30話 ……ただいま
……眩しい。
荷造りに疲れて、いつの間にか寝ていたようだ。
閉め忘れたカーテンから朝日が降り注ぐ。
伸びをしてベッドから起き上がったとき、手の甲にふさふさの感触が当たった。
「ん?……アオ?!」
何でここにいるの?! これ、どういう状況……?
なぜか葵が隣で寝息を立てている。
麗は混乱に陥り、頭の中が真っ白になる。
本当に何で? 昨日の夜は広間で寝てたじゃん!
部屋、間違えた? まさか……。
室内を見回す。
床に重なっている段ボール箱。
部屋の隅には大きなキャリーケース。
棚の中はほとんど空で、机の上には家族写真しかない。
やっぱり、私の部屋だ。
じゃあ、何でアオが……?
ストレートの黒髪に朝日が反射して艶が際立つ。
伏せたまつげがわずかに震える。
タンクトップの胸元が規則正しく上下する。
葵の胸から血が溢れ出る幻想が、麗の脳裏を一瞬よぎる。
瞬きをすると、幻想は消えた。
もう、あんな思いは二度としたくない。
麗はゆっくり手を伸ばし、葵の頬にそっと触れる。
……大丈夫。
アオは、生きてる。
手をどかそうとした時、突然手首を掴まれ、葵がうっすらと目を開いた。
「……麗」
掠れた声で名前を呼ばれ、心臓がぎゅっと締め付けられる。
寝ぼけた様子の葵は、麗の指に自分の指を絡ませる。
指先から熱が伝わり、一気に顔が熱くなる。
「ちょっと、アオ!」
「……なんだよ。夢の中でもうるせえな」
「夢じゃない! 離してよ!」
葵の指を引きはがし、ベッドから降りて葵と距離を取る。
心臓がバクバク鳴ってうるさい。
指はまだ熱を持っている。
「な、何でおまえが!」
ようやく夢から覚めた葵は飛び起き、真っ赤な顔で麗を指さす。
「それはこっちの台詞! ここ、私の部屋なんだけど!」
「は?」
葵は室内に目を向け、固まる。
「何で……」
「こっちが聞きたいよ。寝ぼけて部屋間違えたの? ありえないんだけど。何して……」
葵は麗の両肩に手を置き、鋭利な眼差しで射抜く。
「おまえこそ何してんだよ。あの段ボールとスーツケースは何だ」
「それは……」
「まさか、出てくつもりか」
葵の瞳が大きく揺れる。
麗は目を逸らして唇を引き結ぶ。
「麗ちゃん、起きてる?」
晴の声がドアの向こうから聞こえる。
葵はさっと手を離してドアを睨む。
「開けるよ」
「ちょっと待っ……」
麗の制止は間に合わず、晴がドアを開ける。
腕組をしている葵を見て、晴はすっと目を細める。
「どういうこと?」
「おまえには関係ねえよ」
「関係あるでしょ。ねえ、麗ちゃん。どうしてアオがいるの?」
「え、えっと……。アオが寝ぼけて部屋間違えて、それで……」
「へえ」
晴は冷たい眼差しを葵に向ける。
「何だよ」
「別に。いい言い訳だと思って。今度僕も使っちゃおうかな」
「はあ? 言い訳じゃねえし。わざとやってみろ。殴ってやる」
「殴りたいのはこっちなんだけど」
拳を握り睨み合う葵と晴の間に、不穏な空気が流れる。
「やめてよ、2人とも。ここは私の部屋なの。出てって」
腰に手を当て、ドアを指さす。
「何が私の部屋だよ。出てくつもりだろうが」
「え?……この荷物、そういうこと?」
「いや、だから、その……」
麗は後ずさる。その分2人は距離を縮め、壁際まで追いつめられる。
「はっきり言え」
「どうなの、麗ちゃん」
2人が麗の顔を挟むように壁に手をつく。
右には葵の手、左には晴の手。
頭上には2人の顔。
逃げ場がない。
麗は目を伏せ、溜息と共にぽつりとこぼした。
「……出ていくつもり」
葵は眉を寄せ麗を見下ろす。
「何でだよ」
「大熊はもういない。誰かに守られる必要はもうないの。私は、ひとりで生きていく」
「麗ちゃん……。一人暮らしするってこと?」
「うん」
ドンッ!
