第23話 愛美のためにできること
「棚橋さん、一度付き合ったことのある人がいて……」
「うん。その話は聞いてる。社会人になってすぐに、付き合った人がいるって」
「何で別れたとかは?」
「さあ、そこまでは。本人が話したくなさそうだったから、わざわざ聞いていない」
向こうから付き合いたいと言ってきたらしいが、振られたような感じなんだと思っていた。
拓としては、もちろんすごく気になる。けれど、愛美にとっては辛い思い出なのだろうと推測してしまったので、これまで考えないようにしてきたのだ。
「そいつ、最低な奴だったんだ」
「え?」
「二股だよ。棚橋さんは何も知らずにそいつと一年くらいは付き合っていた。梨帆には、やっと自分にもいい人が現れた、もう男性恐怖症なんかじゃない、ってすごく嬉しそうに話していたのに」
「……」
拓は言葉を失くす。
知ってしまったときの愛美の絶望が、手に取るように分かった。
実は少し前に、愛美のアルバムを一冊見せてもらったことがある。たまたま話題に出た場所に以前行ったことがある、というので。そのとき、本人のいない隙に何気なく挟まれていた写真を、見てしまったのだ。
愛美の、明らかに痩せている一枚。
他にそんな写真はなかったものの、愛美が食事さえ碌に取れなくなってしまった出来事があったのだと気づいた。
その写真の隅に日付を確認した拓は、愛美の初めての恋人との思い出を聞かないと決め込んでいたのだ。
「そいつは、付き合っていたもう一人と結婚したんだ。棚橋さんは自分がその人と結婚すると信じていたのに。ショックで、男性不信に陥ってしまったのも分かるよな。梨帆にも、自分は選ばれない人間なんだって言って、泣いたこともあったらしい」
「そんなことが……」
「心労ですごく痩せたりしたとも聞いたよ。だから、今回梨帆に勧められて深川に会ったのは、きっと勇気がいることだったと思うんだ。多分、最初は期待も何もしていなかったんじゃないかな。本人は結婚相談所にでも登録して、少しずつ男性と付き合えるようになって、そのうち相手が見つかればいいとか、見つからなければ独身を通すとか、考えていたみたいだから。でも、今はそうじゃないかもな」
「……うん。言いたいことは分かったよ」
拓は重く慎重に言葉を受け止める。
瘦せ細り、何の表情もない顔立ちや虚ろな瞳など、写真を目にしたときに感じた衝撃を、今はそれ以上の意味あることとして受け止めなければならない。
「決めるときは、きちんと決めるんだぞ」
大内はそう締めくくった。拓はその言葉を、心のどこかにしまい込んでいたのだ。
「ところでさ、うちのことだけど」
そこで、大内は話題を変えた。
「来月、実は子どもが生まれる予定なんだ」
「ええっ、本当に? おめでとう」
「ありがとう。ここまで長かったよ」
晴れやかな表情でありながら、大内はしみじみと言葉を口にした。
大内夫妻はそのとき、結婚五年目だった。結婚した最初の年に子どもができたが、流産となってしまい、その後は全く恵まれることはなかった。
以来、夫婦で余程ほしくて、気にしているのは知っていた。
そこから先は、生まれてくる子どもの話題で始終した。大内夫妻の朗報で、愛美の過去の傷みをどこか忘れられる気がした。
無論、愛美にはそこで聞いたことを何も話していない。愛美が過去に、結婚したいと思った男性がいたことを、自分自身気にしないようにしてきた。
けれど、今は思い出さなければならなかった。
痩せ細るほど辛かった愛美。幼いころから傷みを抱え込んできた愛美。けれど、その愛美が今、自分に求めていることを火事に遭うことで叶えようなんて、決してさせない。
日常の時間から切り離されているせいか、愛美の姿を追っているせいか、あるいはポコリンがどこか愛美を思い起こさせるせいか、これまで愛美のことを次々思い出し、考えてきた。
今の自分には、愛美がどれほど大切な存在なのか、分かっている。
心の傷に触れてしまうことも、今はもう恐れはしない。これまでの愛美との日々を、愛美を、そして自分自身を信じるしかない。
いつも選ばれない、と思い込んでいる愛美に対して。
自分が選ぶ、そのときが来ているのだから。
今度は再度の成功だ、と願う。拓もポコリンも。
到着したのは、月曜日で合っていた。しかし、時刻が違う。夕方でも夜でもない。
