プロローグ
●
「さて、いったいどこまでが君の計画なのかな」
王太子殿下はいつも通りの完璧な笑顔を崩さない。まあ、笑顔を貼り付けているのはわたしも同じだ。
「まあ、なんのことでしょう。今回のことは、わたしの無知が引き起こしたことですわ」
視線に火花が散って、あたりの空気が冷たくなった。
この国の王太子殿下と、このような腹の探り合いをすることになるなんて。屋敷に閉じ込められていた頃のわたしが知ったら、嘘だと信じてくれなさそう。
――それもこれも、あの日、使用人たちから勝手に離れて、街へ飛び出したことから始まったこと。
煤色の髪の彼を思い出して、敵前ながら、わたしは不敵に笑みをこぼすのだった。
……
…………
………………
十歳の時、屋敷の本棚を見上げて思ったことがある。――わたしは、この本たちを読み終わったとき、どうなっているのだろう、と。
それから六年。十六歳になったわたしから、十歳のわたしへ伝えたいことがある。
――どうにもなっていない。あなたは、なにも変わっていないよ。
最後の一冊をパタン、と閉じて、わたしは息をついた。
ああ、読み終わってしまった。重苦しさが胸にのしかかる。
十一歳の時、一冊読むのに一週間かけるようにした。十二歳の時、一冊を三回読み直すようにした。それでもついに、屋敷の本をすべて読んでしまった。
胸にぽっかりと穴が開いたような心地のまま、天井を見上げて、ぼうっとする。
しばらくしてから、図書室の扉が鳴って、侍女に声を掛けられた。
「オリヴィア様。ご夕食の準備が整いました。部屋へお戻りください」
「……ええ、わかったわ。呼んでくれてありがとう」
侍女に微笑むけれど、返ってくるのは、いつも通りの冷ややかで凪いだ表情。そんな顔を見ても、胸が痛くなくなったのはいつからだっただろうか。
自室に戻ると、いつも使っている一人用のテーブルに美味しそうな料理が並べられている。今日のメインは魚のソテーみたいだ。
「それでは、失礼いたします」
「準備ありがとう。食べ終わったら、ベルを鳴らすから」
侍女は頷いて、退室する。
しん、と静寂が漂って、ひとりきりの夕食が始まる。コースの順番を無視してメインの魚のソテーから食べた。どこからもたしなめられる声はなく、今日のご飯も、味気なかった。
湯浴みを終えた後、寝台に横になって天井を見上げる。今日も、何もなかった。
そしてついには、屋敷の蔵書を読み尽くしてしまい、わたしの趣味である読書も、意味のないものへと変わってしまった。いっそ全部読み直そうか、とも考えた。けれど、それもいつかは終わってしまう。
――退屈だ。
屋敷の中だけだとやることがない。新鮮さがない。とても空虚だ。
……新鮮さ。
その言葉が頭に残って、ふと、夕食のデザートを思い出した。
今日は屋敷で作ったものではなく、街で買ってきたプリンと言っていたような。
……街。…………街?
「――そうじゃない!」
わたしは勢いよく飛び起きた。思いついたひらめきに、心臓が速まっていくのを感じる。
街だ。屋敷の外に行けばいいんだ。
十歳のあの日、お父様に外に出るなと言われたけれど、そんなこと守っている暇はない!
このままだと、わたしは退屈で死んでしまうのだから!
