祖母の死
いつもは短く感じられる時間も、今日だけは長く感じた。
それが、たった15分しかかからない、乗車時間であったとしても。
「荻窪~、荻窪~。お出口は・・・」
私は直ぐにでも降りられるよう、電車のドアに寄り付く。
そして開いたと同時に、私はオレンジ色の電車を背に、
ホームに歩く人を掻き分け、改札まで走り出した。
駅から家までは歩いて10分。
走れば5分位で着くはずなのに、足は思う様に動いてくれない。
重りを両足に縛り付けられた囚人が脱獄を図るかのような姿で走り続けた。
汗が額から流れおちてくる。
必死で腕でそれを拭っても、だらだらと流れてくる。
やっと家が見えた。
肩で息をしながら走っていると、家の玄関に両親が立っているのが見えた。
「由佳、急いで」
父は私の姿を認めると、玄関の隣にある車庫へと向かっていた。
肺の痛みを感じながらも、私は母の元に辿り着く。
「これから当分おばあちゃんの家に泊まる事になると思うから。荷物はこれ」
母が大きなビトンのボストンバッグを両手で持っていた。
そしてその隣には、今年の秋にある修学旅行用にと、祖母が今年の5月に買ってくれた、
淡いピンク色のキャリーバッグがあった。
「お母さん、由佳、早く乗って」
車庫から出た車の運転席の窓から、父が顔を出している。
私たちは玄関の鍵が閉められているのを確認し、車のトランクへと駆け寄った。
「ねぇ。おばあちゃん、どういうことなの?」
シートベルトを締めながら、同じくシートベルトを締めている助手席の母に尋ねた。
「お昼前に、病院から電話があって。
道端でおばあちゃんが倒れていたのを、近所の人が発見したそうなの。
それで、これから緊急手術を行うからって・・・」
母の声が震えている。
おばあちゃんは、父方の方であるが、母とも仲は良かった。
父がその続きを代行する。
「どうも心臓が弱っているそうだ。あの年では、どうなるかは、な・・・」
「でも、まだ生きてるんだよね?」
「あぁ・・・。でも、意識が無いようで、かなりの重症らしい」
祖母は今年で81歳になるが、5月のゴールデンウィークに遊びに行った時は、
デパートを階段で移動するぐらい元気だったのに。
祖母は一人暮らしだった。
4年前、祖父が亡くなって以来、ずっと一人。
一緒に暮らそうと父と母は何度も言ったけど、老人扱いするな、と頑なに拒んでいた。
ふと、目頭が熱くなってくる。
でも、私は目を腕で覆った。
泣いちゃ駄目。
絶対に。
まだ死んだ訳じゃないんだから。
クーラーがまだ効いていない、もあ、とした空気の中で、私は前部座席に身を乗り出した。
「大丈夫だよ、おばあちゃんは絶対すぐに元気になるって」
肩を震わせる母が、聞こえないくらいの声で「・・・うん」と何度も頷いている。
「病院までは、どのくらいかかる?」
「道路が混んでいなければ1時間もかからない筈だけど・・・」
東京の端まで行くには、案外時間がかかる。
父は何も言わなかったが、いつも以上に瞳が濡れているのが、鏡に映っていた。
「先生、高杉です。宜しくお願いいたします」
病院の入り口に来た頃には、時刻は既に1時半を過ぎていた。
病院から指定された手術室へ向かうと、
一人の白衣を着て、眼鏡をかけた若い医師が待っていた。
思っていた以上の若さに、少しだけ不安を抱いた。
「お待ちしておりました。今回手術を担当させていただく岡嶋です。
これから手術の説明等をさせていただきたいと思いますので、どうぞこちらへ」
その人は白衣を翻して、私たちを手術室の近くにある小さな部屋へ案内した。
部屋では何やら難しいことが話されていた。
祖母の病名。
手術の内容。
でも、私はそんな事よりも、今すぐにもっと知りたいものがあった。
「先生」
私は待ちきれずに先生の説明を遮断した。
「・・・はい、何でしょう?」
分かっている。
失礼なことだって。でも、これだけは教えて。
「先生は、絶対に祖母を治してくれますよね」
「由佳!」
父の戒める声がする。
先生と視線がぶつかった。
白衣の医師は、少し驚いた様子だったが、眼鏡の奥にある瞳に、嘘は無かった。
「もちろんです。必ず、元気にしてみせますから」
「・・・お願いします」
私は祈るような気持ちで頭を下げた。
父も母も、私の様子を見て、同じことをしていた。
病院に着いてから6時間ぐらいがたった。
既に窓の外は真っ暗だった。
私たちは手術室の前に置かれた長椅子に、3人並んで座っていた。
ほとんど会話を交わすことなく、ただ、手術室を見つめているだけ。
静まり返った廊下に、ぐぅ、とお腹がなる音がする。
今更ながら、昼時の空腹を思い出していた。
「由佳、下の売店に行って何か食べ物を買ってきなさい」
疲労が漂う顔で、母がハンドバックから財布を取り出す。
6時間ぶりの会話は、あまりにも重々しかった。
私が財布を受け取り、立ち上がった瞬間だった。
突然、手術室の自動ドアの上にある「手術中」の赤いランプが、ふ、と消えた。
緊張が走る。
