◉14
嫌悪感が胸の奥から込み上げて、身体中の血液が凍り付くようだった。心のどこかで泣き叫ぶ声が聞こえないように、大丈夫、大丈夫と、必死の思いで自分に言い聞かせた。
あのときシャノンが感じた恐怖はこんなものではなかったはずだ。心の準備がなかったぶん、もっと恐ろしい思いをしたはずだ。ヴァイオレットが不調を訴えなければ、ラーズクリフへの伝言を頼まなければ、シャノンがあんな目に遭うことはなかった。
ヴァイオレットにとって、この行為は最後のチャンスだった。今、この数分間我慢すれば、ラーズクリフの協力を得られるかもしれないのだ。シャノンがアーデンと婚約しなければ、爵位と財産だけが取り柄の悪趣味な性的嗜好を持つ相手や、父親と変わらない歳の離れた相手とベッドを共にしていたかもしれない。それを考えたら、男盛りで魅力あふれるラーズクリフにここで抱かれるほうがずっとマシなはずだ。だから、怖いとか嫌だとか、そんな不要な感情は、心の奥に閉じ込めてしまわなければ。
ヴァイオレットは祈るように、涙に濡れた菫色の瞳を瞼でそっと覆い隠した。
二人掛けのソファはベルベットでできており、背中から倒れ込むと肌触りなめらかで心地良かった。ラーズクリフは片膝をソファにつくと、うなじから鎖骨のあいだのくぼみまで手のひらをすべらせて、ヴァイオレットに覆い被さった。胸元で揺れる彼の琥珀色の髪から、清涼感のある香りが漂ってくる。
理性を失っていても、彼の触れ方は優しかった。少なくともヴァイオレットを傷付けるつもりはないのだと、そう思える気がした。だから、大丈夫。身体の震えを誤魔化すように、ヴァイオレットは彼の首に腕を回した。
彼の吐息は湿っており、唇は燃えるように熱かった。ヴァイオレットのなめらかな白い肌を堪能すると、彼は溜め息を吐き、ほっそりとした首筋に顔を埋めた。耳元で何かを囁かれた気がしたけれど、ヴァイオレットには上手く聞き取れなかった。
彼の指が胸をかすめて、微かな呻き声が洩れる。もう一方の手がドレスとペチコートを掻き分けて、指先が太腿をなぞりあげて——ヴァイオレットは咄嗟に彼の腕を掴んでいた。
はっと目を見開いて顔をあげると、熱を帯びた碧い瞳がまっすぐに彼女をみつめていた。彼は困惑した様子で微かに眉を顰め、ヴァイオレットの冷たい頬に優しく触れて言った。
「まさか……怯えているのか?」
ヴァイオレットは何も言えなかった。一言でも口にすれば、堰き止めていた思いが——嫌悪感と恐怖が溢れ出して、泣き出してしまいそうだったからだ。ただドレスの端を握り締め、黙って顔を背けると、ラーズクリフはヴァイオレットの背中に腕を回し、抱き起こすようにしてソファに座らせた。ゆっくりと肩を撫でながら、彼が悔いるようにつぶやいた。
「すまない。もっと男慣れしているものかと……」
躊躇いがちな彼の言葉は、この行為の終わりを告げていた。後悔と安堵と屈辱が綯い交ぜになり、胸の奥を締め付ける。ヴァイオレットはうつむいたまま唇を震わせた。
「……男性には慣れているわ。ここまで親密な行為を許した相手がいなかっただけ」
「そう……だろうな」彼は一瞬言葉を詰まらせて、言った。「すまなかった。きみのことを完全に誤解していた」
「謝っていただく必要はないわ。今さらあなたの心象が良くなることはないし、あなたにどう思われようと私には関係ないもの」
ヴァイオレットが淡々とつぶやくと、彼は黙って隣に腰掛けた。
しばらくのあいだ、ふたりは押し黙っていた。不意に髪が一房落ちてきて視界を遮ったので、ヴァイオレットは乱れた髪をほどき、簡単に纏めなおした。衣擦れの音が静寂を破ったのを皮切りに、彼がおもむろに口を開く。
