エリュシオン
始まりの終わり。
そして、終わりの始まり。
「ね――ねぇ!」
「ぐ、ぶ……お、お前、あの魔物……! どこ……に……!」
副長が憎々しげに呟く。だが、声が弱弱しい。
フィアティガの突進に加え、樹に衝突し、更にそのまま受け身もとれずに落下した。既に瀕死の重体だ。意識を取り戻したのは、彼にとっては不幸だったに違いあるまい。
「あなた、あなた、ねぇ! 傷を治せる? ショーナを治せない!?」
「――ショーナ、さっきの……錬装術の勇者、か……? 知らん、治す気など無い……!」
「あ、貴方の同族よ! 人間なのよ! 魔獣でも、魔物でもない! 治してあげられない!?」
「魔物と通じる奴の、どこが同族だ!」
副長が強く吠える。だがエリュシオンは怯まなかった。彼がエリュシオンにとって、最後の希望だった。未だに彼女はショーナの死を受け入れられていない。
「ショーナ、何もしてないじゃない! ねぇ、もう虫が集ってるの! 死にかけなのかもしれないの!」
「魔物と通じているというだけで罪だ、人にとっては! 死ぬなら好都合だ! とっとと、死ね!」
副長が更に強く吠える。エリュシオンが思わず尋ねる。
「……どうして?」
「はっ、魔物が何を! 人を滅ぼそうとする貴様らが!」
「私、私が嫌いなの? ねぇ、私貴方には何もしてないじゃない……何もしてないわ、貴方なんか知らない! ショーナだって!」
エリュシオンは当然、彼のことなど知る由もない。
産まれてから数日間は一人で。それ以降はショーナと共に、ずっとこの森で過ごしてきたのだ。彼女は外界のことなど、知らなかった。エリュシオンにとって他人はショーナ一人だった。
「俺の、俺たちの村はお前たち魔物に滅ぼされたんだ! 知らないだと!? それこそ知ったことか、魔物は世界の敵だ、お前たちが悪なのだ! それを殺して、何が悪い!」
「――ショーナは」
エリュシオンの顔から、色が抜け落ちた。
「ショーナは、いつも言ってたわ」
「……何?」
「対話できる知能があるなら、ちゃんと話せるなら、きっと解りあえるって」
少なくとも、その成功例はここにいる。エリュシオン。彼女自身が、ショーナの言葉の正しさを証明していた。
「そう簡単にはいかないかもしれないけど、必ずお互いにとっていい着地点を見つけられるって。武力は必要よ、それは本質じゃないけれど、お互いに分かり合うために。でも、貴方たちは」
エリュシオンの瞳に、強い火が点いた。
暗い暗い、憎悪の色だった。
「――貴方たちは、そもそも話なんて求めないのね? 私たちをただ、悪と認定して、滅ぼそうというのね。魔物と通じる人も――ショーナを、無数に、殺すのね?」
「……」
「だったら、私が貴方たちを滅ぼすわ」
ばさりと、翼が強く羽ばたいた。
その翼を見た瞬間、副長が酷く動揺したように、体を揺るがす。
「……色翼……捩じれた角……まさか、いや、そんなバカな……」
「遍く人を、悉く滅ぼすわ。誰も許さない、許してあげない。貴方たちが私たちを、ショーナを殺すのなら」
強く強く手を握り、エリュシオンは副長を強くにらみつける。翼が強く震え、エリュシオンの体を持ち上げる。その瞳に宿る憎悪の炎は、ただ強く燃え上がっている。
「――そう、全ての人と、それに通ずる者たちを、全て、全て、全て!」
「ま、待て。お前、お前は――四体目の……竜……か!? だ、だが、ありえん……」
「私の名前はエリュシオン! これは、この世で最も優しき人が付けた名前! この名前こそが私の誇りだ! 滅ぼしつくしてやるぞ、全人類!」
叫びながらエリュシオンは手を空に翳す。周囲の魔力がうねり、彼女の周りで吹き荒れる。
「この規模の現術に操術……! や、はり……! やめろ、止めてくれ! ど、どうにか……」
「――うるさい、もう聞く耳は持たないわ。そして、お前が最初よ」
エリュシオンが最も最初に覚えた魔法だった。氷を作るのは彼女の得手とするところである。彼女がこの森で恐れられる、その理由でもあった。
エリュシオンの周りで魔力が渦巻き、空気が加速度的に冷えていく。