そう思えば一直線だった。
本を読んで身についた語彙力を活かし、街の製菓店のお菓子が食べたいと家令を言いくるめ、わたしは買い出しの侍従たちについて行くことに成功した。
天気は快晴で、目に入る光がまぶしかった。
ストレン通り広場について、馬車から降りる。馬車に乗り降りすること自体がとても久しぶりだ。地面に足をついて、ぶわりと、わたしの胸は飛び上がった。
屋敷の庭ではなく、舗装された広い道があって、沢山の建物がある。
あれはなんだろう、これはなんだろう。侍従に質問したくて仕方がなかった。
そうしてついに、わたしの好奇心は耐えきれなくなった。
侍従の制止を振り切って、思い切り駆け出した。
目についたものに立ち止まって、また見つけたものに向かって走り出す。そんなことを何回も繰り返した。
けれど、普段は屋敷の中しか歩いていない人間が、急に何千歩と歩けば、足が棒になるのは当然のこと。
「はあ、はあ」と息が上がり、パンプスの爪先が痛みだしてからようやく、わたしは周りを見ることを思い出した。
建物と建物の間にいる自分がひどく小さな存在に思えた。見上げた空が、遠くて遠くて、ジャンプをしても手が届かないと思えるのだから、わたしが小さくなってしまったと思うのも仕方がないと思う。
周りをよく見れば、この道は狭い。わたしの着ているワンピースで幅の三分の一を取ってしまっている。さっきいた広場と違って、道の舗装は雑で隙間から草が生えてしまっていて、いわゆる、路地と言うやつではないかと思い至った。
……わたしはいったい、どこへ来てしまったというのだろう。
そう思うと、ヒヤリと、お腹の底が冷ややかな心地になった。
早く侍従たちのもとに戻らなくては、と思ったとき。ふっ、と、わたしの頭上にふたつの影が落ちた。見上げるとそこには男が二人。
男たちは、なんだかじっとりとした視線で、口角を上げている。それは笑顔なのだろう。けれど、心がざわついて落ち着かないものだった。思わず、胸の前で手を組んでしまうほど。
「……嬢ちゃん、どうしたんだい。迷子になったんか?」
「いいえ、迷子ではないわ。ずっと走っていたら、ここに辿り着いただけよ」
「じゃあ、どこに行ったら一緒にいた奴に会えるか知ってるか? それがわからないんなら、嬢ちゃんは迷子だろうよ」
わたしは唸った。前を見ても後ろを見ても、どこが馬車がいた道なのか見当もつかなかったから。
「……わからないわ。わたしって迷子だったのね」
そう言うと、男たちは大声で笑いだした。――明らかに、わたしを馬鹿にしている。
「とんだ箱入りだなぁ! おれたちは知ってるぜ。案内してやろうか」
「……それは助かるわ」
わたしはぎごちなく笑って、お礼を伝えた。不快な相手だとしても、助けてくれるかもしれない相手には、誠意をもって相手をしなさいと昔に教わったから。
「――おっと待ちな。おれたちにも後があるんだ。嬢ちゃんを置いて行ってもいいくらい、大事な用事がな。けどそれを後回してもいいくらい、嬢ちゃんを助けたい気持ちもあるんだ」
男性のひとりが、ずいっと迫ってきた。もうひとりは、いつの間にか私の背後にいる。
「前払いで嬢ちゃんが何かくれるんだったら、考えてやるよ」
なるほど、なるほど。わたしは頭の中で腕を組んだ。
要するに、彼らは道案内の報酬を求めているのだ。
けれど生憎、わたしのお金は家令が管理しているから手元にはない。身に着けている現品をあげるのも手だが、今日はネックレスも髪飾りも着けていなかった。
「……わたし、報酬になるような金品を持っていないわ。後払いじゃダメかしら」
「そりゃねぇぜ、お嬢ちゃん。その服のレース一片だけでも、おれらからしたら価値があるもんさ」
「おうさ。そのピッカピカの靴でもいいな」
言っていることがめちゃくちゃで、頬が引き攣ってしまう。
――もしかして、いえ、もしかしなくても。
わたしは、会ってはいけない人達に出会ってしまったのだろうか。
「……えっと……このボレロで……十分ということかしら……?」
羽織っていたレースのボレロを手早く脱いで、わたしは彼らへと差し出した。
なんだか力が入らなくなって伸ばした腕が震えてしまう。不安がどんどん心に染み込んでいって、視界が滲んでしまう。
――それがいけなかったのだろう。
彼らは強引に詰め寄って来て、わたしの腕を強く掴んだ。口から悲鳴がこぼれ落ちる。
「おいおい、これじゃあ足りねぇなあ!」
さっきはレース一片でいいと言ったのに!
