銀梅花5
ふと空に目をやると、灰色の雲が重く垂れこめていて、今にも雨粒が落ちてきそうだった。
思わず視線を外してしまった自分に気づいて、唇を噛む。
そう。あの日もこんな天気だった……。
そこまで考えて、僕は軽く頭を左右に振った。
することがないというのは、ほんとうにダメだ。余計なことばかり思い出す。
掃除でもしようと立ち上がったとき、窓辺についた右手が痺れて、思わず壁づたいに座り込んでしまった。ずいぶん長い間頬杖をついていたせいだろう。
「ほんとバカだな、僕は」
あの頃と何ひとつ変わっていない。
ひとり座り込んで、何もない空を見上げて。
そうして、痺れる右手を切り落としたくなる。母の命を奪ったこの右手を。
どうして母の手を振り払ったりしてしまったのだろう。いっしょに連れて逝こうとしてくれていたのに。
あのとき僕もいっしょに逝けばよかった。
それとも、逆に僕はあの手をつかんで母の命を繋ぎ止めるべきだったのだろうか。
僕が母をあんなふうにしてしまったのに?
生きてさえいれば、いつかは壊れた心も元に戻ったとでもいうのだろうか。
思わず片頬で笑う。
そんなことあるわけがない。
それに、今さら何を思ったところで、全ては過ぎ去ったこと。どうしようもないことだ。
冷たい水の中に母を置き去りにしてしまった僕だから、せめて僕自身も死ぬまで心は冷たい水の中に置いておこうと決めた。
僕の心はもう、ここにはないのだ。
翌日は夜中から大粒の雨が降りつづけていた。
一向に降りやむ気配はなく、吹きつける風は木の葉を伴って窓ガラスを何度もたたく。
まるで小さな嵐だった。
こんな日は、庭園の木々や花たちが気になって仕方ない。
樹木が根こそぎ倒されるようなひどい嵐ではなかったけれど、髪を振り乱すように木々は整然さを失い、あちこち引き千切られ、花たちもその身を捥ぎ取られていっているのかと思うと、つい外套を手に取ってしまう。
僕の育てた薔薇は無事だろうか。
お嬢さまの、大切な薔薇だ。
部屋のドアを開けようとして、一瞬手が止まる。
僕は謹慎中だ。外に出てはいけない。
だけど、こんな大雨のなか庭に出ている人がいたとしても、庭師くらいのものだろう。次から次へと窓に叩きつける雨粒のために、ガラス越しであっても城の中からでは外の様子はよく見えない。だから、僕が外に出たとしても、城の中から誰かに見とがめられる可能性は低いはずだ。
逡巡したのは束の間。どうせこの城を出て行くのだから今さら何も恐れることはないと、唇を引き結んでドアを押し開けた。
風に大きく揺れる銀梅花の枝葉を見やり、外套を掻き合わせる。夜が明けて間もないせいか、まだ夏だというのに、思った以上に空気が冷たかった。
ブリアール城には薔薇がたくさん植えられているけれど、四季咲きの薔薇はそう多くない。他の薔薇と違って、植えられている場所も限られている。
途中、庭園の木々や花々の様子を見ながらも、まっすぐに目的とする場所へと向かった。
植物たちが小さな嵐を耐え忍ぶのに必死なせいか、雨で白くけぶる庭園は、少しよそよそしかった。
それでも慣れ親しんだ場所なので、視界が悪くても不自由はしない。
目的の場所はもうすぐそこというところまで来たとき、それまで迷いなく歩いていた僕の足が唐突に止まった。
誰もいないはずの庭園に人影が見えた。
一瞬、同僚の庭師かと思ったけれど、すぐに違うと分かった。後ろ姿ではあったけど、着ているものが明らかに女性ものの衣装だったからだ。
見咎められてはいけないと、踵を返しかけて、はっとする。
恐る恐るもう一度振り返って、そこに立つ人を見る。
華奢な肩。雨に濡れそぼっている長い金髪。あれはまさか……。
「お嬢さま……?」




