34. 才能と魔性という毒
ナラネスラ王国にやってきて、二日が経った。
シャーロットはレイナールの描いた似顔絵の人物を見つけるため、怪しまれない範囲で王族関係者を嗅ぎ回っていたが、今の今まで目ぼしい進捗はない。
王宮に当てがわれた客室で一人、滞在期間が一週間に延びたことに改めて心の中で感謝する。
ちなみに、延びた理由については結局分からずじまいだった。
シャーロットはベッドの上に座り込みながら、計画を練り直す。
やはり茶髪に紫色の目というだけでは絞り切れない。そろそろ手広く探すのではなくて、ある程度ヤマを掛け始めるしかないだろう。
また、もう少しリスクも負わなければなるまい。
例えば日中フレデリックの後をつけてみれば、たとえ件の男は見つからなかったとしても、フレデリックの悪行を証明するための手掛かりを新たに見つけられる可能性はある。
「……ん」
万が一見つかったときの言い訳を考え始めたところで、微かな足音が鼓膜を打った。
今は従者さえも寝静まる深夜。
誰かが水でも飲みに起き出して来たのだろうか。
……いや。足音はシャーロットの部屋から向かって左側から右側へと進んでいる。その先には水汲み場もお手洗いもないはずだ。
シャーロットから足音が聞こえるということは、同じ階、または一つ上の階の人が鳴らしているということ。
……そして、彼女と同じ階に滞在しているのはフレデリックだけ。
覚悟を決めたシャーロットはゆっくりと深呼吸をして、部屋の扉をごく僅かに開き、外を覗いた。
「……っ!」
――果たして、不本意にも見慣れた金髪の男がシャーロットの前を通り過ぎた。
この千載一遇の機会に、動かない手はない。
フレデリックが十分に離れたと判断すると、部屋をひっそりと忍び出て、彼の後をつけた。
少しの音も立てられないので、靴は履いていない。晩秋の床の冷たさが、鋭く靴下をつたって両足に届く。
緊張による心拍数の上昇を自覚しながら、シャーロットはレイナールと初めて会った日のことを思い出していた。
あの時もシャーロットはフレデリックの後をつけていた。
アンナとの密会の現場を見たことでこんなことになるだなんて、当時は思いもしなかった。
フレデリックは廊下の最奥の部屋の前で足を止め、その扉を開いた。
シャーロットは慌てて扉の前に忍び寄り、フレデリックの閉めようとした扉がわずかに開いたままになるよう、両手で抑えた。
そのまま廊下で座り込み、少しでも暖を取ろうとする。
「久しぶりですね、フレデリック王子殿。五年ぶりでしょうか」
フレデリックを迎えたのは、一人の初老の男性だった。
……間違いない。レイナールの似顔絵の人だ。
目鼻立ちに輪郭はあの絵と瓜二つ。
しかしレイナールが茶髪と称したその髪は五年経った今、半分ほどが白く染まっていた。
「――ハロルド」
彼の名を呼んだフレデリックの口調は、やや不機嫌そうだった。
仲間じゃなかったのかと、シャーロットは人知れず首を傾げる。
「調子はいかがですか? 王位は問題なく継げそうで?」
「……当然だろう」
――いや、やはり協力者だ。
協力するかと仲が良いかは別。
レイナールの勘は外れていなかった。
なぜナラネスラの王族関係者がリンデル王国の王位継承に首を突っ込んでいるのかは分からないが、とりあえずこの機会は必ずモノにしなければならない。
一気に喉が渇いて来て、自然と体に力が入る。
一言も聞き逃すまいと耳を澄ました。
「それは安心いたしました。手紙のやり取りすらもできないので、わたくしめは心配で心配で。もっとも、あの子が相手ではそれも致し方ありませんが」
……手紙はないか。
正直なところそれが証拠の最有力候補だったが、彼らもそこまで馬鹿ではなかったらしい。
ハロルドの口ぶりから察するに、彼もレイナールを相応に警戒しているようだ。
もっとも、そもそもフレデリックがレイナールを軽視してはいないので、それは自然なことといえる。
「あの子はどうしていますか」
「……優しいやつだからな。喜んで執務を手伝ってくれている」
「……なるほど。今回の訪問はあの子に一杯食わされた結果でしたか」
「チッ……ああそうだよ。だがこの程度、俺に取っちゃ大した痛手じゃない。この状況を上手く利用すれば、俺は最愛の婚約者を奪われた悲劇のヒーローにすらなれるかもしれない」