「やめて、離して! 痛いわ……!」
そう言っても彼らは離してくれないし、掴む力はどんどん強くなっている気がする。
お願いをしても聞き入れてくれない相手がいるなんて。わたしからすればそれは、今までの常識が塗り替えられるような衝撃だった。
自分の命が危険に晒されている恐ろしさを知って、目の前が真っ暗になった――けれど突然、彼らの背後から、この場に似合わない明るい声が響く。
「あー! こんな所にいたんですね!」
煤色の髪を持つ青年は、男達の間をするりと避けて、わたしの手を取った。腕を掴まれていたのも解けている。
「さあ、行きましょう!」
そう言って青年は、わたしを引っ張って走り出した。
突然のことに驚くばかりだが、わたしは縋るようにその手をぎゅっと握って足を動かす。
男達は、青年の大きな声に驚いて、一歩も動かずにただわたしたちを見送っていた。
助けてくれた彼の考えは分からない。けれど、路地から連れ出してくれたこの薄汚れた青年は、物語の主人公のように輝いて見えた。
たくさん走ってようやく、噴水のある広場の近くの物陰で青年は足を止めた。彼はきょろきょろと周りの様子を伺ってから、手を離してわたしを見据える。
わたしも、ちゃんと彼の姿を知ることができた。
煤色の髪の毛に、暗い赤の瞳。よく見ると、歳は同じくらいかもしれない。
……やっぱり、顔を見ても知らない人だ。まるで知り合いのように声を掛けられたけれど、それは演技だったということ。
「――まったく、貴族のお姫様があんな所にいちゃだめだろ」
先ほどとは違う、荒っぽい言葉遣いに、わたしはパチリと目を瞬いた。
「……助けてくれてありがとう、優しいのね」
様子の違いに少し驚いたもの、わたしは微笑んでお礼を伝える。けれど彼は、はっ、と息をついて苛立っていた。
「そんなわけないだろ。貴族様を傷物にしたことがバレてあの男たちが殺されたら、この区域の人間が悪い、治安が悪いってことになる。そういう、とばっちりは御免なんだよ」
彼は腕を組みながら指先をトントンと動かして、見るからに不満をこぼしている。圧のある様子は少し気後れするけれど、助けられた理由を聞いて、わたしは彼のことが信用できると思った。より感謝の気持ちが深まっていく。
「それでも助けてくれた事実は変わらないわ。ありがとうございました」
わたしはそう言って、スカートの裾を持ち上げてお辞儀をした。
彼は、わたしのお辞儀に首を傾げていたが、感謝していることは伝わったみたいだ。
「……そんなに言うんだったら、俺に礼の一つや二つあってもいいんじゃないか?」
気を良くしたのか、彼はニヤリとした笑みを浮かべる。けれどわたしは、
「もちろんよ! あなたは命の恩人なんだから!」
ずいっと、彼に詰め寄った。お礼は当然のことだし、贈らなくては気が済まないと思う自分がいる。
「ボレロでも、パンプスでも、馬車まで戻れるなら金貨を用意するわ!」
「きっ……!?」
彼の目が、ぐわっと大きく開いた。流石に、驚きすぎではないか、とわたしは首を傾げる。
「あんた、金勘定を知らないのか!?」
「それくらいのことをしてくれたのよ」
ニコリと笑いかけるが、彼はわなわなと震えて頬は引き攣っていた。
「ああ、そう言えば、自己紹介をしていなかったわね。わたしはオリヴィア・フォックス。あなたのお名前は?」
「フォックス……だとぉ!?」
首を傾げて返事を待つが、一向に言葉は帰ってこない。「ねえ」と言って促しても、彼は口を開こうとせず、なぜかじりじりと後ずさりしていた。
「――そんな天上の方と関係を持つなんて、恐ろしくて御免だね! 名乗る名前なんかねぇよ!」
彼は、振り返りもせずに走り去ってしまう。けれど、足が棒になっていたわたしに追いつく術がなかった。
けれど、わたしの頭にはしっかりと彼の人相が焼き付いている。
お礼を渡したいし、また会って話したいとも思った。
彼を、探さなくては……!
