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9.妻 ※

 彼の口からこぼれ出た、心から自分を求める声に理乃の肩から力が抜けた。そのまま体をベッドに倒され、唇に唇を重ねられる。苦しい息に眉をしかめると、康太は一度顔を離して再び理乃を抱きしめた。首筋に熱い頬をうずめてかすれた声で低くささやく。


「好きだ。頼むからそばにいてくれ。やっとお前を見つけたんだ、本当に運命だと思ってた。でも、もうそれもどうでもいい。そばにいてくれるだけでいいから」


 まるで自分にしがみつくような必死とも取れる懇願に、理乃は両目を見開いた。想像以上に自分が彼から思われていたことを感じ取る。そっと両手を背中に回すと彼の体がびくりと震えた。

 理乃は穏やかにその背を撫でて、優しく彼へ語りかけた。


「だから、運命だったんですよ。その言葉だけでもう十分です。私もあなたのそばにいたいし、末永く幸せになりましょう」

「帰らないでいてくれるか?」


 子供のような声色にぽんぽんと背中を叩く。


「帰りませんって……誰がそんなこと言ったんですか。まだ後期が始まったばっかりで、TOEICの結果も出てないのに」

「……!」


 抱きしめられた腕の力が今まで以上に強くなった。

 理乃はあきらめて力を抜いた。自分を求める彼の情動と、おぼれそうなくらいに深いその愛情を受け止める。

 その後、宣言通りに朝まで愛情表現につき合って、理乃は悪の手に落ちてしまった姫君の気分を味わった。あふれんばかりの寵愛が注がれすぎて耳からこぼれる。


「──やっぱり好きだ。本当に……! 会えない時、ずっと思ってた。このままずっと一緒にいたい、二度とお前と離れたくない」


──もうこっちはお腹いっぱいです。


 次第に遠ざかる意識の中で、ふと蛮族の生け贄にされた姫君の昔話を思い出す。あれは悲劇の物語で、今の自分は好きな人への輿入れを控えた幸せな身だ。だが理乃はかの姫の恐れやおののきがなんだかわかる気がした。

 それが自分の役目とはいえ、輿入れした後どんな目に遭わされるのか考えたくない。救ってくれるはずの王子は十八禁ものの主人公だった。


──どうか、慈悲深き女神シランの御加護が我にあらんことを。


 理乃は心底神に祈った。彼から「運命」と語られた時にはのんきにゲロ甘だと思ったが、どうやら導かれた先行きは結構過酷なようだった。


   *


 待ち望んでいた甘い一夜を心行くまで満喫した後、康太は午後から大学へ向かった。どうにかレポートを通してくれた教授のゼミがあったのと、和斗と今後の予定について打ち合わせをする約束があったからだ。

 一晩愛をはぐくみ続け、彼女を足腰立たないようなありさまにした元凶は、むしろ軽快な足取りでいつものラウンジに足を運んだ。


「すっきりした顔してますね。理乃ちゃん大丈夫なんですか」


 全てお見通しらしい臣下に幾分あきれた顔をされ、ぽりぽりと首筋をかく。


「あー、まあ、多分? ……悪いけど、後で見に行くように菜月に伝えてくれないか。もう帰って来てるんだろ?」

「昨日帰って来ましたよ。理乃ちゃんの心配してました。講義が終わったら見に行くそうです、色々お見舞いの品持って」

「お見舞いって……病気ってわけじゃ」


 そう言いつつも、部屋まで背負った彼女の状態を思い出す。うつろに見えた黒い瞳に、「もしかしてアレってレイプ目ってヤツ」などとちょっとだけ思って打ち消した。

 ため息をつく臣下に連れられ、昨日彼女と食事を取ったファミレスへ再度足を運ぶ。接見の予定は心得ていたが、一番奥の席に座った彼女の兄(仮)にどきっとした。別に昨夜の行いが後ろめたい訳ではないのだが、さすがに相手が相手なだけに少々顔を合わせづらい。

