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銀梅花1

 深緑に舞い降りた雪を思わせる繊細な銀梅花(ぎんばいか)の花は、赤いレンガ造りの建物によく映えた。

 愛らしいのに清楚で控えめなこの花が、僕はとても気に入っている。

 ほんのりと甘い香りがする花とは別に、葉にも強い香りがある銀梅花には収斂作用(しゅうれんさよう)があって、火傷や創傷の治療、痛みの緩和に使うことができる。貴婦人たちには匂い袋として人気だけれど、銀梅花の実は香辛料としても使えるし、果実酒にしてもいい。虫もほとんどつかないし、とても用途の広い植物だ。


 僕がブリアール城に来たときからあるこの銀梅花の木は、庭師の宿舎の前に植えられているので、この五年間ずっと欠かさず目にしていたし、いつもその香りに癒されてきた。

 けれど、今はその銀梅花も窓越しに眺めるだけになってしまった。


『おまえ、しばらく庭に出るなと大奥さまからのご命令だ』


 庭師長からそう言われたのは、月下香げっかこうをお嬢さまに届けてブリアールに戻った直後だった。


『あの、大奥さまからのご命令はそれだけでしょうか。荷物をまとめておいたほうがいいようなことはおっしゃっていませんでしたか』


 自分の声が低く沈んでいることに、自分自身が驚いた。いつから自分にこんな感情が芽生えていたのか、と。

 居場所を失うことなど慣れている。だから、どんなものにも最初から執着心などは持ち合わせていない。

 たしかにこのブリアール城の庭は好きだったけれど、出て行けと言われれば、すんなりと出て行ける。心なんて揺れない。ずっとそう思っていた。

 なのに、実際にはひどく狼狽している自分がいる。

 その事実がさらに僕を動揺させた。


『いや、出て行けとまではおっしゃっていなかったが。おまえ、ほんとに運が悪かったな。よけいなお節介するからだぞ』


『はい……』


 うつむいたっきり、顔を上げられなかった。

 本当によけいなことをしてしまったと思うから。

 お嬢さまに月下香を届けたあと、ナリアート嬢から烈火のごとく怒られた。あなたのせいで数日後に迫っていたメリディエル家との結婚がなかったことになってしまったではありませんか! と。


 なんでも、双頭の蛇を見てしまうことは婚約破棄の正当な理由になるのだとか。

 自分の無知がつくづく悔やまれる。

 いや、悔やんでも悔やみきれない。本当に取り返しのつかないことをしてしまった。


 メリディエル家がこの国で大きな力を持っていて、お嬢さまの嫁ぎ先としてこれ以上ないほどの家柄であることは、さすがに僕でも知っている。

 不可抗力とはいえ、そんな家との縁談を潰してしまったのだから、大奥さまが激怒なさるのも無理はない。


「やっぱり、出て行けと言われる前に、自分から出ていくのが筋なんだろうな……」


 庭師長の言うとおり、僕はお節介をしてしまったのだろう。

 アモル伯爵夫人のお屋敷からの帰りに毒矢に射られて倒れてからの記憶はほぼ無かった。

 お嬢さまが僕をバーン城まで運んでくださったことだけはぼんやりと憶えているものの、意識がはっきりしたときにはブリアール城に戻っていたから、あのあと何があったのか、お嬢さまがどうなったのか、詳しく知るすべはなかった。僕は一介の庭師に過ぎないから……。


 幾日か過ぎて、僕と同じくブリアール城に戻っていたナリアート嬢から、お嬢さまは無事で、以前から決まっていた婚約者のもとに嫁ぐためにソルラーブへ移ったことを教えてもらった。

 無事と聞いてホッとしたのが半分。不安に思ったのが半分。

 僕は大抵の毒にはある程度耐性があるのに、それでも生死を彷徨うことになるほどの毒だったのだから、本当にお嬢さまに矢が刺さらなくてよかったと心底思う。僕を診てくれたグレン医師も僕の体質に驚いていたというか、呆れていたくらいだ。

 お嬢さまだったら助からなかった可能性が高いから、そこは本当によかったのだけど。

 その後の僕はほぼ記憶がないから、お嬢さまが襲撃者とどうなったのかも分からないし、不安に思ってしまったんだ。お嬢さまはお優しいうえに我慢強くて、本当のことをおっしゃらないことが多いから。

 今回もまた僕を心配させまいとして、無理に「平気」だとおっしゃっているのではないかと思えて……。


 お嬢さまは無事で、平気だとおっしゃっているのだから、僕がそれ以上関わる必要はない。いや、関わることなんてできない。

 だけど、考えれば考えるほど心配になって、落ち着かなかった。


 侍女やただの庭師に過ぎない僕なんかのために、あんなにも華奢な身で馬を駆るお人だ。しかも、怪我をしていたって弱音ひとつ吐くことがない。

 アモル伯爵夫人のお屋敷を訪れたあのときも、あちこち怪我をしていたにもかかわらず、たったの一度も痛いとすらおっしゃらなかった。ときどきほんのわずかに顔をしかめる瞬間があることに気づかなかったら、たぶんあのままずっと怪我のことは口になさらなかったに違いない。


 僕が心配したって何にもならないけど、本当にお嬢さまが元気なのか、どうしても自分の目で確かめたいと思ってしまった。

 それが大きな過ちだったのだ。


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