●
そうして、わたしは彼を探そうとした。
こういう人探しは、人に頼るのがいいというが、あいにく、わたしには事情があって家の諜報員を使うことができない。
再び街に繰り出して彼を探すのが一番だと思い、わたしはさっそく、その日のうちに、お父様に外出許可を取ろうとした。
お父様が帰宅されていることを確認して、執務室の扉をノックする。
許可を出されて入室すると、書類に目を向けたままのお父様と、わたしを見て驚く秘書がいた。
「突然ごめんなさい。お父様に、お願いがあって参りました」
「……なんだ。なにか欲しいなら家令に伝えなさい」
お父様は手に持った紙に集中したまま、わたしを冷たくあしらった。それでも声が震えないよう、わたしは口を開いた。
「――城下街への外出許可を、いただきたいのです」
わたしが、一言一言、確かめるようにいうと、お父様はようやく顔を上げた。
その目線は冷ややかで、少し体が強張ってしまう。横にいる秘書が、心配そうな表情をしていた。
「……お父様のご意向で、侍従たちは、わたしのことを大切に育ててくれました。ですがそろそろ、見分を広めたいと思っているのです。……なにか不都合がありますか?」
わたしは皮肉をたっぷり込めて、にっこりとそう伝える。
それでも、父の冷酷な瞳が揺らぐことはなかった。
諜報員が使えない事情とは、わたしが不義の子であるからだ。
侍女である母に手を出して生まれたわたしを、貴族の娘として育ててくれた、慈悲深いお父様。けれどあなたは、この十六年を家族としては接してくれなかった。
それどころか、令嬢教育をしてくれたのは十歳の時の一年だけ。そんな中途半端な令嬢もどきのわたしをプレ・デビュタントに送り込んで、一応の体裁を守ったあなたは、伯爵令嬢としてのわたしを求めていないのでしょう。
「市井に出れば、こんなわたしでも役立てることがあるかもしれません。もちろん、この家に迷惑をかけませんから」
それでも頭を下げて、じっと返事を待った。
まるでわたしが悪いような様子だけど、外に出て自由になるには、こうするしかない。
どうしてこんなにも駆り立てられるのかは、まだ自分でもわからないけれど。
きっと、あの彼に会えたらわかる気がするから。
「――これからは逐一外出許可を取りに来なくていい。進路が決まったら報告に来なさい」
平坦な声色でお父様はそう言って、再び、手元の書類に目を向ける。
わたしは感謝を述べてから、執務室を後にした。
あっさりと認められたことに、嬉しいはずなのに胸が苦しい。
侍女も護衛もつけてくれないなんて。お父様は、やはりわたしのことをなんとも思っていないのだろう。その事実に、打ちのめされる心地だった。
けれど、そんな気持ちを振り払うようにわたしは駆け出した。
助けてくれた彼を、探す準備を始めなくてはいけない。
彼と出会って感じた光を確かめないと、わたしはきっと前には進めないのだろう。
……
…………
………………
「ねえ、ばあや。髪の毛はどう? 上手に括れている?」
鏡の前でそう言うと、後ろから和やかな声が飛んできた。
許可を取った次の日。わたしは街へ出かける準備をしていた。
「ええ、とても綺麗なひとつ結びです。オリヴィアさまの快活さが表れていて、素敵ですよ」
柔らかな笑顔で褒められて、頬が緩んだ。
彼女はフォックス邸の侍女長であるイリヤ。経験の積まれた白髪を綺麗にまとめ上げて、ピンと立った背筋が屋敷で一番美しい人だ。
イリヤは、不義の子であるわたしをずっと見守ってくれている唯一の存在。最低限の食事だけ与えられて、放っておかれていたわたしに、イリヤは走り回って遊ぶ楽しさや、焼き立てのお菓子の美味しさを教えてくれた。
イリヤはお父様が当主になる前、わたしのおじい様の代からこの屋敷で働いている。
だからお父様はイリヤがわたしに良くすることを強くは言えないし、他の侍従もわたしに大きく出られないのだろう。
そんな彼女を、わたしは「ばあや」と呼んで慕っている。
