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◆13

 ラーズクリフ伯爵ゴドウィン・コールマンは、素早く思考を巡らせて状況を整理していた。

 今宵の夜会の主催者であるオグバーン氏の目の前で、今シーズンに数多の紳士の心を鷲掴みにしてきた美しいデビュタントとともに会場を去るような真似をして、どんな噂をされるかわかったものではない。けれどもあのとき、ゴドウィンの思考は普段の冷静さを瞬間的に失っていた。芳醇なワインの香りに微かに混ざった心地良い香りと、リネンのシャツとシルクのジャケット越しにでも伝わる柔らかな感触と、あまく囁く愛らしい声に、五感のほとんどが奪われた。あの雪のように白い豊満な胸の谷間に赤ワインが零れ落ちていく様を目にしたとき、その胸にむしゃぶりつきたいという下品極まりない欲望に駆られた。そんな大それた欲望を抱いたことなど、三十年にも及ぶこの人生で、一度たりともなかったというのに。

 ミス・ヴァイオレット・メイウッドは危険な女だと、彼の本能が警笛を鳴らしていた。彼女には男を狂わせる何かがある。理性の壁を崩落させる、あるいは欲望を呼び覚まし、破滅に導くような——あの美しいレディ・バークレイを愛人に持つアーデンを狂行に走らせるほどの何かが。

 このまま彼女とふたりきりになるのは避けなければならない。ゴドウィンはすぐさま後方を確認した。優秀な彼の従者は、一定の距離を置いてふたりの後を付いてきている。とりあえずの体裁は保たれていると言えるだろう。ちらりと隣に目を向ければ、彼女は必要以上に身を寄せるわけでもなく、あくまで紳士にエスコートされる淑女らしく、彼の腕に手を掛けて歩いていた。

 彼女は美しかった。シンプルにまとめた黒髪は高く結い上げられて、しなやかな身体はデビュタントらしからぬ大胆なワインレッドのドレスに包まれていた。V字型の襟ぐりは深く、これ見よがしに誇示された豊満な胸には、レースのハンカチで軽く拭ってはあるものの、赤ワインの流れた痕が胸のかたちに沿って残っていた。男を誘惑するような装いとは裏腹に菫色の瞳は凛と輝いて、まっすぐに前だけを見据えている。高すぎない鼻梁は美しい線を描き、かたちの良い唇は薔薇の花びらのように紅かった。もしも彼がラーズクリフ伯爵でなかったら、彼女を我が物にしたいと思っていたに違いない。

 だが、彼は紛れもなくラーズクリフ伯爵だった。そして、彼はラーズクリフ伯の他にも多くの爵位を持っていた。彼には責任があった。彼が譲り受けた爵位と、それに付随する領地と領民の生活を守るという責任が。

 彼女の名誉を傷付けることになったとして、アーデンのように責任を取るという選択肢が、彼にはなかった。彼にとって結婚はビジネスであり、彼の守るべきもののために最善の相手を見つけなければならないものだった。彼の伴侶となる女性は、社交界における地位と品格を兼ね備え、それに相応しい財産を持つ名家の令嬢でなくてはならないのだ。今、彼の隣にいる、ただ美しいだけの、背伸びをした中産階級の娘ではなく。

 今夜、これから向かう先で、彼女とのあいだに何事か起きてしまったら、取り返しのつかないことになる。まんまと彼女の誘いにのってしまった己の愚かさを責めながら、ゴドウィンは人気(ひとけ)のない廊下を進んでいった。


 用意された客室は、夜会会場から離れた廊下の片隅に並ぶ小部屋のうちの一室で、いわゆる休憩室として使われるものであることは一目瞭然だった。ゴドウィンはヴァイオレットを連れて部屋に入ると、扉は開けたままにして、彼の従者を見張りに立たせた。付き添いのいない未婚女性とふたりきりになるということは、彼のような立場の人間にとってはすこぶる危険なことだった。華やかに見える社交界の裏側では足の引っ張り合いもままあることで、地位が高ければ高いほど卑劣な輩に付け狙われる。些細な誤解を招くことが命取りになりかねないのだ。この部屋でのやり取りが如何わしいものではないことを示すために、彼はいつ何時この場に闖入者が現れても問題がないようにしておかなければならなかった。