 TPOに合わせた座礼で目上の人物に挨拶し、理乃の臣下はやんわり言った。


「わが姫君へのご執心は大変ありがたいのですが、何分勉学中の身の上です。どうぞ殿下もお立場をわきまえ、ほどほどにお願いします」


 康太は視線を天井に上げた。自分と理乃の行動は、やはりすべてがダダ漏れらしい。


──そりゃ全部バレてるよな。


 心の中で思いつつ、一つ咳払いをしてから答える。


「わかった、心がける。……それで、今日はまた何なんだ? 暮れの挨拶ならまだ早いぞ」


 康太の軽口に耳を貸さずに、クロトンは淡々と切り出した。


「本日はお別れのご挨拶に参りました。本来ならば、お世話になります姫と共にお目通りを願う所ですが、殿下もすでにご承知のように少々臥せっておりまして」

「帰る!?」


 まだ言上の途中であるのに喜びの声を上げてしまい、使者と臣下の双方から冷ややかなまなざしを向けられる。再び咳払いをして、康太は言葉をうながした。


「悪い、続けてくれ」

「恐れ入ります。ですので、殿下には拝顔の栄を賜りまして、私はこれにて失礼させていただきます」


 ダークスーツの姿ではさすがに膝こそつかないものの、相も変わらず慇懃に述べられ、康太は軽く肩をすくめた。

 自分はラフなパーカーとジーンズといういでたちで、ファミレス内で耳にするには痛いくらいの謙譲語の嵐だ。周囲の席に人はいないが、この状況はシュールすぎる。とりあえず使者をうなずきであしらい、康太は顔を横へやった。居心地の悪さを屁とも思わない隣の臣下に文句をつける。


「お前な、もうちょっと人がいないような場所を考えてセッティングしろよ。こいつはこのまま消えるからいいけど、俺達はこれからもここ使うんだぞ。知り合いに見られたら困るだろうが」

「えー、まあ確かにそうですけど。姫もこの場所でこの人と結構雑に話してましたし、別に大丈夫ですよ」


 あっけらかんと言葉を返され、その肝の太さにこめかみを押さえた。どうして自分の周りにはこんなんばっかりが集まるのか。ついつい王太子としての自身の素質を疑ってしまう。


──もしかして俺って威厳とか、人望とかが全然ないのか?


 二人の会話を聞いていた隣国の使者は苦笑して、伸びた背筋を少しだけゆるめた。


「まあ、我々が思うほどには周囲は気にしないものですし。私も久々にこちらの世界を楽しませていただきました。姫のことは気になりますが、そろそろ妻が心配ですので」


 ぽろりとこぼした彼の言葉に、康太は一瞬耳を疑った。


──あれ? 今、こいつなんて言った?


「──つま?」


 思わず尋ね返した康太に、クロトンがにっこりと微笑んで見せた。


「ええ。私の妻は息災ですが、出産を控えておりまして。……本当は姫がこちらに来る際、私達二人も『兄夫婦』という名目でお供をする予定でした。ですが、直前に妻の妊娠がわかりまして、それで」


 硬直している康太をそのままに、今まで見てきた中で一番の晴れやかな笑顔を見せる。


「こちらで出産しても構わないと妻は言ってくれたのですが、さすがに周りに止められました。私としては、ここにいる方が余計な仕事は入らないし、妻といられる時間も増えるので本当は連れて来たかったんですが……。『来なくていい』と姫にも言われて」


 続けた語尾が苦笑になる。

 康太は首をギシギシ言わせ、隣に座る臣下へとゆっくり自分の顔を向けた。康太と違って使者の言葉に驚かなかった様子を見ると、この重大な情報をどうやら心得ていたらしい。殺意さえおびた主君のまなざしに、さすがに彼の視線が泳ぐ。


「あれ? 殿下。もしかして、姫から聞いてなかったんですか?」

「……ああ。聞いてなかったな。すぐお前らが押しかけて来やがって、話をするどころじゃなくなったしな」

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