「まったく、旦那さまは何をお考えなんでしょう。いきなり市井に出して、職を探させるなんて!」
「ばあや。それは、わたしからお願いしたって言ったでしょう?」
「一言返事で許可を出すのが、お優しくないということです!」
イリヤは眉を顰めて苛立っていて、わたしよりも感情的になっている。嬉しくもあるが、彼女の立場が心配だ。
「ちょ、ちょっと。大きい声よ、誰かに聞かれるわ」
「いいんですよ! 私はオリヴィアさまの味方ですから!」
その言葉に胸が温かくなって、止める気持ちが収まってしまった。
「……ああ、私も一緒について行きたいです。心配ですわ……」
頬に手を当てて、イリヤは心配そうにぼやく。
「イリヤは侍女長なんだから、仕方ないわ。どうか、応援してちょうだい」
わたしはイリヤの両手を握って、にこりと微笑んだ。
彼女に大切に守ってもらってきたという自覚がある分、わたしも少しばかり、イリヤを連れて一緒に行けないのが心苦しい。
けれど、彼女自身も、わたしが屋敷に籠りきりなのはいけないと感じていたはずだ。
「……屋敷から無事を祈っております。くれぐれも! 知らない人について行ったり、気になるからと路地に入ってはいけませんよ!」
イリヤの勢いに思わずたじろぐ。
「あはは……わかっているわ……」
そう言うけれど、心の中で、イリヤに謝罪する。
ついこの間、路地で暴漢に襲われたし、今日は助けてくれた知らない人をわたしは探しに行くのだ。すでに約束を破ってしまっている。もしバレたら、大目玉は確定だ。……隠し通そうと覚悟を決めた。
家令から渡された、わたしが使っていいお金……言ってしまえば、わたしの養育費を少しだけ持って、門の前に立つ。
後ろには、見送りに来てくれたイリヤだけ。侍女も護衛もつかずに、歩いて城下まで向かう。ここから街までどれくらいかかるのか不安になるけれど、深呼吸をして気合を入れた。
「……それじゃあ、いってきます!」
門が開かれて一歩を踏み出す。履いているブーツは、あの日のパンプスよりも、どこまでも歩いて行けそうだった。
市井に出て、わたしがこれからどうなるのかはわからないけれど、まずは、あの日の彼にお礼をしに行かなくては!
●
話相手のいない一人歩きは、想像よりもずっと長かった。
ゆったりと歩き続けてようやく、 わたしは、富裕層向けの店が立ち並ぶストレン通りにたどり着く。
前回は、この場所で心が浮かれてしまって。
わたしは走り出して、侍従達から離れてしまったのだ。
ここから足が痛くなるほど歩いたとなれば、王都のさらに外側の平民街と呼ばれる区域に入っていたのだろう。王都の地図を広げて、唸りながらわたしは考えた。
ふいに視線を感じて地図から顔を上げると、着飾った美しい姿の令嬢が、わたしのことを、ちらりと扇子越しに見ていた。さらに周りを見渡すと、ちらちらと見てくる人が多数。
どうしたのだろうかと考えて、わたしは今の自分の姿を思い出した。
今のわたしは、動きやすさと街に溶け込むことを考えた麻のワンピースを着ていて、その手には地図を持っている。どこから見ても、富裕層エリアに迷い込んでしまった田舎の娘だった。
そう思い至ると、途端に、この場から離れたい衝動に駆られる。地図を鞄にしまい込んで、そそくさとその場を後にした。
足を動かし続けて息が上がってくると、先ほどまでの華やかな雰囲気の場所から、雑多で賑やかな雰囲気の場所に変化した。ストレン通りから地続きのアトレ通りにたどり着けたのだろう。
息を整えようと通りの端っこに移動して、わたしは深呼吸をした。
貴族街は二階までの作りが多かったが、この辺りはまちまちだ。それにこの通りでは、外に店を構えるらしい。雑貨や装飾だけでなく、食べ物が売られていて、色々な匂いが混ざり合って辺りを漂っていた。
知らない光景に、わたしの胸はドキドキしている。
お店を見物したいなと思ったものの、通りは人が右左一気に動いていくものだから、どうやって行けばいいのかわからなかった。それに、なんだか人通りが増えているように思う。