 部屋の中央には透かし細工のローテーブルと、その手の秘め事に御誂え向きな大きめの二人掛けのソファが置いてあった。壁際に置かれたラウンドテーブルの上に、デキャンタとグラスが用意されている。ゴドウィンがソファを勧めるより先に、ヴァイオレットは躊躇いなくラウンドテーブルへと向かっていた。

 彼女はデキャンタに鼻を近付けて、「水だわ」とつぶやくと、美しく整ったその顔を微かに綻ばせた。

「少しだけあちらを向いていてくださる?」

 そう言って、デキャンタの水をグラスに注ぐ。

 随分堂々としたものだ。水に薬でも入れるつもりだろうかと考えながら、ゴドウィンは言われるままに彼女に背を向けた。ちらりと壁に目を向けると、壁掛け鏡に無防備な彼女の姿が映っていた。鏡の存在に気付いていない彼女は、グラスに注いだ水でハンカチを濡らすと、ドレスの前身頃を引っ張って胸の谷間を拭いはじめた。ハンカチの動きに合わせてこぼれ落ちそうな白い乳房がドレスの内側でかたちを変える——その艶めかしい光景から、ゴドウィンは目を逸らすことができなかった。思いがけず身体が熱をあげ、下腹部が固く強張った。

 ゴドウィンは無理矢理に目を閉じると、両手を強く握り締め、大きく深呼吸を繰り返した。咄嗟にオグバーン氏の薄くなった髪のことを考えたところで、ようやく身体が言う事を聞いて、ほっと息を吐いた。

「お待たせしてごめんなさい。もうこちらを向いてくださって構いませんわ」

 ヴァイオレットの愛らしい声が耳に届く。振り返ると、彼女はいつのまにかゴドウィンのすぐ傍に立っていた。

「ワインを拭いていたの。ドレスの内側まで濡れてしまって、気持ち悪くて……」

 彼は「そう」と唸るようにつぶやくと、ひとつ咳払いをして淡々と告げた。

「では話を聞こう。長くは居られないから、手短に頼むよ」

 彼女は悩ましげにうつむくと、声を潜め、躊躇いがちに語り出した。

「話というのは、妹の——シャノンのことなの。あの日の翌日、アーデンがうちのテラスにやってきて、シャノンを散歩に連れ出したの。私は気付いてあげられなくて……夕方になって帰ってきたシャノンは見慣れないドレスを着ていて、部屋に戻るなり私に言ったの。アーデンと結婚するって」

 ゴドウィンは無言でうなずいた。アーデンとミス・シャノン・メイウッドの婚約のことはタイムズを読んで知っていた。あの夜、彼が言ったとおり、アーデンは自分がしでかした不祥事の責任を取ることにしたのだ。

「それで、何が問題なんだい?」

 彼が何気なく続きを促すと、途端にヴァイオレットの眼の色が変わった。

「シャノンは私のためにアーデンと婚約したの。あの男との醜聞に私を巻き込まないために、不本意な結婚を余儀なくされたのよ」

「あんな事があった後だ。仕方がないだろう。ふたりは最善の選択をしたと私は思うよ」

 彼女が不満に思う気持ちが理解できず、ゴドウィンが眉根を寄せて碧い目を細めると、ヴァイオレットはずずいと彼に詰め寄った。

「シャノンは私のために子供の頃からずっと不当な扱いを受けてきたの。私が地位と財産のある貴族の妻になれば、父は満足して、あの子は自由になれるはずだった。そのために、私はこうして社交界にまで足を踏み入れたのに……それなのに、私を守るためにあの子が幸せな結婚すらできなくなるなんて、そんなこと許せるわけがないわ!」

「なるほど。つまりきみは——」

「シャノンとアーデンの婚約を解消させる方法を一緒に考えて欲しいの。あの日の醜聞を丸く収めて、私たちが自由になれる方法を。何の後ろ盾もない私には無理でも、あなたになら何かできることがあるでしょう?」

 訴えかけるような菫色の瞳にみつめられて、ゴドウィンは歪みかけた表情を必死に取り繕った。

 要約すればこうだ。彼女は社交界で有力な立場にいるラーズクリフ伯爵になら、醜聞を揉み消すちからがあるはずだと言いたいのだ。現実には、一度広まってしまった噂を意識的に収束させることは難しく、他の噂に皆の興味が向けられるまで、なるように任せるしかないのだが。