15:02
「初めてだね、こんなに早いのは」
ポコリンの言葉に、拓はゆっくり頷いてみせる。
何かが変わったのだろうか。
「一応電話だけ先にかけてみる。愛美も仕事中だから出ないとは思うけど。そのあとは早く合流しよう。ポコリン、早めに職場へ来てくれる? 今のところ、成功したときと同じ行動をとるつもりだけど、またあとで考えようか」
これだけ早い時間だと、愛美の職場に行って彼女に直接話す、という方法も取れる。一度も試みていないので、うまくいくかは不明だが。
ただ、それならそれで、あとで前と同じ方法を取れる。
「うん、分かった。わたしも同じ時間には、同じ行動をするから」
ポコリンがどこか沈んだ口調で話し、表情を曇らせる。
前回のことを思い出したのだろう。予定と違う自分の行動で失敗してしまったと、心のなかでは自身を責めているに違いない。
その気持ちを思いやりながら、拓はポコリンを励ます。
「大丈夫、上手くいくよ」
昼間の明るさが不思議と気持ちを上向きにしてくれる。
これを最後にしたいと、拓は強く願っている。
電話は通じず、やがて、重なる時間がやってきた。
拓は同じように職場に。急ぎの予定のない時間帯だった。さりげなく席を外し、愛美に再び電話を試みる。
『はい?』
なんと通じた。愛美の声に、一瞬うろたえてしまう。が、落ち着いて話す。
「僕だけど、愛美?」
『拓? どうしたの、こんな時間に』
「仕事中にごめんな」
『ううん、大丈夫だよ。それより、何?』
「びっくりするよね。たいしたことじゃないんだ」
つい、たいしたことない、と話す。
たいしたことは、あるのだ。
愛美に対して、どうしても取り繕うところはあるんだなと自分で思う。タイムマシンでこれまでたどってきた道々、何度も思ったことだ。取り繕って、自分の気持ちをなかなか伝えられない。
これからは意識して変えていこう。
拓は話しかける。
「あの、今日は仕事の帰りにどこかに寄ったりする?」
『え、別に。買い物とか、あとでするかもしれないけど』
やはり筑前煮を作る予定なのか、愛美はそう答えた。
「それなんだけど、今日はまっすぐ家に帰って、そのまま過ごしてもらいたいんだ」
『え? まっすぐ帰って、そのまま?』
「うん。出かけないで家にいるだけにしてほしいんだ」
『別にいいけど、どうして?』
愛美が少し不思議そうなトーンで話す。
「詳しくは今は話せないんだけど、愛美が今日出かけるのが心配なんだ」
いい言葉が思い浮かばないまま、拓は答えた。
未来のこと、火事に関しては、言うことができない。
「本当は電話でこんなことを言うんじゃなくて、愛美のところへ今すぐ駆けつけたいところなんだ。だけど、そういうわけにもいかなくて」
『……』
いつもと違って、何だか熱いことを言ってしまっているのでは。
拓は普段の調子と熱さのせめぎ合いに突然気づいて、自分でも戸惑った。
愛美も多分、それを察しているだろう。
電話の向こう側にいる愛美を、今感じている。
火事に遭った愛美に対しては、会いに行って手を握ってやることしかできなかった。だけど、今繋がっている愛美に対しては何かもっとできることがあるはずだ。
今の愛美は、この先ポコリンを見つけて、それをきっかけに火事に遭ってしまう……。
電話で過去を変えようとするのは、会えたときとは差異がある。定着させるには、やはり何度か繰り返す必要があるのだろうか。言葉だけで変えるのは難しいと、ポコリンが前に言っていたし。あとでポコリンと共に追いかけることになるのかもしれない。
それでも、今は。
この愛美と真剣に向き合うしかない。
未来について話せない、というけれど、すべてがそうだろうか。
愛美は未来が不安だったのではないか。それを取り除いてはいけないのだろうか。
なぜ自分は過去に来ているのか。
過去が違ってしまっていて、変えなければならない、ということは、やはり未来について何か伝える必要があるからじゃないのか。
過去を確定させるために、未来にプロポーズすると決めた。
だったら、この愛美に対して、今の自分ならできることがある。ポコリンと共にタイムマシンで何度も旅してきた自分だからこそできることが。
多分、これしかない。これなら、きっと一度で定着する過去になるはずだ。





