18.勇者になりたかった男
少女が目を見開き、胸を貫いた黒い刃を見た。物理的に刺さっているのかどうかは傍からはわからなかったが、抜かれた刃の反動によって倒れた少女の目は虚ろで、おれが反射的に揺さぶっても反応はなかった。
「やはり人間ではなくメタルクロー……しかもこれは……」
「ガイデルシュタイン!」
少女を貫いた右手を眺めながら呟いているガイデルシュタインにおれはナイフを抜いて接近した。もちろん刃の効果は期待していなかったが、いまのガイデルシュタインはおれをなぜか恐れている。ならばそれを利用しない手はなかった。
激昂している素振りで近づき、いま少女の身になにが起こったのかを聞き出さなければならない。
もうこれ以上命が奪われるのはごめんだ。
そうしておれは次の瞬間、激痛を覚えた。ふたたび形状を変えたかの魔物の右腕が、腹部を貫いていた。まるで本当の刃が刺さっているかのような、熱く鋭い痛みが全身を駆け巡り、おれは声を上げて倒れた。
「な、なんで……!」
おれは腹を抑えて地面をのたうち回った。スライム化してみても痛みは消えず、傷もすぐに修復しない。
「俺の勝算を教えようか。いましがた、お前の吸血鬼の異能の一部を返してもらった。吸血鬼同士なればこそだな」
酷い火傷でもしたかのような痛みのなか、ガイデルシュタインの声が響く。それでも液状に近い状態まで腹部を軟化させ、どうにか傷を誤魔化すことに成功した。
しかし異能持ちのおれでこれでは彼女は――。
どうにか傷を塞ぎ、膝をついて起き上がったおれは、形勢が魔物側に傾いたものとばかり考えていた。しかしなぜかまたしてもおれに慄いているのはガイデルシュタインの側のようだった。
「やはり策もなく相手にできるものではないか。覚えていろ、バネッダ・ハウク。お前はいずれ俺が倒す。その力を野放しにしておくわけにはいかぬ」
「待てっ……!」
ここまできて逃がすのか。おれは体にムチを打つように強引に立ち上がろうとするが、痛みのせいで肉体の自由が上手く効かない。
見ているだけしかできなかった。しかし闇に溶けるように集落の外へと消えていく巨影は、なぜか途中でその動きを止めた。
巨影の前に、誰かが立っている。
「お前、何者だ……?」
痛みをこらえて横にずれたおれは、巨影を止めた彼女を見た。
「見えるんですね、吸血鬼さん」
「なんだ。お前、どこからきた……?」
白い外套に白いフード。黒髪の下に覗く大きな瞳。地に足をつけたライア――正確にはほんの少し浮いているように見える――が、巨影を睨みつけていた。
「その肉体……ファントムか」
「らしいですね」
「混乱に乗じて獲物を捜しにでもきたか。たしかにいまの俺は精神体に近い存在ではあるが、しかしあまりにも相手が悪すぎる。別を当たることだな」
巨大な影の端が、腕のようなかたちを作り出す。先端が指のように開き、彼女の体を握りつぶすように力強く閉じられた。
「ライア!」
おれは叫んだ。叫んで、その光景に目を見開いた。巨影が一瞬にして拡散し、弾け飛んだのだ。
「なに?」
その呆けた声は、おれとガイデルシュタインのものが重なったものだった。
なにが起こったのかを理解できないまま、ライアが、一つ大きく深呼吸した。
「ぼくは……あなたをた、食べます!」
決意の表情でいったライアへの返事は、おれや少女を貫いた影の刃だった。ライアの頭を貫いたかのように見えた刃は、当たり前のように彼女の半透明の体をすり抜けている。彼女はその圧で仰け反りもせず、刃の衝撃で身じろぎもしていない。
「ふむ。実物を見るのは初めてだが、やはりこちらではないのか」
巨影がいい、刃が消え、代わりに出現したのは、槍のような鋭さを持つ新しい影。それを見ておれは理解した。ガイデルシュタイン本人はいま、精神体としてこの場にいる。それとは別に、少女を貫いたのは吸血鬼の力を奪って具現化した肉体部分だ。
一つ目の方法が通用しないならば、精神体としてのガイデルシュタインが直接ライアを攻撃する。
「逃げろ、ライア!」
「逃げません!」
おれの声にライアが応えた直後、巨影の槍が一瞬にして伸び、彼女の胸を容赦なく貫いた。
否。叫んだおれは、またすぐに気づく。
ライアは無事だ。
「どういうことだ」
呟くように放たれたガイデルシュタインの言葉が、咆哮に近い悲鳴へと変わった。
見ただけではなにが起こったのかがまったくわからなかった。おれから見た光景は、ライアが目を瞑り、大口を開けて巨影へと突進し、背後へ抜けたということだけだ。しかし傍から見れば間抜けな光景に似つかわしくない迫真の絶叫が、ガイデルシュタインの声で響いていた。
