氷帝陛下、護衛を増やす
翌朝。
ヴァルディア帝国の皇宮は、いつもより少しだけ騒がしかった。
「……専属護衛隊長を?」
帝国宰相が聞き返す。
「ああ」
執務机に向かうレオンハルトは、何でもないことのように答えた。
「王女殿下専属の護衛を一隊、編成する」
「……すでにルヴェリア王国の護衛隊が同行しておりますが」
「知っている」
「では、なぜ?」
レオンハルトは書類から顔を上げた。
「帝国にいる間の安全を確保するためだ」
「それは分かりますが……」
「不足か?」
「いえ」
帝国宰相は即答した。
「むしろ過剰かと」
「そうか」
「……」
皇帝は気にした様子もない。
宰相は心の中で呟いた。
――陛下。
王女殿下は帝国中の騎士を合わせても守りきれないほど危険な場所にいるわけではありません。
ここは皇宮です。むしろ一番安全です。
しかし、それを口に出す勇気はなかった。
⸻
数時間後。
皇宮の訓練場。
一人の男が、整列した騎士たちの前に立っていた。
黒髪、鋭い灰色の瞳、鍛え抜かれた体躯。
帝国騎士団の中でも屈指の実力を持つ男――
カイル・グランディス。
今回、王女専属護衛隊長に任命された男である。
「陛下より命を受けた」
カイルは淡々と言った。
「本日より、第一王女アリア・ルヴェリア殿下の帝国滞在中の護衛を担当する」
騎士たちは一斉に敬礼する。
「承知しました!」
「殿下の安全を最優先とする」
「はっ!」
カイルは頷いた。
その表情に一切の隙はない。
しかし、彼は知らなかった。
これから自分が守ることになる王女が――
自分の想像を遥かに超えて人を惹きつける人物だということを。
⸻
その頃、アリアは庭園にいた。
「わあ……!」
色とりどりの花を見て、嬉しそうに笑っている。
「この花、昨日は咲いていなかったですよね?」
「今朝、開花したそうです」
「まあ!」
アリアは花の前にしゃがみ込む。
「綺麗ですね」
「……」
少し離れたところから、その様子を見ていたカイルは思った。
――なるほど。
確かに、よく笑う。
事前に聞いていた情報では、
『ルヴェリア王国第一王女。王位継承権第二位。外交能力にも優れ、国民からの支持も高い』
それだけだった。
だが、実際に会ってみれば、印象が違う。
「……隊長?」
部下に声をかけられる。
「何だ」
「ずっと殿下をご覧になっていますが」
「護衛だ」
「はい」
「当然だ」
「……はい」
部下は苦笑した。
⸻
その時。
「殿下!」
庭園の向こうから侍女が走ってきた。
「はい?」
「皇帝陛下がお見えです」
「皇帝陛下が?」
アリアが立ち上がる。
すると、黒い軍服をまとったレオンハルトが歩いてきた。
「アリア」
「陛下!」
アリアが笑顔になる。それを見た瞬間、レオンハルトの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「今日はどうしてこちらへ?」
「……視察だ」
「そうなのですね」
「ああ」
嘘だった。
特に視察するものなどない。
ただ、アリアが庭園にいると聞いたから来ただけだ。
しかし、そんなことを知る者はいない。
……一人を除いて。
皇帝付き侍従は遠くから見ながら、静かに目を閉じた。
――また始まった。
⸻
「ところで、アリア」
「はい?」
「昨日、城下で少し歩きすぎただろう」
「そうでしたか?」
「今日は無理をするな」
「大丈夫ですよ?」
「駄目だ」
「……」
アリアがきょとんとする。
「でも、私は元気ですよ?」
「それでもだ」
「……?」
レオンハルトは少し考え、
「今日は私と庭園を歩けばいい」
「陛下と?」
「ああ」
「楽しそうです!」
アリアが嬉しそうに笑う。
「では、行きましょう!」
「……ああ」
二人が並んで歩き始めるその後ろ。カイルは護衛としてついていく。
少し離れた場所からそれを見ていた帝国宰相は、呟いた。
「……陛下」
「はい」
皇帝付き侍従が答える。
「昨日より明らかに甘くなっていませんか?」
「私もそう思います」
⸻
庭園を歩きながら、アリアがふと足を止めた。
「陛下」
「何だ」
「あの方は?」
視線の先には、カイル。
「今日からお前の専属護衛だ」
「まあ!」
アリアがカイルへ近づく。
「初めまして。アリア・ルヴェリアです」
「……カイル・グランディスと申します」
「今日からよろしくお願いします」
「はっ」
カイルは深く頭を下げる。
そして顔を上げた。
「殿下」
「はい?」
「この身に代えても、殿下をお守りいたします」
アリアは少し驚いたあと。
「ありがとうございます」
ふわりと笑った。
「でも、カイル様も怪我をしないでくださいね」
「……」
カイルが固まった。
「私のために怪我をされるのは嫌ですから」
「……」
カイルは一瞬、言葉を失った。
――なるほど。
この方は、こういう方なのか。
「……承知しました」
カイルは静かに頭を下げた。
「必ず」
⸻
その日の夜。
新設された専属護衛隊の詰所。
「隊長」
部下が声をかける。
「何だ」
「殿下について、どう思われました?」
「……」
カイルはしばらく黙った。
「護衛対象として非常に優秀だ」
「優秀?」
「周囲への警戒心があり、状況判断も早い」
「……」
「それに」
「それに?」
「……人をよく見ている」
部下が笑う。
「隊長、もう殿下のファンじゃないですか?」
「違う」
「即答ですね」
「私は護衛だ」
「はいはい」
カイルは無言で部下を睨んだ。
だが、机の上に置かれた会員名簿。
そこには――
『会員番号6番
カイル・グランディス』
と、新しい名前が加わっていた。
⸻
その頃、ルヴェリア王国。
「……報告書はこれか」
王太子アルベルトは帝国から届いた書類を読んでいた。
「はい、殿下」
側近が答える。
「アリアは?」
「本日は庭園で過ごされたそうです」
「怪我は?」
「ございません」
「食事は?」
「問題ありません」
「睡眠は?」
「……問題ないかと」
「そうか」
アルベルトは満足そうに頷いた。
それから、もう一度報告書に目を落とす。
「では、引き続き妹の様子を詳しく報告してくれ」
「承知しました」
側近は苦笑する。
王太子殿下は、昔からそうだった。
国政に関する報告なら簡潔な確認だけで済ませるのに、妹のことになると途端に細かくなる。
「……本当に、殿下はアリア様がお好きですね」
「当然だろう」
アルベルトは何の迷いもなく答えた。
「私の大切な妹だからな」
そう言って、再び書類へ目を戻す。
側近は小さく笑った。
――今日も王太子殿下は、妹のことばかり気にしている。
⸻
一方、帝国ではレオンハルトが自室で一人、書類に目を通していた。
その机の引き出し。そこには、昨日の名簿がある。
会員番号一番。
その文字を一度だけ確認すると。
「……」
レオンハルトは引き出しを閉じた。そして小さく呟く。
「……明日は何をしているだろうな」
その声は誰にも聞かれないほど小さかった。
だが、氷帝と呼ばれる皇帝が一人の王女の予定を気にして眠りについたことを知る者がいたなら。
きっと、こう言っただろう。
――あの皇帝が?




