第三十八話 新しい生活
翌日、公爵が屋敷を案内してくれた。
予想はしていたけれど——歩いてみると、改めて広かった。
廊下が長かった。
部屋が多かった。庭が広かった。
「ここは」
「客間が三つ続いている」
「三つ」
「大きな来客があるときに使う」
「こちらは」
「書斎の隣の資料室だ」
「‥資料室」
「帳簿の原本が保管されている」
リリエラは少し目が輝いた。
「は、入っていいですか?」
「好きにしていい」
棚が天井まであった。
年代別に整理された帳簿が、ずらりと並んでいた。
「……すごい」
「どのあたりから手をつけるつもりだ」
「最近五年分を先に——」
「思っていた通りだ」
「読めましたか」
「顔を見ればわかる」
「そんなに出ていましたか」
「出ていたさ」
リリエラは棚を見た。
分厚い帳簿が、静かに並んでいた。
数字が、眠っている。
この数字の中に——この屋敷の、この領地の、全部が入っている。
「帳簿についても手伝ってくれるかな?」
公爵が聞いた。
「もちろんです、楽しみにしてください」
「頼む」
「任せてください」
「うん、心強い」
ふたりで、資料室を出た。
庭に出た。
冬の庭だった。
枯れた木々が、でも形を保って並んでいた。
奥に、小さな温室があった。
「あそこは」
「花を育てている。母が作った温室だ」
「お母様が‥」
「もう亡くなって二十年になるが——花は続けている」
リリエラは温室を見た。
ガラスの向こうに、緑が見えた。
冬の外とは違う、温かい緑が。
「入っていいですか?」
「いつでも」
中に入った。
温かかった。
外とは別の空気があった。
色んな花があった。冬でも咲いている花が、静かにそこにあった。
「綺麗ですね」
「母が好きだった花ばかりだ」
「どんな方でしたか」
公爵が少し間を置いた。
「……穏やかな人だった。花を見るのが好きで、よく庭にいた」
「エレナさんと——似ていましたか」
「似ていたかもしれない」
「穏やかな人が好きなんですね」
公爵がリリエラを見た。
「あなたは、どちらかというと——違うが」
「似ていないですよね、私は。それでも選んでくれた。」
「ああ、それはな」
公爵が少し考えた。
「どんな状況でも周りに流されず、諦めずに言い切れる人だったからでしょうか」
「それだけですか」
「それだけじゃないが——それが最初だった」
リリエラは花を見た。
冬の温室の中で、静かに咲いている花を。
「レオンハルト」
「なんだ」
「お母様の花、大切にします」
「ああ」
「この温室も、好きになりそうです」
「そうか」
「資料室と同じくらい」
「同列か」
「どちらも、大事なものが詰まっているので」
公爵が目を細めた。
「——変な人だ」
「よく言われます」
「褒めている」
「わかっています」
温室の中で、ふたりは少し笑った。
花の匂いがした。
冬なのに、花の匂いがした。
ここも、好きになる。
なっていく。
毎日、少しずつ。
案内が終わったのは、昼過ぎだった。
クロワが書類を持って待っていた。
「奥様、一つよろしいですか」
「はい」
「屋敷の家政全般について——引き継ぎをさせていただきたいのですが、ご都合のいいときに」
「今日でも大丈夫です」
「本当ですか」
「早い方がいいので」
クロワが少し驚いた顔をした。
「……かしこまりました。では、午後に」
「はい」
「あの——」
「はい?」
クロワが少し間を置いた。
「奥様が来てくださって——屋敷が、明るくなった気がします」
静かな声だった。
いつものクロワの、感情を抑えた声だった。
でも——その抑え方の隙間から、本音が少し見えた。
「……ありがとうございます、クロワ男爵」
「いいえ、こちらこそ」
クロワが一礼して、廊下を歩いていった。
その背中が見えなくなってから、リリエラは小さく息を吐いた。
隣で公爵が言った。
「珍しい、あいつが素直にああ言うことを言う——よほどのことだ」
「よほどのことを、言ってしまいましたか」
「いいことだ」
「そうですか?」
「あいつも——ずっと、この日を待っていた」
リリエラは廊下の先を見た。
クロワが消えた方向を、しばらく見た。
十二年間。
ずっと、そばにいた人が——ずっと待っていた日が、来た。
ちゃんと受け取ろう、これからも。
この屋敷の人たちが持っているもの、気持ちを全部。
その夜の手帳に、短く書いた。
屋敷を案内してもらった。
資料室と温室が好きになった。
お母様の花が、冬でも咲いていた。
クロワ男爵が「明るくなった」と言ってくれた。
この屋敷が、好きになっていく。
毎日、少しずつ。
それでいい。
急がなくていい。
時間は——たくさんある。
窓を閉めた。
部屋が温かかった。
昨日より少し——この部屋が、自分の部屋になっていた。
少しずつ、なっていく。
それが——新しい生活だった。