おれはあっと声を上げた。ライアの通り抜けた部位が、綺麗に消滅してしまっているではないか。
「バカな! 低級の、たかがファントムごときに! 精神を喰われることなどあるものか! 俺は、ガイデルシュタインだ!」
消えた分、巨影が収縮し、もとのガイデルシュタインのかたちへと近づいていく。
振り向いたライアが、ふたたびガイデルシュタインの巨影へと突進する。
「お前は……!」
ガイデルシュタインの影が薙ぎ払うように動かした右腕が、しかし当然のようにライアをすり抜けた。それを見るや否やすぐに逃げようと後退した彼に、歯を食いしばっていたライアが叫んだ。
「欠片ほどの……勇気!」
ガイデルシュタインがなにを見たのかはわからなかった。しかし、ライアから逃げようと動いたはずの巨影はそこに静止した。眼前の光景に怯えたのか、驚いたのか。圧倒的な力と、それを自在に行使する実力と、古代の呪いすら越えて生きる生命力。冷静を欠いてもなおおれたちを圧倒したその八傑が、一体なにを見れば危機のなかにあってその動きを止めるのか。
最期の瞬間。ガイデルシュタインが、こちらを見ているような気がした。
周囲の眷属やグールの気配が、一斉に消失した。
※
その半分ほどの家屋が火に包まれつつある集落。
生き残ってこの集落に残ったのは、おれと少女を除いて七人だった。シスターにマチェ、ラブロス、テリアン。あとは護衛が一人に、村人が二人。
状況の変化に気づき、半ば人間の勝利を信じておれたちのもとへと戻ってきたらしい者たちの朗らかな顔をまた曇らせてしまったのは、おれの責任だった。
目を閉じたまま倒れている少女の横に膝立ちでうつむいていたおれは、寄ってきたマチェに顔を向けた。
「ど、どうしたんだ……?」
「ガイデルシュタイン……さっきの、リーダー格の魔物に、貫かれた」
「失礼します。バネッダさん、ナイフをよろしいでしょうか」
少女を挟んで、おれの対面にシスターが屈み込んだ。おれが渡したナイフでシスターは少女の修道服を裂き、おれが説明した傷の部位を確かめるために胸をはだけさせた。しかしそこには貫かれた痕も流血もなかった。
「紙一重で避けていた、という可能性はありませんか?」
「貫かれていたのは確実です」
シスターの問いに、おれは首を振ってそういった。
「でも、どうして……」
おれを貫いたのは吸血鬼同士だからこそできたことらしい。ライアにガイデルシュタインの攻撃が通じなかったのは謎だが、外傷が残っていないのは、精神体として攻撃したからではないか。
やはり人間ではなくメタルクロー。ガイデルシュタインがそういっていたことを思い出す。なにかを確かめようとして、致命的な一撃を与えなかったということだろうか。
しかし仮にそうだとして、手がかりになるようなことはない。精神への物理的な攻撃など通常見ることなどないし、だから対処の仕様もまったくわからない。
とりあえず少女の顎を上げて気道を確保する。脈拍が弱まっていることを確認し、おれとシスターは顔を見合わせた。
「……いまできることをしましょう、ご主人さま」
「なに?」
そういって歩き出すテリアンと困惑するラブロス。マチェはテリアンの意図を理解したらしく、すぐに村人たちに指示を出した。
「消火ですよ、消火」
「うるさい! いちいち指摘するな! 破壊消火だろう? いま気づいて動こうと思っていたところだ!」
テリアンの言葉通り、周囲を囲む火を消す必要があった。集落外周の樹木や草本は取り払われて整地されているから、よっぽどのことがなければ森などに広がりはしないだろうが、やっておくに越したことはないかもしれない。
「いえ、水は大量にあるではありませんか。手伝っていただけますか?」
そういってマチェを連れて行くテリアンを、ラブロスが呼び止める。
「川か? 井戸水か? しかしすぐに用意できるわけは……」
「馬車ですよ?」
「ちょっと待て! 馬車に積んでいるのは飲料用で、しかも二十リットルしかないんだぞ! 無駄にするんじゃない!」
皆がいなくなって、この場には倒れた少女と、おれと、シスターと、それからライアが残った。
静寂のなかで、おれはなにもできずに少女を見つめていた。
「外傷がない分、判断が難しいですね……内側の場合はきちんとした医療機関に連れて行かないと……」
シスターがいっているのは、おそらく臓器などを含めた体内器官へのダメージの話だ。しかしこれは違うと、おれはなんとなく理解している。ガイデルシュタインの攻撃は、たしかに少女を貫いたのだから。
なにもわからない。自分の無力さに嘆きたいのを必死に堪え、おれは目を瞑って考える。ただの気絶とは違うのか? 本当に外傷はないのか? このまま放っておいたらどうなるのか?
