第39話 夜の訪問者
鍛練場を後にした僕は、自室に戻っていた。
受け取った宝剣を机の上に無造作に置き、そのまま体を寝台に投げ出す。
終わった。何もかも終わって、今日一日が過ぎ去った事を、心身ともに疲労していた体には、横になるというただそれだけの行為が嬉しく思えるほどだ。
(でも、虚しいな。そう、終わったんだ、僕の初恋は)
ずっとネイローザを見て育ち、いつしかそれは思慕の念が育まれていた。
それに気付いてはいても、王子と言う立場がそれを許さず、ただただ口を紡いで悶々と過ごしてきた。
今日という一日さえ、そんな何気ない一日になるはずだった。
実際、日が昇るといつものように彼女が僕を起こしに来て、毎度の朝の鍛練に勤しんだ。
それがガラリと変わったのは、父に呼び出され、結婚話を聞かされてからだ。
燻ぶっていた思いが吹き出し、父と口論になるほどに感情的になってしまった。
その後もせめてもの抵抗だと、やる気のないダンスを踊り、徒労とも言うべき無駄な時間を費やした。
(でも、そんな不貞腐れた僕を、彼女は優しく、そして、厳しく窘めてくれた)
気が乗らない僕を剣舞で鼓舞し、改めて僕にとって大切で欠く事の出来ない存在である事を思い知った。
しかもその後、父とネイローザとの一騎討ちを見る機会に恵まれ、父が意外に情熱的な人物である事も知れた。
そして、突然の譲位の意思表明。
あの宝剣が僕の手に中にあるのがその証だ。
(まあ、正式なものじゃなく、あくまで心構え的なものなんだろうけど、重いよな、これは)
寝台の上で寝転がる僕は、視線を机の上に置いている宝剣に向けた。
『慈悲深き王者の剣』と呼ばれる剣は、王権の象徴、王家の至宝として長く伝わってきた代物だ。
なんでもご先祖様が昔、盗賊として暴れていたネイローザを打ち倒したのが、この剣の由来なのだと言う。
刃引きの剣であり、生け捕りを企図して、あえて“なまくら”で彼女と戦い、そして、勝ちを収めた。
それ以降、彼女はこの王宮に住まい、騎士として仕えてきた。
そんな黒薔薇を我が物にすると言う邪な感情を抱き、僕は彼女に決闘を挑んだ。
そして、完膚なきまでに負けてしまった。
(ほんと、たった一日で世界は変わったな~。斜に構えて物事を見ろってことだけどさ。むしろ、世界の方が傾いている感じすらある)
疲れた。本当に疲れた。
今日一日でどれほど周囲が変わってしまっただろうか。
あるいは、自分自身が変わってしまっただろうか。
それを推し量れるほど、今の僕は冷静でも、あるいは聡明でもない。
ネイローザへの決闘まがいの告白を行ったのも、その無思慮な勢いがあればこその芸当だ。
おまけに、あの後、手の甲とは言え、彼女に口付けまでしてしまった。
男としては良いかもしれないが、勢い任せに私情を振りかざすなど、王様としては落第点だ。
決闘の後、叱責されるのかと思っていたら、案外彼女は受け入れてくれた。
口付けの後も、特に何か言うでもなく、少し恥ずかしそうに無言で笑顔を向け、そして、走り去っていった。
(いや、まあ、彼女も色々あったわけだし、疲れていたのかもしれないな。明日、色々とコテンパンにのされそうで怖い)
それはそれで楽しくはあるのだが、もう彼女を抱く機会は永遠に訪れはしない。
稽古を真面目にやる、という彼女との約束があるからだ。
僕としては武芸に打ち込みたいのだが、学問を疎かにするわけにはいかないし、あるいはダンスを始めとする伝統芸能や、姫を迎えるに際しての礼法にも磨きをかけねばならない。
真面目にやれ、という彼女の苦言はそれなのだ。
王として、皆に見られる立場の者として、恥ずかしくない作法を身につけろ。
王とは、その国の顔であるのだから、下手な振る舞いは他国から侮りを受ける。
それは国家としての損失であり、恐れられてこその王様だ。
無論、愛される事も重要で、敬愛と畏怖の両輪を備えた稀有な存在こそ、理想の王ではないかと思う。
父がまさにその具現者だ。
自国民に対しては、非常に慈悲深い。問題あらば、率先して動く。
それでいて、他国に対しては容赦ない。敵対しようものなら、徹底的に叩き潰す。
僕に対しては常に厳しくあったが、それもこれも次代を担う跡継ぎを育てるためだと、今更ながらに気付かされた。
それでいて、四十年もネイローザに挑み続けるという、諦めの悪さや熱き感情の持ち主でもある。
反発する感情もあるが、すでに王位を譲る旨も非公式だがなされている。
(そう、今度は僕自身がしっかりとしていかないとな)
まだ早いと思いつつ、父は宝剣を譲って僕に奮起を促し、ネイローザもまた決闘で僕の初恋をバッサリと切り捨て、感情の抑止を教え込んできた。
思うところはあるが、期待をかけられた以上、頑張らねばならないと思うのは、今朝ネイローザに言われたように、真っ直ぐすぎる真面目さゆえなのだろうか。
そんな事を悶々と考えていると、さすがに眠気が襲ってきた。
今日一日、色々あり過ぎて、頭の整理が追い付いていないが、その整頓作業を睡魔が妨害してきたのだ。
これを解消する方法、それはさっさと寝てしまう事だ。
疲労感と睡眠への渇望の中、あれこれ考えてもろくな結果を見出す事はできない。
寝て、目が覚めて、それから考えればいい。
朝日に輝く彼女の顔を見れば、またやる気も起きようというものだ。
コンッ、コンッ コンッ!
さて眠ろうかと思い、目を閉じたところで誰かが扉を叩いてきた。
正直、誰だよと思ったが、居留守を使うわけにもいかず、上体だけ起こした。
「誰か知らないけど、今日はもう疲れたんだ。急用でなければ、明日にしてくれ」
「私です、ネイローザです」
来訪者の正体が分かると、僕は大慌てで寝台から飛び出す。
ネイローザの訪問を断れるほど、僕の心は図太くはない。
急いで扉に駆け寄り、そして、開けた。
「こんな時間に僕の部屋に来るなんて、珍しい……ね」
扉を開け、彼女の姿を見たとき、僕は絶句。
かける言葉が思い浮かばないほどの衝撃。
そこにいたのは、ネイローザであってネイローザではない存在。
初めて見る彼女だ。
そう、それは“ドレス姿”のネイローザだった。




