29話 おかえり
真っ暗の部屋で枕に顔をうずめる麗の脳内には、紗季の言葉がループしている。
『本当の家族にならない?』
『養子にしたいと思ってるの』
すぐに答えなくていい、ゆっくり考えてみてと紗季に言われたが、養子になることはまったく想像できない。
紗季の気持ちは嬉しい。
でも、“長宮”を捨てたくない。
お父さんとお母さんと自分を繋ぐ証だから。
それに、アオとハルと兄妹になるのは、なんか違う気がする……。
6年間、一緒に過ごした。
決して短い年月じゃない。
でも、家族としてじゃない。
同居人として鹿島家に居候していただけ。
今さら家族になんてなれない。
鹿島家の輪に入れるわけがない。
私の家族は、お父さんとお母さんだけ。
復讐を果たした今、家族でもない私がここに居続ける意味は、ない――。
「紗季さん、昨日の話なんですけど」
翌朝、紗季と一緒に朝食の準備をしている最中、麗は思いきって声をかけた。
「聞きたいことがあったら何でも聞いて。これからのこととか、色々気になるわよね」
紗季はフライパンの火を止めて、麗と向き合う。
「えっと、そうじゃなくて……」
麗は唇を引き結び、頭を下げる。
「養子の話、お断りさせてください。すみません」
紗季は残念そうに眉を下げる。
「ゆっくり考えてくれていいのよ」
麗は顔を上げ、揺らがない瞳で紗季を見据える。
「いいえ。私の気持ちは変わりません」
「……そう。わかったわ。麗ちゃんの気持ちが一番だものね。でも、麗ちゃんのことは本当の娘のように思っているわ。家族の一員としてこれからもよろしくね」
紗季の顔に母の顔が重なる。
熱いものがこみあげる。
溢れ出す前に目を逸らす。
家族の一員……。
それは……。
麗ははっきりと答えることができなかった。
葵が傍にいない日々はしばらく続いた。
家でも学校でも主のいない空席につい目がいってしまう。
毎日お見舞いに行って、順調に回復していることはわかっていても、突然容態が急変するかもしれない、耐え難い痛みに倒れるかもしれないと、よくない考えが何度もよぎる。
葵の胸から溢れ出す大量の血、動かなくなった心電図など、あの日の恐怖からは未だに逃れられず、悪夢にうなされる。
寝付けない日々が続き、目の下に濃い隈ができてしまった。
「麗ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ」
晴の手が頬に添えられ、親指の腹で隈を撫でる。
心配そうな晴の表情に裏を感じない。
あの日から晴の様子がちょっとおかしい。
「大丈夫だから」
晴の手を振り払い、周囲を見回す。
教室の中にも、廊下に面した窓にも、女子生徒が晴へ熱い視線を送っている。そんななか、晴は愛想を振りまくことなく、麗だけを見ている。案の定、女子たちの刺々しい嫉妬の目線が痛い。
「あの子だけ特別扱いなんてずるい」
「でも、色々事情があるんでしょ。それに、文化祭のときレイ君かっこよかったし」
「わかる! 3人の箱推し増えてるよね」
聞こえてきた会話に耳を疑う。
嫉妬だけじゃない?
ていうか、私が推される側?
どうなってるの?
「ハルさまファン増えてない?」
廊下を見て溜め息をつく恵の声が聞こえる。
「だって、最近のハルさま色気やばくない?」
「それはわかるけど」
わかるの?!
思わず恵に視線を向けてしまう。恵と目が合い、苦笑いをすると、愛想笑いが返ってきた。
「麗ちゃん、アオの退院祝いするって聞いた?」
晴が小首をかしげて微笑む。それだけで女子生徒たちの歓声が上がる。色気はよくわからないが、前よりは雰囲気が柔らかくなった気がする。
「お祝いしようと思ってるっていうのは紗季さんから聞いたけど。退院の日、決まったのかな?」
「今週末らしいよ」
「そうなんだ。今週末……って、明日ってこと?!」
ガタン!