人混みをかき分けるより、路地を進んだ方が早い気がした。それに、彼と出会ったのも路地だったことを思い出す。二度目の偶然を願って、わたしは狭い路地を進んだ。
進んだ路地は思っていた以上に入り組んでいた。同じような景色が続いていて、今自分がどこから来たのかさえあやふやだ。おまけに、こういった道は地図に載っていないから、わたしは、路地そのものから出られるのか不安になっていく。
俯いてしまいたくなるような状況だけど、わたしは空を見た。澄み渡った晴天に、心まで洗われていく心地になった――瞬間、視界に黒い何かが横切った。
鳥にしては大きい何かが視界を通り過ぎて、自分の後ろから落ちるような音がする。
そちらへ視線を向けると、
「あっ」
「ん?」
「あぁ~!?」
お互いに目が合った。
そしてわたしは、指を突き出して大声を上げてしまう。
わたしの後ろに、昨日助けてくれた彼がいたからだ。
煤色のやや長い髪に、暗い赤の瞳と細身の体躯。間違いなく、助けてくれたその人だった。
落ちるような音は、彼が着地した音。でも、さっき彼は空を横切ったから……建物の屋根上にいたということで……。
再び会えた喜びに突然現れたことによる驚き、屋根上にいた謎と、頭がぐるぐると混乱していたが、口の方が先に動いていた。
「あなた昨日の人よね! わたしを助けてくれた! よかったお礼を渡したかったの!」
捲し立てながら詰め寄って、わたしは彼の手を取った。彼の目が大きく見開かれているけれど、前回のように逃げられては困るから、構わずその手をぎゅっと握る。
すると、彼は口元を引き攣らせた。
「思い出した……あんた昨日の貴族だな。なんでまたこんなところに……」
「あなたに、お礼を渡したかったの!」
何度でも伝わるように言葉を重ねる。それでも、彼は怪訝そうな表情のままだ。
「あなたは命の恩人なのよ。だから、受け取ってくれるまで、この手を離さないわ!」
「いらねぇって! ……こんだけ言ってんだから諦めろよ」
腕を強く振り払われてしまい、冷ややかな目線を向けられる。
突き放されてひるんでしまうけれど、諦めたくないと思う自分がいた。
その理由は言葉にできなくて、けれど負けたくなくて、わたしは彼の目をじっと見つめ返した。
「……なんなんだよ、あんた……」
彼は苛立つように顔を反らして、そのまま立ち去ろうとする。わたしは追いかけようとするけれど、彼は平屋の窓や柱といった小さな取っ掛かりを器用に使って、ひょいっと屋根上に飛び乗ってしまった。あまりの素早い身のこなしに、ぽかんとすぐに反応できない。
「……えっ、えぇ!?」
驚くわたしを見下ろした後、彼はそのまま行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
大きな声で呼びかけてもあたりに響くだけで、しばらく、その場に立ち尽くしてしまった。失敗してしまった事実に、胸がずんと沈んでいく心地になる。
――けれど、まだ終わっていない。
わたしは彼が行ってしまった屋根上をキッと見つめて、こぶしを握った。
偶然は、きっと何度も起こらない。せっかく再会できたチャンスをここで逃すわけにはいかなかった。
わたしは、先ほどの彼の動きを思い出して、ふんと気合を入れる。まず柱を掴みながら窓に片足を掛ける。次に、さらに上の出っ張りに手を掛けて、えいやと登った。
あとちょっとで屋根上……というところで、ガクンと体が言う事を聞かなくなる。
えっ、と思う間に、頭が弧を描いて、体がゆっくりと落ちていく。
――あのときも、こうだった。
枝が折れて、空が遠くなって。
地面に叩きつけられた痛みより、見上げた先にあった、父の顔が忘れられない。
……失望された、冷たい視線。
また、誰も来ない。
わたしが望む人は、来てくれない。
じわりと滲んだ悲しみを抱えて、ぎゅっと目を瞑って衝撃に備えた。
……けれど、待てども一向に痛みは来なかった。
