第二話 槍の妖怪―槍幻③
――その夜。
屋敷の外では、風がざわりと竹林を揺らしていた。虫の音が絶え間なく響き、闇の帳が静かに広がる。
又兵衛は、そっと自室を抜け出した。足音ひとつ立てぬまま、土間へ向かう。
灯りはつけない。月光が障子越しに細く差し込み、彼の手に握られた槍の刃をかすかに照らした。
その瞳は、夜の闇よりも深く、憎悪に染まっている。
「周辺の警戒へ向かわれるのか? 又兵衛殿」
静寂を破るように、背後から声がした。
振り返ると、長治が手燭を掲げ、闇の中に立っていた。
「……あぁ」
「この屋敷はもちろん、周辺の集落も忍びたちに警戒させている。又兵衛殿が行かれることではないと思うが」
長治の言葉を、又兵衛は聞き流すように短く息を吐いた。
「やつがこの近くにいる……そう思うと、いてもたってもいられねえ」
握りしめた槍の柄が、ギリッと鳴る。
「見つけ次第、俺が殺してやる」
その声音は、氷のように冷たく、燃えるように熱かった。
長治はしばし沈黙した後、小さく息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、何も言わず、ただ彼の背を見送る。
又兵衛の姿は、闇に溶けるように屋敷の外へと消えていった。
その頃、桜は布団に身を横たえ、目を閉じていた。
けれど、眠りは浅かった。
胸の奥に、ざらつくような不安が居座っている。
――土間の扉が、静かに閉まる音。
桜の耳がぴくりと動いた。
(……やっぱり、行った)
思っていた通りだった。
又兵衛はきっと、妖怪を探しに行くと信じていた。
だからこそ、事前に長治へ頼んでおいた。
「もし又兵衛が動いたら、忍びに追わせてほしい」と。
万が一、槍幻と遭遇したときは、すぐ知らせてもらう。
駆けつけるための準備も、すでに整えてある。
けれど――。
(もし、間に合わなかったら……)
胸の奥を冷たい手で締めつけられるような感覚が走る。
息が苦しい。指先がかすかに震える。
その時――。
「ワンッ! ワン! ウウウウゥゥ”……!」
横で寝ていたはずのスシイヌが、突然うなり声を上げた。
「どうしたの? スシイヌ」
桜は体を起こし、スシイヌの頭をなだめるように撫でた。
すると――。
ぽたり、と冷たい雫が手の甲に落ちた。
「……雨漏り?」
眉をひそめ、天井を見上げる。
その瞬間、桜の瞳が大きく見開かれた。
天井の一部――そこだけが、まるで空間が歪んだようにゆらめいている。
ゆらぎの中心から、鋭い槍の穂先が突き出していた。
蝋燭の火を受けて、赤黒い刃が妖しくきらめく。
ぽたり、ぽたりと滴る赤い液体。
血だ。
その血が、真っすぐに桜の頭上へ――。
ビュウッ!!
「っ……!」
空気を裂く音。反射的に桜は身をひねり、横へ転がりこんだ。
ブシュッ!!
次の瞬間、槍が布団を深々と貫いた。
羽毛が舞い上がり、蝋燭の炎が揺れる。
桜は床に手をつき、息を荒げながら見上げた。
胸が早鐘のように鳴り、喉の奥がひりつく。
その刹那――廊下の奥から、どたどたと駆け寄る足音が響いた。
ガラッ!!
勢いよく襖が開かれ、長治が飛び込んでくる。
「桜殿! 警戒せよ! 屋敷の忍びたちがみな殺――」
言葉の途中で、彼の声が途切れた。
天井から突き出た血濡れの槍を見た瞬間、長治の表情が凍りつく。
次の瞬間、彼は咄嗟に駆け出し、桜の後ろに躍り出て背を合わせた。
腰の刀を抜き放つ音が、闇の中で鋭く響く。
「むやみに動くなっ、桜殿! 天井、壁、床! どこから槍が繰り出されるかわからぬ!」
「う、うんっ……!」
桜も震える指で細剣を握りしめ、息を整える。
視線を左右に走らせる。
屋敷の中は異様に静まり返っている。外の虫の声さえ、まるで凍りついたかのように聞こえない。
その時――
ヒュウッ!!
「ぐっ!」
床板がわずかに揺らぎ、長治の足元から槍の穂先が音もなく突き上がった。
咄嗟に反応した長治が刀で受け、鋭く弾き飛ばす。
床板が裂け、木屑が宙に舞う。
しかし、次の瞬間――桜の横の壁が波打つ。
ギィィィンッ!!
そこから飛び出した槍を、桜は細剣で必死に受け止めた。
金属と金属がぶつかり、耳をつんざくような火花が散る。
力の差は歴然。細い刃がきしみ、腕が震える。
ヒュッ――
キィンッ、キィンッ!!
空間の歪みが次々と生じ、槍があらゆる方向から突き出される。
音もなく、しかし容赦なく。
天井、壁、床……ありとあらゆる場所から、死が伸びてくる。
その殺意の奔流の中で、桜と長治は息を合わせて立ち回った。
彼女は細剣の腹を押し込みながら槍の間合いをずらし、長治は刀を振るって迫る穂先を切り落とす。
しかし、切り落とされた槍の穂先はすぐに霧のように消え、再び別の場所から現れる。
「くっ……きりがない!」
長治が歯を食いしばる。
その時――。
「――しぶといやつらよ」
重く、湿った声が屋敷全体を震わせた。
まるで地の底から響くような低音。
桜の背筋がぞくりと凍りつく。
縁側の方から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
ドスン、ドスン……。畳が軋み、空気が沈む。
やがて障子の向こうに、巨大な影が映った。
風圧で障子がわずかに揺れ、次の瞬間――バタンと音をたて倒れた。
そこに立っていたのは、まるで山のような大男だった。
身の丈は二メートルをゆうに超え、全身が闇に覆われている。
長い黒髪が顔を隠し、動くたびにぬらりと光を反射した。
目が、ぎらりと光る。
人のものとは思えぬほど鋭く、野獣のような光。
鼻梁はごつごつと高く、頬のあたりは異様にこけ、人のような鬼のような形相。
だが、皮膚は紫がかった黒――まさしく妖怪のそれであった。
その手には、赤黒く、異様な形状をした槍。
血に濡れた刃が、まるで生き物のように脈打っていた。