椅子を引いて立ち上がる麗に、女子生徒たちの視線が集まる。
「もしかして、葵くん、明日退院するの?」
近づいてきた恵が問いかける。
「あ、うん。そうみたい」
途端に教室中が拍手に包まれる。
「よかったあ。もうすぐ学校にも来てくれるかな」
胸をなでおろして安堵の笑みを浮かべる恵。
アオのこと、まだ本気なのかな……。
胸の中に黒い靄が広がる。
私、何考えてるんだろう。メグはアオの退院を喜んでるだけなのに。
それに、メグがアオのこと本気だからって私には関係ない。
だが、靄は濃くなっていくばかり。
深い溜息と共に、靄を吐き出す。
「そうだ、麗ちゃん。母さんからの伝言」
晴が麗の耳元で囁く。
「明日、アオの退院祝いを鹿島組総出でやるから、準備手伝ってって」
「えっ! 総出?」
「楽しみだね」
「楽しみというか、なんというか……」
とんでもない人数になるんじゃ……?
組総出の大宴会を前に身がすくんだ。
翌日の鹿島家は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「そこ、もうちょい右だ!」
「若、退院おめでとう……っと。これでいいっすか?」 「曲がってるぞ! やり直し!」
リビングでは、普段なら近寄りがたい強面の組員たちが、真剣な顔で色とりどりの輪飾りを壁に貼り付けている。
その隣では麗が部屋に閉じ込められている時に監視役をしていた組員が、ラメ入りのファンシーな風船を膨らませている。顔を真っ赤にしておもいっきり息を吹き込む。
「フーッ!」
パンッ!
破裂音の後、ラメが辺り一面に舞い散る。まるで粉雪のようだ。
「てめえ、何しやがる!」
「す、すいやせん!」
可愛らしい光景とは裏腹のいかつい怒号。そのギャップに思わず笑いが込み上げる。
「ふふっ」
「誰だ、笑ったのは!」
照れ隠しの怒声に麗は肩をびくつかせる。
「そりゃ笑うでしょ」
背後から晴が顔を出し、にっこり微笑む。だがその笑顔に温度は一切感じない。組員たちは顔を強張らせ、冷や汗を流す。
「そ、そうですよね。おい、謝れ」
「す、すいやせんでした……」
晴は組員たちを見向きもせず、大量の酒瓶を並べる。麗も手伝っていると、紗季が大きなお盆に山盛りの料理を乗せて運んできた。
4台ものテーブルの上は、大皿と酒瓶でいっぱいになる。
「すごい量。こんなに食べきれるんですか?」
「大丈夫よ。お客さんも大勢来るから」
「大勢って……」
ピンポーン。
インターホンが鳴り、麗は玄関に急ぐ。
「はーい」
玄関扉を開けると、そこには見慣れた三人が立っていた。
「お邪魔するよ」
「よう」
次郎が軽く頭を下げ、その隣で目白が手にした紙袋を掲げる。
「俺らからの退院祝いだ」
「ありがとうございます」
紙袋を受け取った拍子に中身が見え、麗は目を見開いた。
「こ、これ、お酒じゃないですか!」
「ああ? あいつに飲ませるわけねえだろ。祝いにかこつけて俺らが飲むんだよ」
「それ退院祝いじゃないですよ……」
目白は麗の言葉を無視して、次郎と廊下の奥へ消えた。
「ワンワンッ!」
「もうみんな集まってる?」
サクラを連れたフクロウが現れる。
「フクロウさん! 来てくれたんですね」
「姐さんに呼ばれたら断れないよ。誘われなくても来てたけど。葵は?」
「今、組長さんが迎えに行ってます」
「そっか」
フクロウはサクラの前にしゃがんで頭をわしゃわしゃと撫で回す。へにゃっととろけたその顔は、まったく裏社会の人間には見えない。
「サクラちゃん、ちょっと待っててくだちゃいねえ」
フクロウがサクラと別れを惜しんでいると、廊下の奥から紗季が歩いてきた。
「あら、フク。よく来てくれたわね。葵がもうすぐ着くと思うから、みんな呼んできてくれない?」
