第二話 東播磨の領主―別所家⑨
その時――
急に場外の空気がさわがしくざわめく。
外から馬のいななき、槍の柄がぶつかる金属音、怒号にも似た叫びが響き渡った。
「……何事だ?」
場が揺らぎ、緊張が走る。
やがて伝令が、土埃にまみれながら広場へ駆けこんできた。
「申し上げます! 織田軍……織田軍が撤退を始めたとのこと!」
「え……?」
「なんだと……?」
桜と長治が顔を見合わせる―。
突如として始まった織田軍の撤退は混乱の色を見せず、逆に驚くほど整然としていた。
槍を林立させ、旗指物を揺らしながら、まるで最初から計画されていたかのように一斉に動き出す。
砂煙が立ちのぼり、ざわめきとともに黒々とした軍勢が遠ざかっていく。
門前でそれを見送る桜と長治は、ただ立ち尽くすしかなかった。
「……なんでかわからないけど、助かったみたいだね。」
「……貴殿らの策ではなかったのか?」
桜は小さく首を振る。
「いや、わかんない……。あ……」
ふと遠い空を見上げる。
胸の奥にひとりの人物の顔が浮かんだ。
「官兵衛かな……?」
その名を口にした瞬間、長治の肩から力が抜けるように、彼は膝を折り石畳に腰を下ろした。
その姿はもはや誇りに固執した若き大名ではなく、ただ国と民を思い、耐え抜いてきた一人の人間のものだった。
桜はそっと長治に歩み寄り、声をかける。
「……姫路城から食料を運んでもらうから、しばらく待ってて。」
「あ、ああ……すまない。」
わけもわからないまま。だが確かに命はつながった。
桜と善助は振り返らず、足早に姫路城へ戻っていった。
西播磨――姫路城。
城の正門では、米、野菜、干物など食料を積んだ荷車が慌ただしく出発していく。
当主の間には、障子越しに午後の日差しが淡く差し込み、部屋の中を白く照らしていた。広間に置かれた机の上には地図と書状が散らされ、緊張感が漂っている。
官兵衛はゆっくりと立ち上がり、低い声で報告を始めた。
「摂津の国で織田家に対する反乱がおきました。その対応のため、織田軍は撤退したと思われます。」
「摂津の国?反乱……?」
桜の頭上に複数の「?」が浮かぶ。
官兵衛は静かに頷き、指先で地図の一点を示した。
「摂津の国は、織田家の本拠・京から播磨に至る道筋に位置する交通の要衝。
そこを収める織田家配下の大名は、以前より織田家への不満を募らせておりました。この機に反乱を後押ししたのです。
反乱勢力により織田軍は補給路を断たれたため、兵を退かざるを得なかったのでしょう。」
桜は小さく息を呑み、しばし言葉を失った。やがて顔をほころばせる。
「よくわかんないけど……さすが官兵衛だね……」
だが官兵衛は首を横に振り、険しい表情をみせる。
「この策は本来、この姫路城が侵攻を受けた時の奥の手として備えていたもの。三木城救出のために使う予定ではなかった。」
桜は思わず官兵衛を見つめ返した。官兵衛の眼差しには、ただの報告以上の複雑な思いがにじんでいる。
官兵衛は視線を桜に向け、少しだけ苦い笑みを浮かべてみせた。
「兵糧攻めと聞き、城下と城内の惨状が思い浮かびました……私は殿に似てきてしまったのかもしれません。」
「官兵衛……」
官兵衛はすっと顔を上げ、続ける。
「ですが、所詮これは時間稼ぎにすぎませぬ。いずれ織田家は必ず大軍をこの播磨に差し向けてくるでしょう。それまでに一刻も早く、我らも勢力を広げねばなりませぬ。」
桜は強く頷いた。
「うん!」
瞳には迷いの色はなく、決意の光が宿っていた。
そのとき――。
「申し上げます!」
慌ただしい声とともに、伝令が駆け込んできた。
「別所家の長治殿が、殿へ面会を求めております!」
桜は目を瞬かせ、少し困ったように唇をすぼめる。
「あれ……待っててって言ったんだけどな」
官兵衛は軽く顎を引き、短く言い放った。
「入ってもらえ」
「ははっ!」
伝令は深々と頭を下げ、足早に下がっていった。
やがて襖が静かに開かれ、別所長治がゆっくりと当主の間へ歩み入った。
その足取りにはためらいこそなかったが、背筋を張り詰める気配があり、その場に居合わせる者すべてが自然と視線を向ける。
長治は桜の前まで進み出ると、両の拳を固く握りしめ、低く、しかしはっきりとした声で告げた。
「……別所家はこれより、赤松桜の家臣となる。」
思いがけない宣言に、官兵衛と桜は同時に目を丸くし、互いに顔を見合わせる。
(……やはりなにかしでかしたようですな、殿。)
長治はさらに一歩踏み出し、真剣な眼差しで続ける。
「だが、条件が二つある。」
官兵衛は扇を軽く持ち上げ、表情を崩さぬまま問い返す。
「その条件とは?」
「まず一つ目。東播磨はこれまで通り、別所家により統治させていただきたい。」
言葉に合わせて長治は胸を張り、己の領地に対する責任を示すかのように声を強めた。
「そして二つ目。別所家は赤松家ではなく、『赤松桜』の家臣となる。……もし赤松家の当主が変わるような事があれば、我らは再び好きにやらせてもらう。」
突きつけられた条件に、桜はきょとんとした表情で小首を傾げ、すぐにぱっと笑顔を浮かべて官兵衛を振り返った。
「なんだ、そんなこと。いいよね?官兵衛。」
官兵衛はゆるりと目を細め、軽くうなずきながらも、視線の鋭さを隠さずに長治を見据える。
「一つ目については問題ありません。元よりそのつもりだったので。……だが――二つ目がどうも解せない。」
扇を静かに閉じる仕草とともに、官兵衛の目が鋭く光を帯びた。
「長治殿……殿は我らの主君。変に色目をつかいませぬよう。」
「なに……どういう意味だ……ハッ」
思わぬ言葉に長治は目を見開き、瞬く間に顔を朱に染め上げた。
その赤みは首筋から耳の先まで広がり、まるで火が燃え移ったかのようだった。
「無礼な!そういうつもりで言ったのではないわっ!我はあくまで桜殿を領主として評価を――」
その時、脇に控えていた善助が音もなく前へ一歩進み出た。
鋭い光を宿した瞳で長治をにらみ、腰の刀をわずかに抜き払う。
「長治殿……殿に変な事をすれば……斬る。」
低く冷ややかな声音が広間に落ち、刀身がちらりと灯りを反射した。
「ちっ……ちがうといっておろうがっ!!」
慌てふためく長治の声が、広間に響き渡る。
桜は事態を飲み込めず、ぱちぱちと瞬きを繰り返して「?」と首をかしげた。
その姿に、張り詰めていた空気は次第にやわらぎ、当主の間にはどこからか柔らかい風が吹き抜けた。