それどころか、何かあたたかいものに、支えられているような感覚がする。わたしは、おそるおそる目を開いた。
眼前に映るのは人の顔。先に行ってしまったはずの彼が、落ちたわたしを抱き留めてくれていた。
「……あっぶな……! なにしてんだよ、あんた……!」
彼は焦っていた。目は見開いているし、呼吸は少し荒い。
その様子に、わたしは目が離せなくなってしまう。
どうして助けてくれたのか、どうしてそんなに焦っているのか。ひとつの予感に、わたしの心臓は今更速まる。
「……どうして、そんなに焦っているの……?」
「はあ? 人が落ちたら、そりゃ焦るだろ」
「……それって……心配してくれた、ってこと……?」
彼は怪訝な顔をするけれど、わたしは、答えを求めるようにじっと見つめた。
「……一応、様子を見に来たら、登ろうとしてるなんて思わなかった。貴族のお姫様の転落死体とか、笑えないだろ」
ぶっきらぼうな物言いだけど、それには、しっかりとした心配が含まれている。
じわじわと胸に熱が溢れていって、なんだか無性に泣きそうな心地だった。
「……ありがとう。また、助けられちゃったわね」
「うわ、そうじゃねぇか……なに助けてんだよ、おれ……っ」
彼はそう言って、わたしを地面に立たせて、距離を取った。
屋根上はだめだと思ったのか、周囲を見渡してから、逃げるように走り出そうとする。けれど、その逃走路に、小さな子供が現れて妨害された。
「――レオ、みーつけた!」
「やっとみつかった~! 今日は屋根上にいないんだね」
「このおねえちゃん、だれ~?」
いつの間にか、わたしの背後にも五歳くらいの子どもたちが現れて、彼は前にも後ろにも逃げられなくなっていた。
レオという彼は、最悪だというように額に手を当てる。
こうしてわたしは、意外な形で彼を引き留め、名前まで知ることに成功した。
●
彼の名前はレオ。
みんなの『お兄ちゃん』で、遊んだり、面倒を見てくれる存在だと、子どもたちは嬉々として教えてくれた。
かくれんぼのスタート地点である、ファミン区域の公園に戻る道中、子どもたちは気兼ねなく話しかけてきてくれる。
子どもと話す機会なんて、今までほとんどなかったけれど、この子たちの純粋な様子に、わたしの緊張はすぐに解けた。
「みんなは、かくれんぼをしていたの?」
「そうだよ! 最後はみんなでレオを探すの」
「屋根上に隠れるし、移動するから、レオはかくれんぼのラスボスなんだよ」
相槌を打ちながら、ちらりとレオを見ると、彼は彼で、子ども達から囲まれながら話していた。
面白い話でもあったのか。彼は、子どもっぽく柔らかな微笑みを浮かべている。その表情が、わたしの頭に焼き付いて、胸がトクンと鳴った気がした。
やっぱり、わたしにとってレオは、特別だと思う。思わず姿を追ってしまうから、表情を観察してしまうから。けれど、その『特別』に名前はまだ付けられなかった。
じろじろ見すぎてしまったのか、レオがこちらを向いた。先ほどまでの微笑みは一瞬で消え去って、ジロリと睨まれてしまう。
「……あんた、なんでついてきてんだよ」
レオは圧のある声で、そう言いのける。けれど、すぐに言い返してくれたのは子ども達だった。
「仲間外れはだめなんだよ、レオ!」
「そーだよ! レオの友達でしょう?」
「違うよ、レオのカノジョだよ!」
「だあぁ! おまえら全員だまれ! 友達でもカノジョでもなんでもねえよ!」
レオは子ども達に囲まれてしまって、わちゃわちゃともつれ合っているが、どこか楽しそうだ。
(……しかし、『友達』かあ……)
心の中で言葉にしても、いまいちピンとこない。
箱入りだったから、友達と言うものがひとりもいない弊害だろうか。
レオは、わたしのことを良く思っていないと思う。先ほども睨まれてしまったし。
……だとしても、関係の改善に、努力しないわけにはいかなかった。
「そうね、レオとは友達じゃないわ。……でも、わたしは友達になりたいと思っているの」
レオを見ると、驚いたように目を丸くさせていた。
