第三十七話 公爵邸、最初の朝
目が覚めたとき、天井が違った。
それだけで——変わった、とわかった。
見慣れた天井ではなかった。
でも、怖くはなかった。
窓から差し込む光の角度も、部屋の空気の匂いも、全部が昨日まで知らなかったものだった。それでも——どこか落ち着いていた。
ここが、自分の場所になっていく。
そう思いながら、しばらく天井を見ていた。
外から、鳥の声が聞こえた。
冬なのに、鳴いていた。
起き上がって、窓を開けた。
冬の朝の空気が入ってきた。
冷たかった。
でも——深く吸った。
公爵邸の庭が見えた。
手入れされた木々が、冬枯れの中でも形を保っていた。
遠くに、街の屋根が見えた。
王都だった。
この景色が、これからの朝になる。
毎朝、この窓を開ける。
悪くない、と思った。
むしろ——好きになりそうだった。
支度を整えて、廊下に出た。
マリアが待っていた。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、マリア」
「よく眠れましたか」
「眠れました。不思議なくらい」
「それはよかったです」
マリアが少し笑った。
ふたりで廊下を歩いた。
公爵邸の廊下は、ライムブリュレ家より広かった。天井が高くて、窓が多くて、朝の光がよく入っていた。
歩きながら——光の入り方が綺麗だな、と思った。
帰る場所が変わったけれど、光は同じ空から来ていた。
食堂に入ったとき、公爵が先に座っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「早いですね」
「いつもこの時間だ」
「そうなんですか」
「知らなかったか」
「知りませんでした」
公爵が少し目を細めた。
「これから知っていけばいい」
「はい」
「時間はある」
「たくさんありますね」
朝食が来た。
ふたりで食べた。
特別なことは何も言わなかった。
でも——この静けさが、よかった。
緊張していない静けさだった。
一緒にいることに慣れた人と過ごす、穏やかな静けさだった。
これが——毎朝になる。
悪くない。
全然、悪くない。
朝食の途中、公爵が言った。
「今日は、しっかりと屋敷を案内しよう」
「お願いします」
「広いので、覚えるのに時間がかかるかもしれない」
「迷子になりそうですね」
「最初はなる」
「案内板でもあればいいですが」
「クロワに頼む」
「本当に作ってもらえそうで少し怖いです」
公爵が少し笑った。
小さい笑いだったけど——朝の光の中で、はっきり見えた。
この人の笑顔を、毎朝見られる。
それだけで、胸の中が——温かくなった。
朝食が終わった後、クロワが書斎の前で待っていた。
書類を持っていた。
いつも通りだった。
でも——いつもと少し違った。
書類を持つ手が、わずかに緊張していた。
「クロワ男爵」
「……おはようございます、奥様」
「おはようございます」
クロワがリリエラを見た。
それから公爵を見た。
それからまた、リリエラを見た。
何か言いかけた。
「クロワ」
公爵が言った。
「言っていい」
「……はい」
クロワが書類を持ち直した。
眼鏡を直した。
背筋を伸ばした。
「——奥様、ご結婚おめでとうございます」
「はい」
静かな声だった。
抑えた声だった。
でもその抑え方の中に——どれだけのものが入っているか、リリエラには少しわかった。
この人は十二年間、公爵のそばにいた。
エレナを亡くした日も、父を亡くした日も、ひとりで窓を閉め続けた六年間も——ずっと、そばにいた。
「ありがとうございます、クロワ男爵」
「これから——よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「公爵様を——」
クロワが少し止まった。
「——これからも、よろしくお願いいたします」
「はい。お任せください」
クロワが頷いた。
眼鏡を直した。
今日何度目かわからないが——今日は、ずれていないのに直した。
「では、本日の公爵様のご予定ですが——」
いつも通りの声に戻っていた。
でもリリエラは見ていた。
クロワが書類を広げる手が——少しだけ、震えていたのを。
何も言わなかった。
でも——ちゃんと、見ていた。
その夜、リリエラは手帳を開いた。
新しい部屋で、新しい光の下で。
公爵邸の最初の朝。 天井が違った。 でも怖くなかった。 朝食を一緒に食べた。 静かだった。 クロワ男爵が、おめでとうございますと言ってくれた。 手が、少し震えていた。 十二年間のことを思った。 この場所が、これからの場所になる。 なっていく。 毎朝、なっていく。
窓の外に、夜の王都が広がっていた。
昨日まで「帰る場所」だった街が——今日から「出かける場所」になった。
でも、変わらないものもあった。
同じ空があった。
同じ星があった。
変わるものと、変わらないものがある。
変わるものは、変わっていけばいい。
変わらないものは、ずっとそこにある。
手帳を閉じる。
廊下から、かすかに公爵の足音が聞こえた。
書斎から戻ってくる足音だった。
扉の前で止まった。
ノックが、二回あった。
「入っていいか」
「どうぞ」
扉が開いた。
公爵が入ってきた。
「まだ起きていたか」
「手帳を書いていました」
「そうか」
公爵が窓の外を見た。
夜の王都を、少し見た。
「慣れたか、この部屋に」
「まだです。でも——好きになりそうです」
「そうか」
「窓から見える景色が、好きです」
「昼間と夜で、違う」
「どちらも好きです」
公爵がリリエラを見た。
「——よかった」
その言葉には色んなものが入っていた気がした。
「おやすみなさい、レオンハルト」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まった。
また静かになった。
でも——さっきとは違う静けさだった。
ひとりの静けさではなくて。
誰かがそばにいる、静けさだった。
これが——毎晩になる。
目を閉じた。
今日は良く眠れそうだった。




