談話室で、退助の様子を見た太一は、それで全てを理解してしまう。
(ああ、そういう事だったのか。)
心の中で太一はそう呟いた後、ちょっと困った様に笑って。
「退助。」
と、最愛の人の名を呼ぶ。
「済まなかったな。これからは、お前にだけは全部話すって約束したのに…。」
「いや、お前が謝らないでくれ。信じてやれなかった俺の責任だ。」
そこへ白石が言葉をかける。
「何にしろ、お二人が仲違いする事が無くて良かったです。今日は稽古どころで無くなったのは残念ですが、今夜にでもお互いに良く話し合ってくだされば良いなと思います。今後、保存会を続けてくださるかどうかも含めて。」
そこへ勘吉が言う。
「ならば退助君、私の同志になれ。太一っちゃんも喜ぶ。」
「会長は黙っていて下さい。」
白石が冷静に言う。
「はい…。」
今はただ、ひたすら立場の無い、勘吉だった。
16.
その夜家に帰り着いた後、退助は広縁のダイニングテーブルに、顔面から突っ伏して落ち込んでいた。
(…あぁ、俺ってバカだなぁ…穴があったら入りたい…。)
そこへコトリと音を立てて、何かが置かれる。その方へ顔を起こしてみると、グラスに入った氷と、琥珀色の液体。
「呑むだろ?」
太一がウイスキーをロックで持って来ていた。そう言った太一もグラスを持って、退助の正面に腰を下ろすと、中の氷が小さな音をたてて、姿勢を変える。
「でもお前、まだ酒は…。」
「薬も大分減ってきたし、少しくらいなら良いって、白石先生からも言われてるよ。」
太一のその言葉に、退助は安堵の表情を浮かべ、言う。
「そうか…じゃあ、ちょっと乾杯したい気分だな。」
太一が少し、意地悪そうに返す。
「今夜は呑まなきゃ、居られない気分だしな。」
「それは言わないでくれ。」
そう言いながら微笑み合い、お互いに軽くグラスを合わせ、二人はその中身を一口、含む。その豊かな香りは、酒は質より量という主義の退助の舌にも、かなり上質の物だと感じられた。
「美味いな、どうしたんだ?これ。」
「湊と澪から送って来たんだ。コンドミニアムのお礼だそうだ。あの二人も、仲良くやってるみたいだぞ。」
太一はそう言うと、国際便の小包に添えられていた手紙を、退助に差し出す。
「昨日届いてたけど、お前の様子が変だったから、渡しそびれてたんだ。」
「重ね重ね、申し訳ない。」
「もう謝るなって、とにかく読んでみろよ。」
そう言われて、退助は封筒から中身の便箋を取り出す。紙が擦れ合う音が、静かな部屋に響いた。そこには、新居での二人の生活も軌道に乗り、研究室と自宅との往復で忙しい日々を送りつつも、お互いに良い関係を築いている事、研究も成果を上げつつあり、洗脳施設から保護された人々にも、本来の自我が戻ってきている事。一方で、太一からもたらされた情報に基づいて、原生圏の本拠地にも捜索は入ったが、既にその場所は引き払われ、もぬけの殻になっていた事等が記されていた。
「…こんな事書いて、よく検閲に遭わなかったな。」
半ば呆れた口調で、退助が呟く。
「そこには、鷹宮部長…今は昇進して局長だそうだが、その辺りの思惑があるんだろう。」
「思惑?」
怪訝な顔で、退助が問う。
「そう、例えば…注意喚起と、言った所だろうな。」
「今後、原生圏の手が再び俺たち…と言うか太一に伸びる恐れも有り得る…と言う事か。」
退助のその言葉に、太一が溜め息をつきながら言う。
「そう、だからお前にも、必ず知っておいて欲しかったんだ。」
「…また、俺のせいでお前が巻き込まれるんじゃないかって…。」
目を伏せながら、苦しげに太一は呟く。
退助はその様子を見ると、太一の隣に席を移し、手を握りながら言葉をかける。
「それでも、何度でも。俺は逃げないよ。」
そして太一の肩に手を回し、彼の身体を抱き寄せながら唇を重ね。
「もう良いだろ、今日は。見えない先の事を不安がっても、しょうがないじゃないか。」
「…そうだな。」
そして退助は、太一の耳元にそっと囁く。
「今夜は太一の事を…離したくないんだ。」
その言葉の後、今度は太一の方から退助の唇を求めながら。
「ああ…俺もだ、退助。今夜は…ずっと側にいてくれ。」
その夜、二人はいつもよりも長く、お互いの心と身体を求め合った。生まれたままの姿で、互いの温もりを確かめる様に、何度も触れ合いながら。
17.
夜明けの光が二人の寝室のブラインド越しに、薄く差し込む。退助はふと目を覚ます。その腕の中には、まだ微睡の中に漂う太一の温もりが有った。
その短めに整えられた髪をそっと撫で、まだ寝息をたてる顔にそっと口づけをすると、太一も目を開ける。
「おはよう、太一。」
もぞもぞと、退助の厚い胸板に顔を埋めながら、太一も言う。
「ああ、おはよう。退助。」
退助は自分の胸の中に有る太一の頭を抱きながら言う。
「昨日さ、白石先生が言ってたろ。」
太一は彼の胸の中で応じる。
「うん…これからの事だな。」
退助が、太一の頬に手を当て、彼の顔の前に視線を合わせながら言う。
「俺も…やってみようかな、棒踊り。勿論…太一が嫌じゃなければだが。」
「何、それは本当か?キバヤシ!!」
「バカ、一応、本気なんだぞ。」
太一が退助の身体を抱きしめながら。
「嫌な訳ないだろ。一緒にやろうぜ、棒踊り。」
「じゃ…あの会長か…挨拶に行かなきゃな。」
退助はちょっと、憂鬱そうな声で言う。
「一応、俺は先輩だからな。」
「はいはい、承知しております、太一せ・ん・ぱ・い。」
「うむ、それなら宜しい。」
二人は抱き合ったまま暫く笑うと、新しい一日を始めるために動き出す。
「じゃあ、可愛い後輩の為に朝食と、弁当を用意しなきゃな。服着て顔、洗ってこい。」
「はい、先輩の仰せのままに。」
こうして二人の幕間は、もう少しの間、つづくのだった。
はい、たいへんご無沙汰しております、中の人です。
今回は諸事情により結構、間が空いてしまいました。申し訳ございません。おじさん二人の、夏休み的な話を…と考えながら書き始めた今回のエピソードでしたが、夏の間に(立秋は過ぎてますが)何とか書き上げられて、胸を撫で下ろしております。まだ、幕間に作者が見てみたい場面ってのも幾つかあったりしますので、もう少し、幕間にお付き合いくだされば、嬉しいなと思っております。
ありがとうございました。




