第三章 変態×アキバ=奇想天外
第三章 変態×アキバ=奇想天外
【雨音朱翼パート】
その日の帰り道は雨だった。
雨粒は私の熱くなった心を冷ましてくれるし、頬を撫でる涙も誤摩化してくれる。泣き虫な私は自分の涙を誤摩化す為に、雨の日はわざと雨に打たれたりした。
私はそんな雨が嫌いじゃなかった。
「……ただいま」
大きな扉を開けると振り子時計が飛び込んでくる。いつもよりほんの少し遅い帰宅。つい色々悩んじゃって足取りが重くなったのかも。……あんなバカ変態のせいで悩む私は何!? 気にしなければ良いのに…………何で気にしちゃうのかな?
「朱翼————今日は何の日だ?」
太くて低い声。無数の倍音と共に無駄に広い廊下へ残響が残る。
奥の部屋から現れたのは————私の父だ。
「お父様のレッスンの日、です」
「お前は俺のレッスンだと云うのにウォーミングアップもせず臨むつもりか?」
元ヴァイオリニストの父——雨音源三郎によるヴァイオリンのレッスンは決まって夕食前。何でも食事をした後だと良い音が出ないらしい。午後六時半の今からではレッスン前に自主練する猶予はない。
————チッ
私は心の中で舌打ちした。
「……今日は、ちょっと部活で揉め事して…………」
「朱翼、まさかまだあの下らない部活をやっているのか? あの芸術性の無いな量産音楽の作曲とやらを活動目標にした。」
「………………」
——イライラしてる私の心に油を注ぐなよ、クソ親父。
「椿は成績も優秀でコンクールでもそこそこの功績を残していたから部活動を認めていたが……お前にはそんな余裕ないだろう? 今は家ではヴァイオリンの稽古、学校では作曲理論。これがお前の進みたい道へ進む為の最も適した手段だ。今は無心でこれをやれ」
何この人。私の進みたい道?
大して自分の娘の話も聞かない親父が、親ぶってんじゃねえよ!
…………——っと言いたいが、そんな事言える筈もなく、
「……申し訳ありません」
そんな風に返すしか私には出来なかった。
「まあいい。今日は母さんに頼んで少し夕食を遅らせてもらう。さっさと音出しして、七時半になったらレッスン室に来い。部活も今月中には退部しておけよ」
「………………」
私は下を向いたまま何も言えなかった。だが父は自分の言葉だけ一方的にぶつけると、私の返事を待たず立ち去るのだった。
「あぁ、そういえば」
扉の前まで行くと父は何か思い出した様にそう言った。
「あの西園寺先生が近いうちにお前にレッスンをしてくれると仰っていたぞ。良かったな」
「……そう」
西園寺先生。父が現役時代ヨーロッパの同じオーケストラで演奏していた同僚らしい。子供の頃一度だけレッスン見学に行ったけど正直良いイメージは残っていなかった。
それだけ言い終わると父は廊下を抜けた。
父が閉じた扉の音と同時に髪の毛からぽつり、と雫が落ちた。
「くちゅん!」
そうだ、私、濡れて帰って来たんだ。
親なのに、風邪引くぞとかそんな心配よりもレッスンなんだね、私の父親は。
私は鞄からタオルを出して、長い髪から無造作に水気を取る。
「クラシック音楽なんか……大嫌い」
くしゃくしゃの髪型になった私は、誰に聞かせる為でもなく小声でそう囁いた。
*
私の家は音楽一家だ。
父は元ヴァイオリニスト、母は元ピアニスト。二人とも今は後進の育成に取り組んでいる。父方の祖父母も元音楽家だ。親戚も音楽家だらけ。
そんな家庭に生まれた私とお姉ちゃんの椿も当然の如く文字を読むより早く楽譜を読める様になった。
椿はピアニスト——私はヴァイオリニスト
——それが私達姉妹へ押し付けられた将来の夢
私達がプロの音楽家になる事は生まれた時に決まっていた。
高校を八芸の作曲専攻にしたのも全て両親の決定だ。
何でも優れたプレイヤーは曲の構造を正確に理解出来るらしい。私には良く分からないがお姉ちゃんはそれに共感していたからそうなのかもしれない。
だから高校では作曲専攻で作曲の理論を学んで大学ではヴァイオリンで入れと言われた。確かにヴァイオリンは家で父がレッスンするのだからわざわざ高校で学ぶ必用も無いのかも。私もお姉ちゃんも一切反論せずそれに従った。
姉の椿は母の指導、そして妹の私は父の指導の元で幼い頃から血の滲む様なレッスンを重ねた。
両親はとても厳しいが、同じ厳しいでも傾向がちょっと違う。
母はとても淡白で出来なければ「そこ出来てないね」と言うだけ。無言の圧力ってのだろうか。何も言わないし、言ってくれない。
対する父はとても厳格で一つでもミスをすれば容赦なく手が飛んでくる。そんな父の元幼い頃から歌を学ぶ私は練習に手を抜く事は許されなかった。
けど姉は元々能天気でやんちゃな事と母が練習しなくても何も言わない事が重なり、練習をさぼり、レッスンを抜け出しては一人で遊んでいた。時には真面目に練習しているかと見せかけて、テレビCMや流行のJPOPをピアノで弾いたりしていた。
それにお姉ちゃんには才能もあった。
真面目に練習してないのに幼い頃からコンクールの成績は良かった。
対する私はどんなにどんなに練習しても——結果はいまいちだった。
リビングに飾られたトロフィーや盾に刻まれた名前の殆どは『雨宮椿』
お姉ちゃんは順調にピアニストへの階段を上り始めていた。
だけど、私はそんな姉に嫉妬したりは無かった。寧ろ大好きだった。
——お姉ちゃんは練習以外する事の無い私を、いつも楽しい遊びに連れ出してくれたのだから。
初めて公園で缶けりしたのもお姉ちゃんと
初めて花火大会に行ったのもお姉ちゃんと
初めて虫取りしたのもお姉ちゃんと
初めて雪合戦したのもお姉ちゃんと
お姉ちゃんはいつもいつも私に楽しい事を教えてくれた。
才能があるのにそれに驕らず、寧ろそんな事気にしようともしなかった。
もしお姉ちゃんが輝みたいな自分の才能と実力に驕って上から目線でもの言う奴だったら絶対仲良くなんかなってなかっただろうし。
私の幸せはいつもお姉ちゃんがくれたんだ。
——初めてボカロを聞いたのもお姉ちゃんが聞かせてくれたからだ。
高校に入学するや否や部活を新設しようと言われた。
大人気のボカロPになって日本中の人気者になろうと言われた。
もう何がなんだか分からない。めちゃくちゃだ。
けど……そんなお姉ちゃんのめちゃくちゃに付き合うのが私は大好きだった。
しかし天はそんなお姉ちゃんから——音楽を奪った。