魔法とは瞬発力だけではない。それを彼女が証明する。ただ魔力で冷やすだけではない。それではたかが知れている。渦巻いた魔力はやがて天にまで届き、慣性に従い空気が引きずり降ろされ、その影響により更なる冷却をもたらす。小さな体に収まりきらぬほどの圧倒的な量の魔力は、天すら自在に操るものである。
やがて辺りに雨が降り始める。冷却は瞬く間に雨を雪とし降り注がせるばかりか、酸素を液化させていた。最早辺りに生命体は存在できない。地面が、樹が、あらゆる生命体が氷結地獄に晒された。
空気はあるべき密度を取り戻そうとエリュシオンに向かって雪崩ていく。だが遠心力はそれを許さず、阻まれ、大気へと戻る。下へと渦巻、天へと還る。氷結の嵐はやがて窒素さえ液化させるほどの冷却を起こした。
災禍の中心には塵旋風が聳え立ち、嵐の如くに風が吹き荒れている。その嵐の内側でエリュシオンは涙一つ流さずに凪いでいた。静かに雪の降り注ぐ虚無の世界。降り注ぐ雪は水だけとは限らず、さらなる冷却を辺りにもたらし被害を広げていく。
やがてエリュシオンは魔力を停止した。魔力の停止と共に嵐が止み、然程疲労したわけでもなさそうなエリュシオンが地面に足をつく。
これ以上続けることも可能であった。更に魔力の放出を続ければ未曽有の大災害が巻き起こっただろう。地表の全ては薙ぎ払われ、全てのものは死の雪に沈む。最も、エリュシオンの魔力とて限度はあった。今これ以上使えば、自らの命も危うい。そう直感している。
「私が使える最強の魔法、その一つ。こんな魔法怖くて使いたくなかった」
あらゆる生命体が活動を停止した極寒の世界で、エリュシオンは一人小さく呟く。
人為的な異常現象はその原動力を失うと停止し、やがて森はその静寂を取り戻していく。それでも暫くは雪が降り続ける筈だった。魔法による現象が停止し、魔力は霧散したが、冷え切った空気が戻るまでは相応の時間が必要となる。深々と降る雪の静寂は、今のエリュシオンの心象風景そのものであった。
「これを使ったら、ショーナも死んじゃうから。どんな距離があっても、どんな場所であっても。でももうその恐れもないわ。でも、ショーナ」
氷漬けにされ、既に生命活動が完全に停止した鎧の男や、その他数多の生命体など目もくれず、完全に凍り付いたショーナの死体へと彼女は歩み寄った。
凍り付いている程度で済んでいる。周辺は嵐であったが、土壌や樹木までが吹き飛ぶほどの風は吹いていない。
「私、人類を滅ぼすわ。貴方みたいなのもいるかもしれない。でも、いいの。私にとって、ショーナはショーナだけだったから」
周囲は雪に埋もれていた。取りこぼした槍は見つからないだろう。
少しだけ残念そうにエリュシオンは笑う。けれども最早その笑顔には、決意が漲っていた。
「安心してね。私は絶対に死なないから。でも――もう、貴方を奪わせない」
言いながらエリュシオンはショーナの体へと触れた。ゆっくりと、そして静かに。そして大きく口を開けた。
「私と一緒に行こう」
凍り付いたその肉体全てを胃に納めるのにかかった時間は、この氷結地獄を作り上げるよりも遥かに長く、その間エリュシオンの頬は常に濡れていた。
さぁ、力をつけよう。時間も必要だ。まだこの身は余りにも脆く、弱い。
人類すべてを滅ぼすのだ。あらゆるものが必要だ。
この森にいる全ての生命体を支配下に入れて、それから、それから。
彼女はまだ何も知らない。世界の広さ、彼女が戦う敵。しかしその胸の内に宿る黒い炎は、そう簡単に消えるものではなかった。彼女は全てを奪われたのだった。全てを奪ったのは人だった。そうであるから彼女は復讐すると決めた。それこそが彼女を構成する要素となった。
その復讐の炎があらゆる人へと飛び火するまで、実に二十年もの時間がかかることとなる。
それでも彼女の氷の咆哮は、今日、この時、確かにあげられた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
楽園の竜【序章】はここで終わりとなります。
次は第一章でお会いしましょう。




