代償2
「イデル?」
そういえば、彼女はどこに行ったのだろう。
なんだかんだ言っても私に忠実なイデルが、私の言いつけを破ってどこかに行くなんて……。
しかも、部屋の換気などという、ごく簡単なことをせずに。
それにこのにおい、何かおかしい。
鼻を刺すこのにおいは、香辛料のものじゃない。鉄の錆びたような、このにおいは──。
「イデル? いないの?」
椅子に指先を這わせながら、探るように部屋の奥へと進んでいく。
そうして、長椅子のそばまで来たとき、私は一瞬吐き気におそわれた。
「イデル!? どうしたの、しっかりして!」
長椅子の裏にイデルはいた。口もとを血で汚し、床に倒れ伏していた。
「イデル、イデル! いったい何があったのよ!」
ひどく顔を歪めていて、血の気もなかったけど、まだかろうじて息をしているのだけは確認できた。
「待ってて。いま人を呼んでくるから! もう少し頑張るのよっ!」
それから自分がどこをどう走ったのか、誰に何を頼んだのか、まったく記憶になかった。
まだ聴覚が戻っていなかったので、誰かに何かを言われてもまるきり分からなかったけど、それはきっとまともに耳が聞こえていても、たいして変わらなかっただろう。
何が何だか分からないまま気がついたら私はまた部屋に戻っていて、そばにはラウラスがいて、ブリアールからいっしょに来た侍女たちもいた。
他にも誰かいたけど、そんなことはどうでもよかった。
「イデル! ダメよ、ひとりで勝手にいなくなるなんて許さないんだから!」
ベッドに移されたイデルは苦しげな呼吸を繰り返すばかりで、こちらからの呼びかけに対する反応はなかった。
「お嬢さま、落ち着いてください」
たったひとつ、耳に入ってくる声。
無音のなかで唯一響くその声が、私の涙腺を緩ませる。
「また羽舞草の毒なの!? どうしてよ。どうしてイデルがこんな目に遭うの!?」
イデルはサエウム伯爵殺害とは何の関係もないじゃないの。
「いいえ、お嬢さま。ちがいます。羽舞草の毒では吐血などいたしません」
「じゃあ、何なのよ!」
ラウラスは困惑げに眉根を寄せ、ベッドで眠るイデルに視線を落とした。
そのとき、私の侍女のひとりであるキャナラが寄ってきて、手にしているものを掲げてみせた。キャナラは何か言っていたけど、私の耳はまだ彼女の声を拾えなかった。
「これは?」
ラウラスが訝しげにキャナラが持つものを見やる。
「それはイデルのパイよ。私が部屋を出ていくとき、イデルはちょうどそれを食べようとしていたの」
キャナラが持ってきたそのパイはまさに食べかけのものだった。
「これは朝食で出されたものですね。私もいただきましたし、他の人たちも口にしていましたが……」
口もとに手をおき、パイをまじまじと眺めていたラウラスは、ふいに部屋の中をぐるりと見まわした。
そうして、おもむろに窓辺のほうへと歩きだした。
「これもナリアート嬢のものですか?」
テーブルの上にあった小瓶を手に取り、ラウラスが振り返る。
「ええ。それはイデルが使っている香辛料よ。あの子、味覚がちょっと変わっているから」
ラウラスは小瓶を手にしたままベッドのそばへと戻ってきた。




