#075 上洛要請
永禄五年(西暦一五六二年)八月上旬、尾張国 那古野城 評定の間
日増しに酷くなる暑さ。
地面からは陽炎が立ちのぼっていた。
照りつける日差しは肌を焼き、その色を黒く変えていく。
初夏の甘い香りはとっくのとおに消え去り、地面の焼けた臭いが辺りを満たしていた。
地を焼く事によって発した熱は広間にも及ぶ。
肌の上にじわり、水分が滲み出た。
汗の臭いがした。
そんな中、俺は朝廷からの使者、山科言継を迎えていた。
「上洛?」
何でも、摂津国のとある城が名も無き浪人風情に落とされた、その事実が京の都の住人の、特にやんごとなき方々の心肝を寒からしめたらしい。
(半兵衛ぇ……)
その為、何処かの戦国大名に治安維持を任せたくなったとか。
本来であれば京の都を抑えた六角勢に任せたいのだが、大半の兵を飯盛山城に差し向けている。
頼み、頷いて貰えたとしても実行力に疑問が残った。
それ故、近隣の戦国大名を、だそうな。
当然、織田以外の戦国大名も幾つか候補に上がったらしい。
が、先の通り現在進行形で京の都を抑えているのは六角。
その六角と懇意にしていると思われる戦国大名の内、最大勢力が織田であった。
加えて、関白近衛前久からの一押しが決め手になったとか。
既に六角にも根回し済みであり、俺が頷けば話が纏まる状況となった事から、山科言継具のご訪問、と相成った次第である。
「ここだけの話じゃが、天子様も織田信行殿と言葉を交わしたい、そう願うておられる」
山科言継のこの言葉に、評定の間は一気に騒然とした。
先の言葉の意味は、
「信行様が殿上人に御成あそばされる、そう申されるか!?」
であったからだ。
津々木蔵人が我が事の様に喜色満面となった。
ちなみにだが、俺は現状官位を頂いていない、筈だ。
朝廷からの書状には”平朝臣信行”とかしか書かれていない。
そう、俺は未だ、織田勘十郎信行として……しか名乗っていないのだ。
つまり……無官?
以前、弾正忠をという話もあったが、立ち消えになったままだしな。
俺はそれらの事実や畿内の情勢を吟味しつつ、一つの結論を出した。
「なるほど、天子様が。なれば……無下には出来ませぬなぁ」
「ふおっ、ほっ、ほっ。話が早くて助かるのじゃ。なれば……」
「だが、断らせて頂く!」
「ふおっ!?」
「なっ、なっ、何故でござるか!?」
一変して顔色が蒼白となった津々木蔵人。
評定の間もまた、新たに起こった喧騒に包まれていく。
俺は朝廷からの使者である山科言継の手前、「暫し猶予を」と回答を引き延ばす言にした。
その上で、場所を変え、家老衆の意見を募る事に。
津々木蔵人はいの一番、俺の真意を正そうと、
「信行様!」
身を乗り出してきた。
俺は致し方なく、その理由を説き始める。
「その訳は……」
そもそも、畿内は現在進行形で戦地だから、であった。
戦地にのこのこ出向けと? 嫌だ、嫌だと言ったら嫌だ!
何が嫌かと言うと、当たり前だが戦に巻き込まれるのが嫌!