葵が壁を強く殴る。
麗は肩をびくつかせ、目を伏せる。
「そんなの許さねえ。ここにいろ」
頭上から降ってくる葵の声がわずかに震えている。
「アオは横暴だなあ」
晴の指が麗の細い顎を掴んでくいっと持ち上げる。
「僕は麗ちゃんの意思を尊重するよ」
いつもとは違う温かい眼差しに、麗の目尻がじんわり熱を持つ。
「おまえ、何言ってんだよ」
葵が目を吊り上げ、麗の顎から晴の指をどかす。
「麗ちゃんの自由でしょ」
……自由。
ずっと欲しかった。
自分の足でこの家を出て自由に生きることを望んできた。
アオはここにいろと引き留める。
ハルは私の背中を押してくれる。
この2人は双子なのに、相変わらず正反対だ。
「でも、一人暮らしは危ないから、僕もついていくけどね」
「えっ!」
「はあ?」
驚く麗と葵に、晴は飄々とした笑みを向ける。
「おまえと2人の方がよっぽど危険だ。俺も行く」
「ええっ!?」
更に驚く麗を差し置いて、2人は好き勝手話を進め始める。
「しょうがないなあ。じゃあ、3人でもいっか。住むなら駅近がいいよね」
「いや、学校の近くの方が便利だろ」
「そっか。あそこらへん空いてるマンションあるかな」
晴は早速スマホで検索を始め、葵は横からその画面を見てあれこれと口を出す。
状況についていけない麗は頭を抱えて声を張り上げる。
「勝手に話進めないでよ。3人で住むなんて言ってない!」
「3人が嫌なら、僕と住もう」
「それはありえない。住むなら俺とだ」
「そういうことじゃなーい! 私は1人で出てくの。ついてこないで! いい加減出てってよ!」
葵と晴の背中を押して部屋から追い出し、勢いよくドアを閉める。
「もう、なんなの、あいつら」
麗は箪笥を開けて一組だけ残しておいたシャツとジーンズに着替える。
折れ線のついた家族写真を手に取り、ベッドの淵に腰掛ける。
行くなら、お父さんとお母さんと暮らした場所がいい。
アオとハルの知らない私の思い出の場所。
幸せがたくさん詰まっている場所。
写真の背景に映っている喫茶店を指で撫でる。
「……まだ、残ってるかな」
もう6年も経っている。残っていないかもしれない。
それでも、帰りたい場所はここしかない。
行ってみよう。
麗は立ち上がり、ショルダーバッグに家族写真とICカードを入れた。
朝食後、ショルダーバッグを持って静かに廊下に出る。葵と晴の部屋の前を足音を立てずに通り過ぎる。
誰にも出くわすことなく靴を履き、玄関扉を開ける。
「やっと来たか」
「遅かったね」
なぜか葵と晴がいる。
麗は思わず扉を閉める。
だが、葵の足に阻まれてしまう。
「閉めるなよ」
「何でいるの?!」
「行きたい所あるんでしょ」
何でもお見通しだと言わんばかりにほくそ笑む晴。
「何でそれを……」
「やっぱりな」
葵がにやりと口角を上げる。
麗は咄嗟に口を押えて肩を落とす。
はめられた……。
でも、どうしてひとりで出かけようとしたのバレたの?
疑問が顔に出ていたのか、晴はくすりと笑みをこぼす。
「6年も一緒にいるんだよ。麗ちゃんの考えてることぐらい分かるよ」
なんかむかつく。
結局この2人からは逃れられないのかもしれない……。
電車を乗り継ぎ、記憶にある駅で降りた。
改札を出て人通りの多い商店街を抜け、しばらく歩く。両隣に並んで歩く葵と晴は、行き先を聞くことなく、興味深そうに辺りを眺めている。
「ここだ」
角を曲がったところで麗は足を止め、家族写真を取り出して目の前の建物と見比べる。
場所は確かに合ってる。
外観もほとんど変わってない。
でも……。
「ケーキ屋になってる……」
窓から中を覗くと、店主だろうか、パティシエ姿の中年の男性と、白を基調とした清潔感のあるユニフォームを身につけた同年代の女性が穏やかな笑顔で接客をしているのが見えた。
イートインスペースもあるが、内装の面影は一切残っていない。
「うちに来る前は、ここに住んでたの?」
写真を横目に晴が問いかける。
麗は写真に目を落とし、頷く。
「住居兼喫茶店だった。毎日たくさんお客さんが来て、私も少しだけ手伝ってた。コーヒーの香りと笑顔でいっぱいのお店で、大人になったら両親と一緒にここで働きたいって思ってた」
写真をしまって、振り向く。
「……叶わなかったけどね」
寂しそうな顔で無理矢理笑う。
「麗ちゃん……」
晴の手が慰めるように、麗の頭を撫でる。麗はその手をそっとどかし、ケーキ屋に背を向ける。
「もういいの。踏ん切りがついたから……」
新しい人に使われててよかった。
ここにはもう、戻らない。
「行くぞ」
葵が麗の腕を引いて、この場から引き剥がすように歩き出す。晴には軽く背中を押される。
「行こっか」
「あ、うん」
振り向く間もなく、来た道を引き返した。
駅についてから麗は足を止め、2人を見上げた。
「もう1ヵ所行きたいところあるんだけど」
「いいよ」
「どこだよ?」
「……けじめをつけたいところ」
麗はそれだけ言うと、ICカードをタッチして改札を潜った。