「はいっ!」
フクロウは頭を下げて早足で広間へ向かった。
「麗ちゃん、門のところまで葵を迎えにいってちょうだい」
「え、私が?」
「お願い」
紗季はにこにこと笑っている。
断れる雰囲気ではない。
「……わかりました」
麗はエプロンを外し、玄関を出た。
門の外に一歩出て、通りを見回す。黒のセダンが走ってきて、門の前に停まった。後部座席から葵が降りてくる。
葵の瞳が日差しを受けて煌めく。
一瞬、麗の心臓が小さく跳ねる。
「お出迎えか?」
葵の口角が上がる。
太陽の下で見る久しぶりの葵。
やっと、戻ってきてくれた。
胸の奥がじわりと熱くなる。
恒一が運転する車が駐車場に向かって走り去る。麗がそちらに気を取られている間に、葵は麗に顔を近づけ、じっと見つめる。
「な、何っ?」
麗がたじろぐと、葵は眉を寄せ麗の目の下を指差す。
「おまえ、クマすげえな」
「誰のせいだと思ってんの」
思わず睨む。葵は一瞬黙った。
「……悪かったよ」
「え?」
「なんでもねえ」
葵はぷいっと顔を逸らし、先に歩いていく。
「ちょっと待ってよ」
麗はその背中を追いかける。
こうして葵の後ろを歩くのは、どれくらいぶりだろう。
ただ家へ帰っているだけ。
それなのに、その当たり前がどうしようもなく嬉しかった。
葵が玄関扉を開けた途端。
パンッ!
パンパンパンッ!
無数のクラッカーが鳴り響く。硬直する葵と麗の頭に、色とりどりの紙吹雪が降り注ぐ。
玄関にひしめき合う組員たち、晴、紗季、次郎、目白、フクロウを呆然と見つめる。
「若、退院おめでとうございます!」
「アオ、おめでとう」
晴が拍手を始めると連鎖していき、大きな拍手が沸く。
「うるせえ! なんなんだよ!」
葵は照れ隠しに怒鳴る。
その後ろから恒一が現れ、葵の頭を軽く叩いた。
「退院祝いに決まってんだろ。おめえら、宴だ!」
「おーっ!」
恒一が豪快に笑いながら全員を広間へ引き連れていった。
「何が退院祝いだ。呑みたいだけだろ」
「そんなことないよ。みんな、アオが戻ってきて嬉しいんだよ」
「……おまえもか?」
ぽつりと葵が呟くように問いかける。
麗の表情が自然に緩む。
「もちろん。……おかえり、アオ」
「…………」
葵が目を見開いて固まる。
麗は心配そうな顔で葵の胸元に目を向ける。
「どうしたの? 痛むの?」
「ちげえよ」
耳まで赤くなった顔を逸らし、サクラをひと撫でしてから靴を脱ぐ。威嚇してくるサクラを警戒しながら葵の後を追う。
「なんで赤くなってるの?」
「なってねえ!」
「なってるけど」
「しつこい!」
眉を寄せた葵が広間の襖を開く。
「やっときた。みんな、主役がきたよ!」
晴が声を張り上げると、広間が拍手に包まれる。
「アオ、麗ちゃん、こっち」
晴が葵と麗の手を引いて上座に座らせる。麗の横に晴が座り、2人のグラスにジュースを注ぐ。
「おめえら、グラス持て」
恒一がグラスを片手に、野太い声を張り上げる。
「バカ息子の退院に、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
陽気な声と共にグラス同士がぶつかる音が響き渡る。
「バカ息子だって」
くすくす笑いながらグラスをぶつける晴を、葵はにらみつける。
「おまえもだろ」
「アオだけでしょ」
いつもの2人の言い争いが始まる。
麗はそれを見ながらくすっと笑いが込み上げる。
「麗ちゃんもそう思うよね?」
「んなわけねえだろ」
葵と晴が距離を詰め、両肩が触れる。
麗はふっと小馬鹿にした顔で笑う。
「どっちもじゃない?」
「おまえっ!」
「麗ちゃん、言うねえ」
「でも……」
麗は、葵と晴を交互に見て柔らかい笑みを浮かべる。
「本当は2人のこと、大切に思ってると思うよ」