「先にも言ったとおり、私には守らなければならないものがある。きみに協力することはできない」
「わかっているわ。あなたにはもう頼まない。あなたがその気になっていたとき、私は身体を張ることができなかった。あの時点で、私にはもう打つ手がなくなってしまったの」
ヴァイオレットはソファに背中を預けた。彼は真剣な眼差しでヴァイオレットをみつめて言った。
「きみには向いていなかったんだ。あんなことは二度としてはいけない。いいね?」
「人の胸に顔を埋めておいてその台詞? 誰かに見られでもしていたら——」
「そのために彼がいる」
苦々しく口を歪めて笑みを作り、彼が言葉を遮った。目線の先を追ってみると、彼の従者が澄ました顔で部屋の前に立っているのが見えた。
「見張りに立っていた彼が何も言わないんだ。この部屋であったことを他の誰かに知られているということは、まずないと思って良い」
「彼が誰かに話したら?」
「心配ない、彼は口が堅く信用できる男だ」
ラーズクリフはきっぱりと言った。整った顔に清々しい笑みを向けられると、ヴァイオレットはそれ以上何も追求できなかった。肩を落として項垂れて、彼女は言った。
「……でも、これで本当に打つ手なしだわ」
ラーズクリフを頼れないとなっては、他に方法があるとは思えない。うつむくヴァイオレットを見て、彼は困ったように眉根を寄せた。
「ふたりを見守るだけではいけないのか? 見た限り、あのふたりはうまくやっていると思うが」
彼が言ったので、ヴァイオレットは「今はね」とうなずいた。「でも、真実を知ったらシャノンは傷付くわ」
「レディ・バークレイのことか……」
彼は溜め息をついた。
「ちょっと聞き込みをしただけで簡単に噂話が出てきたわ。あなたは彼を誠実だと言ったけど、私にはそうは思えない」
返す言葉がないようで、彼は低く唸った。ヴァイオレットは考えた。どうすればシャノンをアーデンから守れるのか。そもそも、こうなった原因は何だったのか。そうしてはっと顔をあげた。
「もとはと言えば、彼の狙いは私だったのよ。私があの男と結婚すれば……」
「馬鹿なことを考えるんじゃない。アーデンと彼女の婚約は既に世間に知れ渡っている。きみがそんなことをしたら、彼女はアーデンに手を付けられたうえに姉に婚約者を寝取られた、哀れな娘になってしまう」
「だったらどうしろって言うの? 父にも伯母にも頼れない。あなたは協力する気もない。他の誰にも相談できないのなら、私がやるしかないじゃない!」
悔しくて声が震えていた。熱いものが込み上げて、頬をつたって流れ落ちる。嗚咽を隠すようにうつむいたヴァイオレットの頬に、ラーズクリフが優しく触れた。
「泣くのはやめなさい。綺麗な顔が台無しだ」
指先に促されて見上げると、透き通るような碧眼にヴァイオレットの顔が映り込んでいた。彼はしばらく黙っていたものの、低く唸るように喉を鳴らすと、呆然と彼をみつめるヴァイオレットの唇を親指でつとなぞった。
「……伯爵様?」
ヴァイオレットは瞳を瞬かせた。濡れた睫毛が微かに震える。同時に熱い吐息が唇に触れて、激しく息を奪われた。
考えるよりも先に、ヴァイオレットは手をあげていた。頬を打つ軽い破裂音が薄暗い部屋に反響する。彼は目をまるくして——頬をぶたれたことよりも、自分のしたことに驚いているようだった。
「このっ……けだもの!!」
咄嗟にそう言い捨てると、ヴァイオレットは無心で部屋を飛び出した。自分で誘っておきながら、けだものも何もないとは思ったけれど、とにかく今は、彼の行動が理解できなかった。
アーデンにしろラーズクリフにしろ、信用できるわけがない。彼らは本能の赴くままに女性を襲う、欲にまみれた獣と同じだ。
幸いなことに、彼は後を追ってこなかった。