「確かこの辺だったんだけど」
駅から15分ほど歩いたところで、麗は立ち止まる。
周囲はアパートや一軒家が並ぶ閑静な住宅地だ。
「何探してるんだよ」
痺れを切らした葵が不機嫌そうに眉を寄せる。
硬い表情で辺りを見回す麗に、晴は問いかける。
「もしかして、うちに来る前に住んでた家、とか?」
麗は一瞬怯えたような顔をして、唇を噛み締める。
「……うん。お母さんと暮らしてたアパート」
真っ赤に染まった浴室。
青白い母の顔。
焼き付いた記憶は、簡単には薄れない。
でも、アパートでの記憶は辛いものだけじゃなかった。
父の分まで働いて大変だったはずなのに、いつも笑顔でいた母。
一緒に夕飯を作ったり、裁縫や家事を教えてもらったり。
もう一度アパートに行けば、慎ましくも楽しかった記憶を思い出して、あの日の記憶を上書きできるんじゃないかって思ってたのに……。
「どこにもない」
確かここだったはずなのに、目の前にあるのは比較的新しい二階建てのアパートだ。
「本当にここなのか?」
葵に聞かれ、自信なさげに頷く。
「……多分」
「麗ちゃんが探してるアパートって、これ?」
晴がスマホの画面を見せてくる。そこに映っているのは記憶にある古いアパートだ。
「これ! ネットに載ってるの?」
「まあ、うん。場所はここで合ってるみたいだよ」
曖昧に頷く晴の手元から葵がスマホを奪う。
「あっ、アオ!」
「ニュース記事か?……放火、だと?」
「ちょっと見せて!」
葵からスマホを奪って画面を凝視する。
『築30年のアパート、放火で全焼』
記事のタイトルが目に飛び込む。
内容に目を通すと、放火の日付に目を見開く。
「この日って……」
麗の手からスマホが落ちる。
晴がそれを拾い、低く呟く。
「麗ちゃんがうちに来た日」
じゃあ、お母さんはどうなったの?
葬式も挙げてない。
火葬したって話も聞いてない。
お墓の場所も知らない。
「……お母さんの遺体、火事で燃えちゃった?」
「遺体が見つかったってことは書いてないよ。もしかしたら、父さんと母さんがなんとかしてくれたのかも。聞いてみる?」
晴が小首をかしげてスマホを振る。
「えっ……」
聞いた方がいいのか、知らないままの方がいいのか。
私は、知るべきなのか。
……分からない。
重苦しい黒いもやが胸の中に広がる。
息が詰まる。
「もういいんじゃねえの」
葵が麗の頭をポンと叩く。
不思議と呼吸が軽くなる。
「もうアパートはない。大熊のことも全部終わったんだ。過去とけじめをつけたかったんだろ。前を向けよ」
いい、のかな?
知らないままでいいの?
お母さんのことなのに……。
「麗ちゃんはどうしたいの?」
「……私?」
「麗ちゃんが決めたらいいよ」
私が、決める……。
私が、決めていいんだ。
私は……。
葵と晴を見上げる。
2人の温かい眼差しに包まれ、麗は口元を緩める。
「帰ろう」
薄茶色の瞳に陽射しが反射して煌めく。
そこにはもう、迷いの色はなかった。
「へえ。帰る、か。じゃあ、俺らの家はおまえの家ってことだな。わざわざ出てく必要はないよな?」
「うっ、それは……」
葵に詰め寄られ、麗はたじろぐ。
無意識に”帰る”と言ってしまった。
自分でも気づかない内に、鹿島家が私の家になっていたの……?
「でも、私は鹿島家の家族にはなれない。組長と紗季さんの養子にはなれないし、アオとハルの兄妹にもなれない。だから、出ていかなきゃ、甘えてちゃだめだって思って。それで……」
葵と晴が呆れた顔をする。
「バーカ」
「麗ちゃんって賢いのに、抜けてるよね」
「な、何その言い方! 真剣に考えたんだから!」
「家族じゃないから何なんだよ」
「え?」
「今までだって家族じゃなくても一緒に過ごしてきたでしょ。大熊のことが終わったからって、僕たちと麗ちゃんの関係が終わったわけじゃないよ」
「そう、なのかな」
ピンッ!
葵にデコピンをされる。麗は額を押さえ、葵を睨んだ。
「痛いっ!」
「ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ。行くぞ」
「行こう、麗ちゃん」
「あ、ちょっと」
葵と晴に手を引っ張られ、前に進まされる。
2人の骨ばった大きな手からじんわりと温もりが伝わる。
麗は2人の手を振り払わず、前を向いて並んで歩いた。
過去を置いてくように、一歩ずつ前へ進んだ。
見慣れた鹿島家の門が見えてきた頃には、空は茜色に染まっていた。
「麗」
ふいに、懐かしい声が聞こえた気がした。
麗は足を止め、振り返る。
「……?」
だが、そこには誰もいない。
夕暮れの道を、風が静かに通り抜けていくだけだった。
「麗ちゃん、どうしたの?」
晴に呼ばれ、麗は前を向く。
「ううん。なんでもない」
葵が玄関扉を開ける。
晴が麗の手を引いて中に入れる。
「おかえり」
「おかえり、麗ちゃん」
麗の胸が跳ね、熱いものがこみ上げる。
私はここにいていいんだ。
ここが、私の居場所。
私の帰る場所。
「……ただいま」




