第18話 雨の現在
「お互い腹の虫が不満そうだな。まあ、もう少しだけだから。無事戻れたら、飲んでいいよ。こっちは肉じゃがが待っている」
そう思えば、耐えられる。
「いいなあ、それ」
ポコリンはふふっと小さく笑った。
それにしても結局のところ、愛美が火災現場に行くことになったのは、ポコリンが関係あったことになる。
ポコリンが一人でタイムマシンでやってきて愛美に会ったのと、拓が愛美と電話が繋がったときに「あれ」と気づくのが、ほぼ同じ時間帯だった。
電話が繋がったときも今回も、愛美にはポコリンの姿が目に入っていたのだろう。
一人で歩いているのを見つけて心配になったのか、あとを追いかけたようだ。現場まで探しに来てしまったり、あるいは見失った上で買い物を思いついたりしたのかもしれない。
そのまま火事に遭った可能性が高い。
血縁があるせいなのか、愛美にとってもポコリンは、自然に気になってしまう存在なのかもしれない。それでも、もう過ぎたことだ。
この先に、愛美のいる部屋がある。愛美の作る肉じゃがが待っている。
思い浮かべて浸っていると、ポコリンがこちらを向いた。
「何だか楽しそうだね。プロポーズはうまくできそう?」
そういえば、そうだった。
拓が思い出したそのとき、揺れが大きくなった。
「また揺れそうだなあ」
「少しずれちゃうかも。何だか今回は揺れが大きそうなんだけど、ちょっと遅い時間になっても大丈夫?」
「遅くなっても、残業が長引いたと思ってもらえるから」
できれば、あまり愛美を待たせたくはなかったが、プロポーズを考えると、早く着かなくていいような気がしてしまう。
タイムマシンは揺れる。現在を求めて揺れる。揺れる。
「揺れるねぇ」
ポコリンが思わず呟く。
かき上げた前髪は、ゆるくウェーブがかかっている。
僕と同じような癖のある髪なんだな、と拓は思った。
ようやく揺れが収まった。着いたらしい。
二人ともほっとする。いよいよ帰還だ。
駅前の時計を確認する。
20:34
「よかったあ。いい時間で」
「大丈夫だったな。これでやっと終了か」
拓はどこか名残惜しいような気持ちもしている。
タイムマシンで過去へ行って、現在を変えたのだ。この向こうに愛美の待つ部屋がある。
ついに、愛美と会い、プロポーズする瞬間がやってきた。その前に肉じゃがの匂いを確認したいものだが。
とにかく腹ペコだ。
はやる気持ちを抑えながら、ポコリンと一緒にタイムマシンから外へ出る。
帰ってきた。ようやく、現在に降り立ったのだ。
ふと、頬に何か冷たいものを感じた。手のひらを向けると、滴が。
雨がぽつりぽつりと降ってくる。
出発前、夜空は晴れていたはずなのに。小さな星がまばらに見えていた覚えがある。
踏みしめる草がなぜか湿っている。急に土と草の匂いがしてきた。
「拓さん、何か変だよ」
ポコリンが声を上げた。
「ここが前と天気が変わるってことはないよな?」
雨を手の内に受けながら、拓は訊く。
「ないよ。何で雨が降っているの?」
ポコリンの声もどこか張りつめている。続いての言葉に、拓は何も考えたくなくなった。
「まさか、日にちが違うとか……」
だったら、自分は会社にいるのかなと、ふと思った。思考回路が麻痺している。
「一旦タイムマシンに戻ってもいい?」
拓はただ頷くしかない。
二人は一度タイムマシンの座席まで戻った。
駅前の時計を確認する。夜の8時台で特に間違えはなさそうだ。現在にたどり着くときは、いつも日付まで確認していなかった。別の日に到着する可能性なんて考えてもみなかったから。
ポコリンはカメラを回し、売店の新聞に焦点を当てる。
「ええっ、何で?」
ポコリンの声に、拓も画面を覗き込む。
10月24日、金曜日。
「そんな……」
