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断頭台に散った悪役令嬢は、現代でプログラマーとなり乙女ゲームに『真の救済エンド』を実装する  作者: あとりえむ


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第12話

オフィスを支配しているのは、静寂という名の暴力だった。


マスターアップ当日。

ルミナス・ソフトウェアのフロアには、数ヶ月に及ぶデスマーチの末に辿り着いた、極限の疲労と殺気立った緊張感が沈殿している。


デバッグチームが並ぶデスクからは、ひたすらコントローラーを操作する乾いた音と、淡々とバグ票を起票するタイピング音だけが聞こえてくる。


莉奈は自分のデスクで、電源の入っていないモニターに映る自分の顔を見つめていた。

目の下には深い隈があり、頬はこけている。

だが、その瞳だけは異様な熱を帯びていた。


「……頼むから、何事もなく通り過ぎて」


胃の奥を直接掴まれているような不快な圧迫感に、莉奈は浅い呼吸を繰り返す。

彼女がソースコードの深淵に埋め込んだ「Project_SALVATION」


それは、神崎が設計した「セレスティアの死」という正規ルートを、特定のフラグが立った瞬間に全上書きする、極めて巨大で、かつ精密なプログラムの塊だ。


デバッガーたちが通常のプレイをしている限り、そのコードは眠り続け、存在すら検知されないはずだった。

だが、プロのデバッガーは時に、開発者さえ予想もしない「あり得ない操作」をして見せる。


もし、この最終チェックで私の仕掛けが露見すれば。

解雇どころではない。損害賠償、そして何より、セレスティアを救うための唯一のチャンスが永遠に失われる。


莉奈はキーボードの上に置いた自分の指が、微かに震えているのに気づいた。

それを隠すように強く拳を握りしめ、彼女は再び、戦場と化したオフィスの喧騒へと意識を向けた。


「ちょっと、神崎さん。ここ、少し変じゃないですか?」


デバッグリーダーが声を上げた瞬間、莉奈の全身の血が引いていくのが分かった。

モニターに映し出されているのは、断罪シーンにおけるシステムリソースの推移グラフだ。


本来ならフラットであるはずの箇所で、心電図のような小さな、しかし鋭いスパイクが立っている。

そこはまさに、莉奈がセレスティアを救い出すための隠しフラグを、神崎の書いたシナリオの隙間に埋め込んだ箇所だった。


「なんだ、どうした」


背後から、あの聞き慣れた傲慢な声が近づいてくる。

神崎が莉奈のデスクを覗き込み、眉間に皺を寄せた。


「おい結城、この数値は何だ。最適化不足か? 俺の書いた最高潮のシーンで、ユーザーにストレスを与えるような挙動を残すなと言ったはずだぞ」


莉奈は乾いた喉を鳴らし、震えそうになる指先を机の端に押し当てた。


「……背景アセットの、プリロード処理を調整した影響です。描画の安定性を優先しました」


頭の中で、論理的な言い訳を一瞬でビルドする。


「イベント終了後の暗転時間を短縮するために、次のシーンのテクスチャを事前にメモリへ展開しています。低スペックの端末でのクラッシュを防ぐための処置です」


嘘ではない。半分は、事実だ。

救済ルートという名の「次のシーン」を呼び出すための準備コードが、背景データに偽装してメモリに居座っているのだから。


神崎はしばらくの間、黙ってグラフを見つめていた。

莉奈の耳には、自分の心臓の鼓動が、静かなオフィス中に響き渡る警報のように聞こえていた。


「ふん、余計な真似を。俺のシナリオに泥を塗るようなバグが出たら、ただじゃおかないからな」


神崎は鼻を鳴らして去っていった。

彼が離れた後、莉奈はデスクの下で握りしめていた手が、汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。


冷たい汗が背中を伝う。

薄氷を踏み抜く寸前で、踏みとどまった。

だが、この極限の緊張状態に、莉奈の心身は音を立てて軋んでいた。


「全項目、クリアです」


デバッグリーダーのその一言が、静まり返ったフロアに静かに、だが決定的な重みを持って響いた。

莉奈はモニターの端に表示された時計を見た。午後九時十四分。


数ヶ月に及ぶ地獄のような日々が、今、この瞬間に一つの区切りを迎えようとしていた。


神崎がゆっくりと席を立ち、メインサーバーの端末へと歩み寄る。

その足取りには、自らの最高傑作を世に送り出す制作者としての、傲慢なまでの自負が漲っていた。


「よし。マスター、焼き出し開始だ」


神崎の指が、実行ボタンを力強く叩いた。

モニターに表示されたプログレスバーが、ゆっくりと、だが着実に右へと伸びていく。


サーバーから工場のプレスラインへと、暗号化されたデータが転送されていく。

一度あちら側のサーバーに届き、物理的なプレスマスターが作られてしまえば、もう誰にも止めることはできない。


神崎の書いた絶望も、莉奈が密かに仕込んだ救済も、すべてが分かちがたく混ざり合った一つの真実として、不可逆のデータへと固定されていく。


0%……15%……48%……


莉奈は、自分の魂がパケットに分割され、デジタルの海へと吸い込まれていくような、奇妙な浮遊感の中にいた。

進捗率が100%に到達し、『Transfer Complete』の文字がモニターの中央で冷淡に点滅する。


「終わったな」


誰かが低く呟いた。

まばらな拍手が起き、張り詰めていた糸が切れたような安堵の溜息がフロアのあちこちで漏れる。



莉奈はただ、光を失った自分のモニターの黒い画面を、じっと見つめていた。


賽は投げられた。

もはや、誰にも書き換えることのできない物語が、世界へと解き放たれたのだ。


オフィスが「マスターアップ」の成功に沸き、神崎が部下たちの肩を叩いて回る声が遠くに聞こえる。

莉奈は、自分の指先が感覚を失ったように冷たくなっていることに気づいた。


誰にも声をかけず、影のように静かに席を立つ。

背後で上がる歓喜の声は、今の彼女にとっては別の世界の出来事のように思えた。


洗面所に駆け込み、一番奥の個室に入って鍵を閉める。

その瞬間、張り詰めていた最後の一本の糸が、音を立てて切れた。


莉奈は膝から崩れ落ち、冷たいタイルに手をついた。


「……っ、……あ……」


声にならない嗚咽が漏れる。

口を強く押さえ、溢れ出そうとする感情を必死に抑え込んだ。


怖かった。

バレるのが怖かった。


自分の仕掛けた無謀な賭けが、誰かの指先一つで消去されてしまうのではないかと、心臓が爆発しそうな毎日だった。


前世で、理由も分からず断罪の場へ引き摺り出されたあの日の恐怖。


現代で、神崎に実績を奪われ、透明な存在として扱われ続けた屈辱。


それらすべてをロジックの鎧で包み隠し、たった一人で進めてきた戦い。

今、そのデータが、物理的なディスクとなって世界へと解き放たれた。


もう、誰も消せない。

誰が何と言おうと、セレスティアが救われる道は、この世界に確かに存在することになったのだ。



莉奈は震える手で顔を覆い、しばらくの間、静まり返った個室の中で、ただ一人きりで泣き続けた。

頬を伝う涙は、これまでのどんなデバッグ作業よりも熱く、重かった。

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