ただでさえ、十二万もの大軍が睨み合ってる場所の近くに京の都がある。
そんな所に、僅かな手勢を率いただけで上洛してみろ、手柄を焦った者が我先に駆け付け、俺を討ち取るだろう。
戦国大名の首を獲ったら大手柄だろうしな。
それに上洛するからには手ぶらでは向かえない。
それなりの財物と共に行く事になる。
正に、鴨ネギ、状態なのだ。
更に今ひとつの懸念材料が、そもそも、畿内は魔窟と言われて久しい土地である事だ。
群雄割拠の枚挙に暇がない武家に加え、本願寺、比叡山、高野山ならびに興福寺などの武装宗教勢力が存在する。
和泉には堺という戦国大名をはねのける程の、自衛能力を有する商業都市が興っていた。
京の都はその中心地。
敢えて某ゲームで例えるならば、悪の魔術師が引き篭もるダンジョンの最下層と言った所である。
さしずめ、京都人はグレーターデーモンだな。
京言葉と言う名の、魂すら凍てつかせる極寒呪文をひっきりなしに詠唱するからな。
但し、魔法が一切効かず、倒しても経験値が僅かにしか貰えない、極悪仕様のな。
その京都人だが、現代でも目の前にいる相手を褒め称えながら呪い殺す、と耳にした事があった。
その時の例えが、
「隣人に”バイオリン上手になったなぁ”って言われたら、自分、どない思う?」
「えっ!? 褒めてもらって嬉しい、かな?」
「せやな。それが普通やな。せやけどな、京都人が言った場合はな”五月蝿いからやめろ! いい加減にせんと呪い殺すぞ、ボケ! ”って言う事なんやで?」
「えっ……」
「それをニッコニコ笑って言うんやで」
「うわぁ……」
である。
そんな人種が数多巣食う場所に行け、と?
断じて否、である。
間違いなく俺の心は病んでしまうだろうからな。
だからこそ、俺は畿内に進出するのを厭うのだ。
それにだ、畿内に兵を率いて入る、侵攻するならば、後背の憂いを取り除いてからだ。
主に、歴史的にもすぐ裏切る武田とか、武田とか、武田とかを、だな。
もっとも、今はその時ではない。
そもそも、”攻めてきた敵をねじ伏せ、従える”が俺の必勝パターンなのだから。
と言う事を、本心をオブラートに包みつつ家老衆に説いてみたのだが、
「信行様!」
津々木蔵人が再三再四、俺に上洛を勧める。
「蔵人、何故か?」
「はっ! 信行様が望まれる”天下治平”においては、またとない好機。天子様より真の権威を頂戴出来うるなれば、世の弱小大名、国人衆は皆、近づくだけで靡きましょうぞ」
その言葉に、俺はハッとした。
(そう、確かにその通りだ。俺がこの戦国時代を生き延び、且つ天下を一日も早く太平に治めるには武力だけではなく、権威も必要だ)
ふと見ると、俺の前には薄く笑う美丈夫、津々木蔵人がいた。
(流石だな津々木蔵人、俺の望みをよく知る者よ。だが……何だか、お市と夫婦になってから腹黒さが増した様な気もする……)
「ふむ、確かにな」
俺は腕を組み、首肯した。
その上で、
「他には?」
別の者にも意見を募る。
次に声を発したのは、
「拙者も行くべきかと存じまする」
前田利益。
故実を嗜む歌舞伎者であり、今や森可成や柴田勝家と並ぶ勇将の一人であった。
体躯が俺とそう変わらないにもかかわらず、六尺を優に越す力士を放り投げる。
槍捌きも”場所を選ばず”一流らしい。
「その心は?」
「前々から京の都には一度行きたかったでござる」
(観光かよ!)
俺は思わず、脇息についていた肘をこかしてしまう。
だが待てよ。
確かに観光するのも一興だ。
未だ戦火に見舞われていない重要文化財があるのだから。
(み、見たい……。許されるならば清水寺に泊まってみたい)
ただし、我が身の安全を確保出来るのならば、な。
それに、優秀なる部下の望みを叶えてやるのも良き上司の務め。
決して迎合している訳ではない。
その後、他の者の意見「お艶と彦らに都の反物で拵えた、侍装束を買ってやりたい」、「信行様が那古野を離れられる間は、不可解な仕事を丸投げされずに済む(意訳)」等も踏まえ、俺は一定の結論をみた。
「……良かろう。前向きに検討しようではないか。もっとも、幾つかの条件を六角等と詰めねばなるまいがな」
引き連れる兵数、京の都に滞在する期間に必要となる糧食と宿泊施設、それから、いざという時の逃げ道、”道路”を京の都まで伸ばしてよいか、とかをな。
あとは、
「それに、細川晴元殿に京の話を伺おう。都における伝の件もあるでな」
である。
尚、細川晴元は堺から佐治水軍の船に乗り、人知れず那古野に亡命していた。
無論、手引きをしたのは娘婿である飯尾定宗。
加担したのは勇猛果敢な将である多田野又左衞門、智謀の深さ類稀な多田野半兵衛、兵法無双と思わしき多田野新介という、浪人にしておくには惜しい人材が率いる一団だったらしい。
(……あれ? 増えてる?)