そして、中から緑色の手術着を纏った先生が出てきた。
「先生!おばあちゃんは・・・」
私は真っ先に先生のもとへと駆け寄った。
見上げたその瞳は、まっすぐに私に注がれている。
しかし、次の瞬間、その視線は逸らされた。
そして、私たちの願いからは程遠そうな表情を、先生はしていた。
「・・・最善は尽くしました。
しかし、今夜が峠です。
何せ年齢的に体力が衰えていますので、出来たら、ご親戚の方を・・・」
「そんな!先生、さっき言ったじゃないですか!絶対元気にするって!」
静かだった廊下に、甲高い声が木霊する。
私は無意識のうちに先生につかみ掛かっていた。
「止めなさい、由佳。手を離しなさい!」
父が私の手を掴み取る。
私は抵抗もせず、両手をなされるがままにした。
「申し訳ございません。娘が無礼を・・・」
「いえ、こちらこそ、元気になると申し上げたのですから・・・」
父が深々と頭を下げた。
先生も申し訳なさそうに、頭を下げる。
「しかし、まだ分かりません。
逆に今夜を越せれば、おばあ様は元気になれる可能性は十分残されています。
だから、おばあ様を信じて、回復を祈ってあげてください」
先生は私を見て、ほんの一瞬、微笑んでくれた。
その瞬間、私のさっきの行動は、恥ずべきものだと感じていた。
彼は父を見て、更にこう続けた。
「今夜は私も病院におりますので、何か聞きたいことがあればあそのこナースルームに」
二人は再び頭を下げ、先生は去って行った。
「お義母さん!」
突然母が大声をあげる。
反射的に手術室の方に視線を遣ると、そこにはストレッチャーで運ばれる祖母の姿があった。
「おばあちゃん!」
「これからICUに入ります。
面会については説明いたしますので、もうしばらくお待ちください」
一人の看護士にそう機械的に言われた。
私は真っ白な顔の祖母を見つめた。
今まで見たことがないくらいに白い顔。
立ちはだかる現実を、まざまざと突きつけられた気がした。
私は後ずさりをし、ずるずると先ほどまで座っていた椅子に、倒れるように腰掛ける。
そして目を閉じた。
神様、仏様。
どうかお願いします。
おばあちゃんをどうか、助けてください。
お祈りの仕方なんか分からない。
でも、昔行った近所の教会のクリスマスミサで、シスターが言っていた。
祈りは、心ですれば、必ず神様は聞いてくれるって。
私は両手を合わせて、でたらめに十字を切り、神様へと祈った。
だけど、私の祈りは届かなかった。
真夜中、突然ICUが騒がしくなり、私たちは急いで服を変えるよう命じられた。
そして、部屋へと通された。
そこには苦しそうに呼吸をする祖母が横たわっていた。
あんなに元気だったのに。
あんなに笑っていたのに。
どうして今、こうやって真っ白な顔で苦しそうに横たわっているのだろうか。
自分自身に問いただしてみても、答えが出るはずはなかった。
周囲では、医師が看護士に何か怒鳴るように命じている。
看護士は慌てふためくように、何かをしたり、渡したりしていた。
「おばあちゃん!」
私は大声でそう叫び、祖母の片手を握る。
その瞬間、祖母はゆっくりと目を開き、私を見た。
そして、酸素マスクの中で、消え入るように、呟いた。
「・・・人生、後悔を残さないで生きなさい・・・」
それが、最期に遺してくれた、一言だった。
祖母がにっこりとほほ笑みかけてくれた。
ゆっくりと、私、父、母を見つめ、そして、目を閉じる。
同時に、単調な電子音が響き渡った。
私は知っていた。
その音は、命の灯火が消えてしまったサイン。
医師のどなり声が強くなった。
母が泣き崩れる。
その隣で、父が支えている。
私は、どうして良いか分からず、そのまま一人部屋を出た。
「・・・すみませんでした。おばあ様を救えなくて」
どのくらい時間が経っただろう。
まっ暗い廊下に置かれた、ICUのそばにある長椅子に座ってぼぅっとしていると、
岡嶋先生が私の前まで歩いてきた。
「・・・いえ、私の方こそごめんなさい。
先生は一生懸命してくださったんですよね。
それなのに、掴み掛かったりして・・・」
彼は私の隣に座った。
しばらくお互い黙ったままだったが、先に先生が口を開いてくれた。
「・・・僕にも、同じくらいの歳の祖父がいて・・・。
だから、他人事なんかには思えなかった」
寂しそうな横顔だった。
自分が悲しいはずなのに、何故か彼を慰めてあげたくなった。
「先生のせいじゃないと思います。きっと、寿命だったんです」
自分に言い聞かせるように、私は言った。
先生は項垂れたまま、ただじっとしていた。
沈黙が、薄暗い廊下に響き渡る。
私たちはただ、静けさの海を漂うしか道がなかった。
「・・・ごめん・・・なさい・・・」
彼が両手で顔を覆いながら、くぐもった声で言った。
「・・・いえ。良いんです」
何と言えば良いのか、分からなかった。
でも、何も言わない方が良い、そう心の声が私に教えてくれた。
少しでも、この悲しみを癒す為に。