改めて言葉にすると少し照れくさいかもしれない。けれど、目標が明確になって、すっきりした心地にもなった。
「ということで、レオ。わたしと友達になって!」
「断る」
拒絶の感情が、レオの顔からありありと伝わってくる。
間髪入れずに断られて、さすがにショックだ……。
「……ど、どうして!?」
「どうしてもねえよ! あんたみたいなトラブルメーカー、友達どころか知り合いにもなりたくないんだが!?」
言われた事実を否定できず、ぐうっと押し黙った。昨日も今日も、レオには巻き込んだ上に助けてもらっている。これ以上の迷惑は、さすがに申し訳ない。
けれど諦められず、どうしようかと考え込んでいると。
「……ねえ、おねえちゃんがかわいそうだよ、レオ……」
「じゃあさ、おれたちが友達になってあげるよ!」
「あたしも、あたしも!」
またしても、子どもたちの無垢な心根に助けられてしまった。
ほっと肩の力が抜けて、わたしは笑うことができた。
「……みんな、ありがとう。改めて、わたしはオリヴィアよ。お友達になってくれるかしら」
子どもたちは口を揃えて「いいよー!」と言ってくれる。そこからは質問攻めだ。何が好きか、と、次々に投げかけられる。
ちらりとレオを見れば、なんだか不機嫌そう。いい気味だ、なんて意地悪な気持ちが湧き上がってきた。
「レオも混ざらないのー?」
「……おれは嫌だからな」
レオは意固地な姿勢を続けている。……そこまで、わたしと友達になるのが嫌なのだろうか。
「オリヴィアに大人げないの、よくないよぉ」
「え! レオは大人じゃないでしょ? ぼくたちと昼間にあそんでくれるもん」
「レオって無職なのー!?」
「おまえら、おれのことバカにしすぎじゃね!?」
気安い仲と言っても、さすがにこれはレオが可哀そうだ……。止めに入ろうか、なんて思ったところで、子どもたちの中でも少し背の高い少年が声を挙げた。
「――レオは何でも屋をしてるんだよ」
「アニスー、なんで知ってるのー?」
「この前、レオがぼくの父さんの店を手伝ってくれたんだ」
くりくりとした明るい茶髪の少年――アニスが話すと子どもたちが一斉に耳を傾けた。レオがお兄さんであれば、彼が年長のまとめ役なんだろう。レオのフォローが板についているように感じた。
「……何でも屋」
「オリヴィアも、なにかあったらレオに頼むと良いよ」
アニスはどこか楽しそうに、そう言って勧めてくる。
何でも屋……依頼……お金……と、考えを繋げていって、わたしはひらめいた。
「そうだわ!」
レオの手を掴んで、彼の目を見る。
我ながらの名案に、少し浮ついた心地のまま、わたしは伝えた。
「レオ、わたしと友達になって! ――これは依頼よ!」
「…………はぁ!?」
レオは声を挙げて仰天した。
「依頼料としてお礼を渡せる。これから、わたしがトラブルメーカーだけじゃないってことを知って欲しい。だから、友達依頼よ!」
これならどうだ! と、わたしはニヤリと笑う。レオは、開いた口が塞がらない様子だった。
「今日はオールバザールだし、オリヴィアのこと、案内してあげなよ、レオ」
「はっ、おま、アニス!?」
「あら。今日はお祭りか何かだったの?」
「そう、そう。人の通りが多いから移動が大変。ひとりよりふたりだね」
「なるほどね。それじゃあ、友達としてオールバザールの案内を依頼するわ!」
アニスの援護に、心の中で感謝する。レオは明らかに動揺していて、もう一押しという感じだ。
「……依頼料。前金でこれくらいはどうかしら」
レオだけに聞こえるように、わたしはぽつりと言って、彼にお金を握らせた。
……まあ、このお金は、わたしの将来の初期費用でもあるが、背に腹は代えられない。定価がどんなものかはわからないけれど、適当に銀貨を五枚渡した。
レオはお金を確認するとじっくり考え込んで、期待に満ちた視線を向ける子どもたちを見る。そして、何度も口を開閉しながら。
「………………わかった」
しぶしぶという様子で了承してくれたのだった。
●




