第二話 東播磨の領主―別所家⑥
三木城、城下町――。
夜の闇をまとったように、煙が低く立ち込めていた。
ぼろ布で全身を覆った桜と善助は、互いに目を合わせながら周囲を警戒する。
焼け落ちた家屋からは、まだくすぶる火が赤い舌を伸ばしており、瓦礫の隙間からは黒煙が立ちのぼる。
道のあちこちには倒れ伏した領民の姿があり、動かぬ者も少なくなかった。
風に乗って焦げた木の匂いと血の臭いが入り交じり、息をするのもつらいほどだった。
通りに面した古びた長屋。その開け放たれた戸口から、切羽詰まった女の声が漏れ聞こえてきた。
「おやめください!…どうかおやめください!」
桜と善助は顔を見合わせ、胸騒ぎを覚えながら恐る恐る戸口に近づき、室内を覗き込む。
中では二人の織田兵が粗暴な態度で女を取り囲んでいた。床には麻袋に入った山芋が数個転がっており、それを兵が蹴飛ばしながら怒鳴りつける。
「この山芋は何だ!? 米一粒に至るまで、食料は残らず差し出せとの御布令…知らぬわけではあるまい!」
女は青ざめた顔で両手をすり合わせ、必死に言葉を紡ぐ。
「おたすけを……どうかおたすけを……」
彼女の傍らには、痩せ細った四歳ほどの男の子が横たわっていた。顔色は悪く、力なく息をする姿―。
女はその小さな体を庇いながら、涙で濡れた声を張り上げた。
「この子は病弱で…栄養がなければ生きられませぬ。どうか、この芋だけは…どうかお見逃しを…」
しかし織田兵は吐き捨てるように怒鳴る。
「ええい、知るかそんなこと! 貴様らが食い物を隠し持つと、俺たちが罰を受けるのだ! 言い訳など聞かぬ!」
そして仲間に目配せすると、にやりと口角を歪めた。
「二度と同じことをしないよう…お灸を据えてやらねばならんな」
一人の兵が腰から棍棒を引き抜き、ゆっくりと振りかぶる。
「ひっ…ひいいっ!」
女は咄嗟に男の子へ覆いかぶさり、背を丸めて小さな命を守ろうとした。
「よく反省せい!」
怒声とともに棍棒が振り下ろされる、その瞬間――
キインッ。
鋭い金属音が空気を裂き、次いで閃光が走った。
バキッ! ゴスッ!
「が…は…!」
悲鳴を上げる間もなく、兵の体が大きく弾かれ、土間に崩れ落ちる。
チンッ、と小気味よい音を立てて刀身が鞘へ収まった。
そこに立っていたのは、ぼろ布をまとい、目を光らせた善助であった。
桜は慌てて室内へ駆け込み、親子の傍に膝をつく。
「だいじょうぶ? 怪我はない?」
恐怖に震えていた女は、目の前の二人が助けてくれたことを悟り、畳に手をついて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます…ありがとうございます…!」
桜はその肩にそっと手を置き、優しく微笑む。
「きっと助かるから。もう少しだけ、頑張って」
そう告げると、二人は倒れた織田兵の体を引きずり、警戒を怠らず通りへと出ていった。
「う…ううっ…!」
「重い……」
桜と善助は力を込め、兵を路地裏まで引きずり、荒い息を吐きながら地面へ寝かせた。
すると――。
路地裏の薄暗がり、その脇に一人の男が倒れていた。
痩せ細った体は骨と皮ばかりで、頬はこけ、唇は干からびている。衣服はぼろぼろで、あらゆるところに膿のにじむ傷が走り、そこから湧いたうじが蠢いていた。はえが群がり、ぶんぶんと不気味な羽音を立てている。
だが、その胸はかすかに上下していた。まだ、生きている。桜は駆け寄り、その上半身を抱きかかえた。
「しっかりして…!」
男の濁った瞳が、うっすらと開かれる。
「助けに来て、くれたのですか……」
桜は必死にうなずく。
「そうだよ。もう大丈夫だから」
男は震える唇を動かし、消え入りそうな声でつぶやいた。
「よかった……長治様……ずっと、信じておりました……」
桜は一瞬、言葉を失い、唇をかんだ。
「あなた方は……長治様の、配下の方でしょうか……?」
善助が口を開きかけた。
「いえ、わたしたちは――」
だが桜はそれを遮り、静かにうなずいた。
「うん、そうだよ」
男の瞳が一瞬だけ光を取り戻す。
「よかった……長治様は、やはりわれらを見捨ててはおられなかった……」
桜は必死に言葉をかける。
「長治様は、あなたたちを見捨てたりしない! 必ず助かるから……だから、もう少しだけ……がんばって」
男の頬に、安堵の色が浮かんだ。
「ああ……よかった……ああ……よかっ……た……」
その声は次第に弱まり、やがて途切れる。
桜の腕の中で、男の胸の動きはゆっくりと、そして完全に止まった。
「……」
桜は唇をかみしめ、抱きとめたその身体をそっと地に横たえた。
指先から伝わる冷たさに胸が締めつけられ、肩は小刻みに震えている。