現在より二日後の未来。
これまで、現在に帰るときは、常にほんの数十分程度のずれしかなかったのに。
一体何が起こったのか。信じられない。
拓は、周りにいる人たちのスマホに画面の焦点を合わせるようポコリンに頼む。そうして、一人の人のスマホに表示された日付を確認する。
間違いはなかった。24日の金曜日。
まるで予想外の結果に、二人とも混乱をきたして、ただ呆然とする。
二日先にいるなんて。
やがて、ポコリンがおずおずと尋ねた。
「どうする、このあと」
「どうするって?」
「このまま降りても大丈夫なんだけど?」
「二日未来だよな」
「うん。ちゃんと修正された未来だよ」
「じゃあ、水曜日と木曜日はもう過去ってこと?」
「うん」
「それは困る」
「やっぱり?」
ポコリンはため息をつく。拓は言いかける。
「愛美は火事に遭っていないと思うけど……」
「そのはずだよ」
「でも、本当に僕がプロポーズしたのか分からない。していたとしても、何と言ったのか、どういう状況だったのか分からない。それを一生そのままになったら、まずい」
「そうだね。一応自浄作用で、プロポーズやこの二日間の記憶は少しずつ思い出すかもしれない。だけど、経験していなかったと思う記憶も拓さんのなかに……残るよね」
あとから記憶が戻る、と言われても、拓には確証が持てない。
たとえ記憶の甦るものだとしても、実際に経験していないというのは、どこか他人事のようで納得できなかった。自分と愛美の人生にとって、重要なことなのだから。
「水曜日の夜も木曜日も何も覚えていないって、きついな。あとから記憶ができたとしても、水曜日は愛美と過ごせる貴重な時間なんだから。おまけに……」
拓はそのタイミングで右手でお腹を押さえるが、どうにもとまらない。音が鳴り響いてしまう。
「わ、分かったよ。ちゃんと水曜日に戻って、肉じゃが絶対食べたいよねっ」
「肉じゃがって今は言うなよ。余計お腹が空く」
過去の自分と重なっている間は、向こうの自分の体なので、物理的には空腹を感じないで済んでいた。けれど、今はこれまでになくひもじいような……。
拓はくらくらと眩暈がしそうだった。
二人はまたタイムマシンを動かす。
「もう一度、時間を設定して、っと」
ポコリンが軽く言いながら操作するが、二人の間には厚手の雲に覆われたような重い空気がある。
「……なかなかたどり着けないね。ごめんね」
ポコリンの言葉に拓は首を横に振る。
「謝ることなんてないよ。大丈夫。今度こそ帰ろう」
「うん」
ポコリンの返事に頷いてみせる。
しかし、拓は胃が空っぽなせいもあって、全く力が出ない。たどり着けなかったことがショックだったのは確かだ。重量感のある疲労を、心にも体にも感じている。
ここからまたたどり着くまでに時間がかかる。それから愛美に会って……。
今は先のことまであまり考える気になれない。今夜は本当にいろいろありすぎる。まだまだ大変だ。
思わず背もたれにどさりと体を預けると、拓は目を閉じた。
「着いた」
ポコリンの声に、拓ははっとする。いつの間にか寝ていたようだ。
時間を確認すると、ポコリンは「あっ」と声をあげる。
「どうしよう。月曜日になってる! やり直しだよ」
「何だって」
水曜日に戻るはずがどういうわけだろう。戻りすぎだ。
拓は驚いてポコリンの差す画面を見たが、間違いないようだ。
降りて、同じように行動しようとする。それなのに、なぜか辺りはまるで知らない場所になっている。
足元に草は生えておらず、コンクリートの道がやけに暗い。
「ここは、どこだ。あれ、ポコリンは……?」
一緒に降りたはずのポコリンが見当たらない。スマホで場所を確認しようとするが、画面は暗いまま。うまく表示されない。どうなっているのだろう。