寺に押し込められていた間は不養生だったのだろう、細川晴元は辿り着いた時には随分と衰弱していた。
今では回復著しいがな。
亡命当初の医者の見立てでは、年を越せるか否か、であったのだがな。
(くさや汁様様だな)
俺はそれらの旨を伝え、一旦散会とした。
細川晴元は共に助け出された息子共々、飯尾定宗の屋敷に逗留していた。
「ここに参ったという事は、上洛を決めたか」
良くなったとはいえ、床離れには至っていない。
時折、激しい咳に襲われるらしい。
その所為で吐くこともあるとか。
故に、側には飯尾定宗が控えていた。
その隣には彼の妻だろう、夏の暑さを少しでも和らげようと、団扇を扇ぎ、風を父である細川晴元に送っている。
この風景を目にすれば、誰もが「ああ、細川晴元はもう終わったのだな」と思うだろう。
だが、それは間違いである。
彼の目は、未だに死んではいない。
朗らかに微笑む、その顔に並んだ二つの双眸が細く線を引いてはいるが、その奥に潜む瞳はギラギラと輝き、俺を凝視している。
全身から迸る気配は未だ、一時は畿内を、いや天下を治めた覇者のソレ、であった。
俺は畏敬の念を込め、答えた。
「はい」
束の間、暫しの沈黙。
蝉の声だけが、耳に届いた。
「一向一揆を煽り、邪魔者を排した。が、自らの内に火種を抱えた。それに酷く煩わされた。それに比べ、お主は上手くやっておる」
「いや、それほどでは……」
「褒めてはおらぬぞ。”遣り様が武家らしくない”と申したのだ」
何と返そうかと思っている最中、細川晴元はホホホッ、と笑った。
「今のは褒めた。ただの武家では、ただの公家では”天下”を治められぬからな」
何か言おうとするも言葉が出ない。
開いた口が塞がらない、とはこのことである。
刹那、細川晴元の纏っていた雰囲気が更に鋭くなった。
いよいよ本題を話し合う頃合いなのだろう。
「さて、信行殿は忙しい身であろう。手短に頼む」
「しからば、京において細川晴元殿の伝を頼りにしたい」
「……なれば伊勢を」
「伊勢、伊勢貞孝を? かの者は三好長慶の腹心、ではございませぬか?」
細川晴元がまたしても、ホホホッと口だけで笑った。
「代々政所執事を担う伊勢が三好めの腹心に成り下がる訳があるまい」
「されど、細川晴元殿の仇ではござらぬか?」
「都にいた嘗ては、な。だが、お主はこの細川晴元を尾張に押し込めた。言うなれば、伊勢にとってお主はこの上ない味方よ」
「……左様で」
答え辛い事、この上ない。
「書状は認めておく。いや、書かせて頂こう、信行殿」
「大変ありがたく」
すると、細川晴元は朗らかな笑みを消し、細い目を開き、言った。
「何、お主の為だけにするのではない。後に続く京兆家の為よ。那古野の地に根付くであろう、細川京兆家のな。そしていずれ細川は捲土重来し、京で大輪を咲かせる」
細川はまだまだ終わらぬ。
この日、細川晴元の目は一度も、真の意味で笑いはしなかった。
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