「わからねぇ……」
「バネさん……」
おれは頭を振った。まだ考えろ。思考を止めるな。
なにか手がかりをと目を開いたとき、おれはシスターと目があった。
なんだ?
「どうしました?」
いいながら少女に目を移して、おれは気づいた。気づいてしまった。
まだ呼吸を確かめていない。脈を取っていたのはシスターだ。呼吸による胸部や腹部の上下をじっと観察したが、十秒経ってもそれは確認できなかった。
「心臓マッサージを。経験は? 人工呼吸でもいいのですが」
「ごめんなさい」
「わかりました」
おれは短くいって、心臓マッサージを始める。シスターには少女の呼吸の有無を近くで見ていてもらうよう指示し、しばらく続けたが、効果はなかった。
「そんな……」
ライアはそう呟くと、うつむきフードで顔を隠してしまった。
シスターも呼吸確認――少女に顔を近づけた体勢のまま、動かない。
おれは深くため息を吐いた。それから、裂いた修道服を整える。
なんだ、これは。
涙など出なかった。なにもできない自分に腹が立っていた。結局ガイデルシュタインを倒したのもライアであって自分ではない。不死の呪いは奪われ、せっかく新たな異能を手に入れても少女一人守れない。
悔しかった。会ったばかりのアッシュというスライムに命を救われ、その命でメタルクローの頭領から少女を託され、しかしおれは生き残って、少女は死んだのだ。
「風向きが変わるかもしれません。火のない場所へ移動しましょう」
シスターが、抑揚のない声でいった。おれは小さく頷き、少女を抱きかかえた。鉄爪や怪力などをなにも感じさせない、華奢で小さく、軽い体。なんせ異能の身体強化はあれど、両腕の力のみで抱える横抱きができてしまうほどなのだから。
「ぼくがもう少し、周りを見れてたら……」
「気にしない気にしない。見てたよ。あの時間、ライアは戦うための覚悟を決めてたんだから、周囲に気を配る予定はなかったのよね」
ライアのか細い声を励ます声がおれの口から出て、おれは静止した。両腕が塞がっていてなにもできず、おれはただ、パチクリと目を瞬かせることしかできなかった。
「バ、バネさん?」
「バネッダさん?」
ライアもシスターも、一転しておれの顔を心配そうな顔で見つめてくる。
いや、おれが一番なにもわかっていないのだが。
結論からいうと、おれの口が勝手に動いたのだ。
「いや、え?」
おれはただ、二人の顔を順に見つめるしかなかった。
「マ……ママ?」
物事が複数一気に発生してしまうと本当に対処できなくなることをおれは学んだ。抱きかかえていた少女が、ゆっくり、小さく目を開いていた。
「ママ? まぁ、いまはママでもいいか。よく頑張ったね。バネさんを助けてくれて、本当にありがとう」
またしても勝手に動いたおれの口から発せられるその言葉の主を、おれは知っているような気がした。確証もなにもない。しかしおれの声で、おれの口で、誰かが少女に話しかけている。
「……アッシュ?」
「バネさんも頑張ったね。頭撫でてあげよっか?」
ライアやシスターには、おれが同じ声音で自分自身と会話しているようにしか見えないだろう。しかしこれは、間違いなくアッシュだ。
「ママぁ!」
一気に起き上がり、おれに抱きついてくる少女の勢いに押され、おれはあえなく尻もちをついてしまった。
「生きてる……」
死んでなかった。
なぜ?