第三話 官兵衛の葛藤③
戦闘が始まり、すでに一刻が過ぎた。
鳴りやまぬ銃声は雨のように降り注ぎ、突撃を繰り返した武田軍の大半は、すでに屍と化した。
勢いを削がれた武田軍に対し、織田軍は冷徹に包囲を完成させていた。
四方を鉄砲と槍の壁に閉ざされ、もはや退路すら残されてはいない。
――絶望。
それでもなお、生き残った将兵たちは歯を食いしばり、血を吐きながらも槍を握り直す。
――名門・武田家の誇り。
認めがたい現実を前に、彼らが選べる道はただひとつ。
立ちはだかる敵に向け、最後の力を振り絞り突き進むのみであった。
「……たしかに、鉄砲が弾込めに時間がかかるなら、その数を増やせばいい。
だが……高価な鉄砲を、いったい何千丁揃えたというのか……」
荒い息を吐きながら、内藤昌豊は血で濡れた刀を強く握りしめた。
無数の銃声が絶え間なく響き渡り、戦場は鉄と火薬の臭気に覆われている。
馬場信春もまた、額から流れる血を乱暴に拭い、低く唸る。
「今まで誰一人として実行しなかった戦術……その実現のために莫大な時と財、兵を費やし、もしこの決戦の場で失敗したらとは、考えぬのか」
山県昌景が静かに言葉を継ぐ。
「恐るべきは鉄砲そのものではない。新しき考えを実行する果断……その胆力と狂気。――もはや人の域を超えている。」
昌景の視線が遠くへ向けられる。
柵のはるか奥、小高い丘――。
そこには、黒き馬に跨り、悠然と戦場を見下ろす一人の男の姿があった。
――織田信長。
陽光すらその身を避けるかのように、彼の周囲には揺らめく影が立ちこめていた。
空気が焼け焦げるような熱を帯び、陽炎のごとき幻が広がる。
ただそこに在るだけで、見る者の心を圧し潰し、膝を折らせるようなおぞましい覇気が迸っていた。
昌景は思わず目をこすり、なおも凝視する。
「……まるで、魔王のようだ……」
その姿は、ただの武将ではない。
戦場を統べ、歴史を動かす者――すでに人の域を超えた存在であった。
やがて銃声が途絶える。
しかし、静寂のあとに広がる光景は地獄そのものだった。
柵の前は無数の武田兵の屍で埋め尽くされ、馬の嘶きと兵の断末魔だけが冷たい風に乗って響いていた。
「……はぁ……はぁ……」
血に濡れた口元で呼吸を整えながら、内藤昌豊は刀にすがって辛うじて立っていた。
その前に――。
ジャリッ ジャリッ……。
土を踏みしめて近づいてくる影がある。
体格は小柄。頭には奇妙な緊箍児のような金の装飾をはめ、軽装ながらも随所に金で飾られた華美で異様な装束。同じく金で飾られながら、荒々しい鉄の塊のような長い棍棒を軽々持ち上げている。
その姿は、戦場の泥と血にあってなお異彩を放っていた。
「……織田家四天王――羽柴、秀吉……!」
昌豊が低く名を呼ぶ。
秀吉はにやりと口を歪め、獣のような笑みを浮かべた。
その双眸は狂気じみた光を帯び、戦場の喧騒を愉しむかのようにぎらついている。
「相手にとって不足はないッ! 覚悟ォッ!!」
昌豊は最後の力を振り絞り、血まみれの刀を振りかざして秀吉へと斬りかかった。しかし――
ボキィッ!
戦場に響き渡る異様な音。
振り抜かれた秀吉の棍棒が、容赦なく昌豊の頭部を直撃したのだ。
骨が砕ける鈍い音と共に、鮮血が飛び散った。
バターンッ!
昌豊の身体は支えを失ったかのように地へ崩れ落ち、もう二度と立ち上がることはなかった。
「ハッハッハァーッ!!」
秀吉が高らかに笑い、金の棍棒を掲げて叫ぶ。
「武田四天王、内藤昌豊を討ち取ったりッ! これは手柄じゃ、手柄じゃあ!」
戦場に響くその声は、勝利の報せであると同時に、魔王の下僕としての狂気をも告げる雄叫びであった。
無数の銃弾を浴び、それでもなお大地に踏みとどまり続ける男があった。
その姿こそ「不死身の鬼美濃」と呼ばれた男、馬場信春である。
全身から血が流れ、甲冑は裂け、すでに満身創痍。だが彼の瞳にはなおも闘志の火が燃えていた。
だが、その信春の前へ――。
ゆっくりと、しかし確実に、まるで死神の歩みのように近づいてくる影があった。
「……織田家四天王、柴田勝家……」
信春が唸るように名を呼ぶ。
現れたのは、まるで山から下りてきた一頭のヒグマ。
2mに迫ろうかという巨体、全身を覆う岩のような筋肉。
無造作に伸び放題の髭が顔を覆い、その眼光は鋭く、獣じみた凶暴さを帯びていた。
勝家は巨大な大槍を肩に担ぎ、土煙を巻き上げながら一歩、また一歩と信春へと迫る。
「ワシは不死身の男……」
信春は血の滴る唇を歪め、不敵に笑った。
「貴様ごときにどうこうできると思うなよ……!」
その言葉と共に、信春の刀が閃光を描く。
鋭い太刀筋が一直線に勝家の頚部を狙い、刹那、空気を切り裂く音が響いた。
ザクッ!!
刃が首へ届く寸前、その軌道はぴたりと止まった。
信春の両腕が震え、刀身は虚しく空を掠める。
「……っ!」
見ると、勝家の大槍が正確無比に突き出され、すでに信春の胸を深々と貫き、背まで突き抜けている。
血が槍の穂先を伝い、地面に滴り落ちていく。
やがて槍をつかむ信春の手から力が抜ける。
「……。」
次の瞬間、勝家は大槍を大きく振り上げる。
串刺しにされた信春の身体が宙に浮かび、無残にも空へと投げ捨てられた。
ドシャァッ!
大地を揺らす衝撃と共に、不死身と恐れられた鬼美濃の身体は動かなくなった。
「……フンッ」
勝家は鼻を鳴らし、槍を軽く振って血を払うと、背を向けて歩み去っていった。