 アーデンとシャノンは公に婚約を発表した。今更それを取り消すとなれば、また要らない憶測を生むことになる。その際に生じるデメリットのほうがはるかに大きいことを、彼女はわかっていないのだ。たった今、彼女が取っている行動が、ふたりにとってかなり危ういものだということも。

「きみたち姉妹の互いを思い合う気持ちと自己犠牲の精神は素晴らしいと私も思う。けれど、きみは相談する相手を間違っている。以前にも言ったとおり、私はアーデンときみの妹の結婚は間違いではないと考えているのだから」

 ゴドウィンが低く告げると、ヴァイオレットは美しく整った眉を顰めた。

「どうしても協力していただけないの?」

「協力? 期待を裏切ってすまないが、私はその件に関して一切関わる気は無い。私には守るべきものがあるからね」

 きっぱりと言い切ると、ゴドウィンは腕を組み、ソファに腰をもたせ掛けた。彼女は口を噤み、苦々しい表情でうつむいた。何か良からぬことを考えているのではないか。そんな疑いが、ゴドウィンの脳裏をふと過ぎった。

「念のために言っておくが、きみがどんな策を企てようと私の意思は覆らない」

「……何の話をしているの?」

「きみは現実をよく理解している。自分が如何に類い稀な美しい身体を持っているか、しっかり自覚できている。そしてそれが、きみがこの世界で生きていくうえでの強力な武器になり得ることも」

 彼女は首を傾げて彼を見上げた。何気なく組まれた腕が豊かな乳房を抱き寄せて、その中心に深い谷間が刻まれている。ゴドウィンは鳴らしかけた喉を息で詰まらせて、平静を装って続けた。

「その身体ひとつで世の中の男を意のままに操れると思っているのだろう? 残念ながら、私はきみのように容姿ばかりが美しい、男の価値を爵位や財産でしか判断しない女性には嫌というほど言い寄られてきた。私を誘惑しようとしても無駄だと思ったほうがいい」

 淡々と彼が言い捨てると、彼女は一瞬目をまるくして、それからどっと笑いだした。

「貴方を誘惑するだなんて、考えてもみなかったわ。私が今夜あなたに近付いた目的は先の言葉の通りよ。妹の幸せのために、あなたに協力して欲しかっただけ」

「……本当に?」

「本当よ。確約も得られていないのに望んで娼婦のような真似をするなんて、あり得ないわ」

 よほどツボに入ったのか、彼女はうっすらと目尻に涙を浮かばせていた。あっけにとられているゴドウィンの糊の効いたリネンのシャツを、ほっそりと美しいヴァイオレットの指先がなぞった。

「でも、あなたのほうはそうでもなかったみたい。誘惑しても無駄だなんて口では言っておきながら、あわよくば私を食い物にできると期待していたんだわ」

 胸元をくすぐる繊細な刺激に、ゴドウィンの身体が唸るように熱をあげた。先に感じたものよりもはるかに強い衝動が全身を駆け巡る。理性のかけらを掻き集めて、彼は必死に自分を落ち着かせた。

「よくってよ、伯爵様。私と妹を助けてくれるなら、一度くらいあなたの好きにさせてあげても」

 誘うようにつぶやいて、彼女が身体を擦り寄せる。ゴドウィンは低く唸り、掠れた声を絞り出した。

「……きみは、随分と妹に拘るんだな」

「当然よ。シャノンは私のすべてなの」

 そう言って、彼女はリネンのシャツに、ゴドウィンの胸に繰り返し円を描いた。

「子供のころから、私はいつも特別扱いされてきたわ。でもね、同時に期待され続けていたの。綺麗なお人形でいることを」

 あまい痺れが全身に広がっていくのを感じながら、ゴドウィンはうっすらと瞼を伏せた。挑発的な上目遣いで彼を見上げ、彼の胸を探るように撫でながら、彼女は続けた。

「シャノンだけ……シャノンだけが私を必要としてくれたの。綺麗なお人形なんかじゃなくて、あの子と一緒に生まれてきた、ただの女の子でしかない私のことを」

 うっとりとそう囁いて、彼女はゴドウィンの胸に頬を預けた。

 限界だった。赤ワインよりも芳醇な彼女のあまい香りが、欲望を掻き立てる愛らしい声が、誘うような菫色の濡れた瞳が、理性の箍を外しにかかっていた。

 ――ミス・ヴァイオレット・メイウッドは、毒婦だ。

 何度も言い聞かせたその言葉が、彼の脳裏を最後に過ぎった。


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