始まりの夏の日
「よし、これで完成だ」
彼は右手に持っていた絵筆をパレットの上に置き、満足げに言った。
「見せて」
たくさんの花が咲き誇る中で立ち続けていた彼女が、それを聞いて駆け寄ってくる。
カンバスを覗き込む。
そこには、花畑で立つ彼女がいた。
その手には何かを抱えるような格好をしているものの、何もそこには描かれていない。
そして、たくさんの余白。
「ねえ、これまだ終わってないんじゃないの?」
待っていました、と言わんばかりに、彼が答えた。
「ううん、今日はこれで完成なんだ。
この続きは、いつか来るべき日の為に、とっておくつもりだから」
彼女は訳が分からない、と言いたげな表情で頭を傾げた。
彼は座っていた小さな椅子をたたみ、立ち上がる。
「さぁ、帰ろう」
秋風が、二人の間を横切る。
それと一緒に、紅葉の群れも、美しく舞い散っていく。
「うん」
彼女は片付ける彼の背中を見つめていた。
いつか、この背に寄り添える日を夢見ながら。
「ねぇ、その絵を全て描き終えたら、私にも見せてくれる?」
画材を片付ける彼の後姿は、ひそかな彼女のお気に入りであった。
そんな後姿のまま、彼が答える。
「うん。もちろん、約束」
彼が小指を立てた。
彼女も同じように小指を立て、そこにかける。
1、2、3。
小さく上下に揺らして、離した。
必ず果たされるように、願いを託しながら。
この小さな約束が、いつか、どこかで。
その日はとても蒸し暑く、体中の毛穴から、汗が噴出しそうだった。
こんな日のセーラー服ほど最悪なものは無い。
私の高校は都内でも風紀には異常なくらいにうるさい、ちょっとした有名女子高だ。
進学率はまぁまぁ、中の上くらいだが、校則の厳しさは都内でも上位だろう。
だから制服のスカート丈も、こんな夏でも膝まであるし。
それに、案外セーラーのスカートは生地も厚い。
おまけに空の上にはこれでもかというぐらいに太陽が照り付け、
頭の上は、コンロの上に置かれたフライパンのように暑くなっている。
左右に揺れるポニーテールも、今日は一段とその揺れが弱くなっていた。
私は歩き慣れた通学路を、重いセーラー服を支える足でふらふら歩いていた。
唯一の救いは、通学路が普段よりも人通りが少ない事。
今日は夏休みの初日だから、学校に来る生徒の数も自ずと少なくなる。
それなのに私は今日、学校に呼び出された。
その理由は至ってくだらない。
「高杉。いい加減に進路を決めろ。お前だけだぞ、大学受験するかも決めてないのは」
暑さで溶けそうな脳みその中で、
見慣れた、
これまた真夏の空気のように暑苦しい担任の顔と言われた言葉が旋回し始める。
それも時間は正午。
当然昼御飯はまだ食べていない。
不快指数は上昇の一途をたどるばかりだ。
・・・まったく、余計なお世話。
他人の人生に口を出すなっていうの。
私だってちゃんと考えてるんだから、馬鹿にするな。
そう言えたらどんなにすっきりするか。
「いいか。
大学受験はな、早く始めた者が制するんだ。
高校2年生の正しい夏休みの送り方は、
予備校に通って、夏期講習を受講して勉強に明け暮れることだ。
東京の高校生のほとんどはそういった過ごし方をしている」
訳分かんないし。
花の女子高生。
それも2年生、今がまさに、旬。
正しい夏休みの送り方は、遊びに恋に明け暮れること。
新宿、いや、渋谷、原宿の方がお店のバリエーションも豊富で面白い。
そこで、残念ながら彼氏はいないが、友達とカラオケ行ったり、ボーリングしたり。
たまにはちょっと遠出して、湘南の海で海水浴とか、
プールのテーマパークみたいな所も楽しい。
おまけにそこでナンパされたりとかして、かっこいい彼氏もできれば一石二鳥。
そしたらその彼氏と可愛い浴衣を着て、花火を見に行く。
我ながら完璧で正しい夏休みの計画だ。
誰も文句は言えないはず。
恐らく世の中の女子高生にアンケートを取ったら、圧倒的支持数を得られるに違いない。
数学の公式のように隙の無い自説に思わずにやけそうになった時、
右手に持っていた革の鞄が小さく振動した。
私は立ち止まり、
化粧ポーチとか手帳、筆箱とかに埋もれて鞄の底に横たわっている携帯を探り当てた。
綺麗に装飾された携帯のボディを開く。
ビーズできらきらさせたもので、私の自信作だ。
発信元を確認する。
それは珍しく父からだった。
「もしもし?」
私は再び歩き出した。
「由佳。今どこにいる?急いで家に帰ってきなさい」
普段は家でテレビを見るかゴルフクラブを磨いている父からは、
想像もつかない緊張した声が聞こえてきた。
「・・・どうしたの?」
私の顔も、自然に強張って行く。
「多摩のおばあちゃんが倒れたと連絡が入った。
これから病院に行くけど、由佳はどこにいる?」
耳を疑った。
「おばあちゃんが倒れた」・・・?
どういう意味なのか。
その言葉を理解するために、頭を回転させようとしても、うまく動いてくれない。
携帯を持つ手が震え始める。
「今学校から帰る途中だから後5分くらいで駅に着く」
声も段々、振動を帯び始める。
「そうか。それじゃあ家に帰ってくる方が早い。とにかく早く帰って来い」
私は返事もせず電話を切った。
急いで携帯を鞄に仕舞おうとするが、うまく開かない。
仕方なくそれを汗ばんだ右手でもったまま、駅まで全力疾走した。