葵と晴は目を見張り、麗の笑顔をじっと見据える。
「なに、その顔?」
同じ顔で見つめてくる2人の視線に絡め取られそうになる。さっと目を逸らし、グラスを傾ける。
「……おまえこそ」
葵は顔を背ける。
「麗ちゃんの笑顔が可愛くて見惚れちゃった」
小首を傾げて微笑む晴に、麗は顔をしかめる。
「またそんなこと言って」
「本気なんだけどなあ」
晴が肩をすくめる。
「どこが可愛いんだよ」
葵が鼻で笑い、小さく口元を緩める。
「その言い方、むかつく」
麗はグラスを握りしめ、ぐいっと煽る。炭酸が一気に流れ込み、喉がつんと痛む。
いつもと同じ、アオとハルとの日常。
――なのに。
前とは少し違う。
葵の肩が触れるたびに意識してしまう。
晴が顔を近づければ、妙に落ち着かない。
2人の間にいることが、以前よりずっと居心地が悪い。
それなのに。
離れたいとは思わなかった。
それからは、文字通りのどんちゃん騒ぎだった。
料理が次々と空になり、酒瓶が一本、また一本と増えていく。
夜遅くまで宴は続き、気づけばリビングは死屍累々。
テーブルに突っ伏す者。
畳の上に転がる者。
座布団を枕に大いびきをかく者。
恒一と紗季は折り重なるように寝息を立てている。
葵は大の字で気持ち良さそうに眠っている。
「なにこの惨状……」
目白と次郎、フクロウを見送った麗は、呆れ顔で広間を見回す。
空いた酒瓶を抱えてキッチンへ向かおうとすると、背後から晴の声がした。
「麗ちゃん」
「起きてたんだ」
「もう寝るよ。片付けはいいから、麗ちゃんも寝なよ」
「でも……」
空いた皿や割り箸、グラスが散乱しているテーブルを横目で見る。
「好き勝手飲んで散らかしたんだから、起きたら自分たちでやらせればいいよ。麗ちゃんも疲れてるでしょ」
「私は別に」
「寝不足でしょ」
晴の指先が、麗の目元に触れる。
「アオも帰ってきたんだから。今日はちゃんと寝て」
いつもの笑顔。
でも、以前のようなからかう色はない。
「……うん」
「おやすみ、麗ちゃん」
「おやすみ」
麗はもう一度、リビングを振り返った。
眠っている葵。
その近くにいる晴。
寄り添う恒一と紗季。
床に転がる組員たち。
騒がしくて。
めちゃくちゃで。
普通とはほど遠い。
なのに。
胸の奥が、温かかった。
自室の扉を閉める。
静寂が耳を包んだ。
さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
麗はしばらく扉に背を預けたまま、動かなかった。
やがて小さく息を吐き、クローゼットを開ける。
奥からキャリーケースを取り出した。
床に置く。
ファスナーを開く音だけが、静かな部屋に響く。
服を一枚取り出して、畳む。
キャリーケースへ入れる。
もう一枚。
その次も。
手を動かしていれば、何も考えずに済むと思った。
けれど、机の上に目を向けた瞬間、手が止まる。
この部屋で6年を過ごした。
初めてここへ来た日は、一日でも早く出ていきたいと思っていた。
鹿島家は仮の居場所。
復讐を果たすまでの居候先。
ずっと、そう思っていた。
なのに。
どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。
「ここにいる理由はもう、ない」
誰に言うでもなく呟く。
私には、私の人生がある。
アオにも。
ハルにも。
いつまでも甘えているわけにはいかない。
家族でもない私が、鹿島家の中に居続ける理由はない。
……出ていかなきゃ。
そう自分に言い聞かせながら、麗は再び服を畳む。
1枚、また1枚。
荷物がキャリーケースに収まっていくたびに、6年間の思い出までひとつずつ片付けているようだった。
それでも麗は、手を止めなかった。