「流石は王子殿、良案でございますね。しかし、よりによって印象操作であの子に挑むのは、少々分が悪いかと」
遠回しにフレデリックを侮る発言をしたハロルドに、フレデリックは視線を鋭くした。
「……ナメてんのか?」
「いえ、滅相もございません。
覇気に溢れる王子殿と違って、あの子は人の心を持たぬ化け物です。その器用さにだけは目を見張るものがありますが、小手先の技で王位継承順位はひっくり返りません。
王子殿がお手を煩わせるまでもないということを、わたくしめは言いたかっただけです」
笑顔で繰り出される長くて浅い言い訳に、フレデリックはいらいらと机を引っ掻く。
「……さっさと用を話せ」
「ええ、喜んで。このたびあの子の母親、ローズマリー様が禁薬に手を出したと糾弾する計画を立てさせていただきました。王子殿には、これに乗っていただきたく」
「……印象操作は分が悪いんじゃなかったのか」
「母君が絡めば話は別かと。王子殿は覚えておられないかもしれませんが、ローズマリー様は一度、あの子の家庭教師との不倫を疑われたことがあるのですよ」
「……ああ、覚えてるよ」
当然だ。
シャーロットは思わず顔を顰める。
……その噂を流したのは、他でもないフレデリックなのだから。
「あの時、あの子は即座に犯人探しを始めまして。その鬼気迫る様子には、いい歳をした私でさえちょっと怯みましたよ」
「……あんたはそんな時からリンデルに通ってたのか」
「無論です。わたくしめの本業は、癒しの力の研究でございますから。ナラネスラ王家は幾度も教皇一族の血を取り込んでいるにも関わらず、その力を一度も発現させたことがない。これは研究にうってつけの謎ですよ。当然、そんな王家の血を引くあの子も観察対象の一人です」
ハロルドは、癒しの力の研究者らしい。
そんな人がなぜ畑違いの政治に手を出そうとするのか、シャーロットにはますます分からない。
「……あんたは王家に連なる人間を全員追ってるのかよ」
「いえ、それは残念ながら不可能です。情けないことに、ナラネスラ王国内の人間でさえ全ては調べ切れていない状況ですが……あの子の才覚は特別ですから。
人類の奇跡を以ってすれば、何か違いを生めるかもしれない……」
言いながらハロルドは、遠くを見つめるような、夢みがちな目をした。
その様子に名前をつけるとすれば――狂信。
「っ……」
彼の藤色の瞳に色濃く滲んだ、愛とさえ呼ぶべき渇望が、シャーロットの背筋をぶるりと震わせた。
「話を戻しますと、あの子には母君の危機の折に取り乱した前科があります。
子供の頃の話ですから今でも通用するとは限りませんが、それでもある程度の精神的揺さぶりはかけられるでしょう。
あの子の動きを鈍らせることさえ出来れば万々歳です。王子殿は、ただこのまま逃げ切ればいいだけの有利な立場におられるのですから」
「……」
ハロルドの提案を受けたフレデリックは、しかし即応することはなく、黙って壁に背を預けた。
「わたくしめはですね、王子殿。我が祖国ナラネスラの行く末を憂えているのです。王家が神の力に囚われるあまり、国家として本末転倒である内戦まで引き起こしてしまっている……隣国の王子よ、どうか我が国をお救いくだされ」
ハロルドの嘆きと願いを聞いて、シャーロットは微かに目を瞬かせた。
隣国の王族に救いを求めるということは、すなわち自ら併合を望むということだ。
……ハロルドに、そんなことを穏便に決断できるだけの権力があるとは思えない。ブラフか。
「……」
なおも返事をしないフレデリックに、しかしハロルドは怯むことなくつらつらと話し続けた。
「我が国をお任せできるとすれば、貴方様ただお一人です。無論あの子は天才ですが、王子殿の方が意志がお強い。王の器は貴方様にこそあると、わたくしめは固く信じております」
「……」
「わたくしめは、貴方様の即位のためであれば時間も金も惜しみませぬ。――ただ一つ、王子殿が即位されたその暁に、あの子をこちらで引き取らせていただければ報酬としては十分であります。
王子殿といたしましても、あのような化け物がお傍をうろついていては邪魔でしょう?」
この物言いにはシャーロットでさえも眉を顰めた。
レイナールにはそうまでして手に入れる価値があると、フレデリックの目の前で高らかに宣言しているようなものだ。
恐る恐るフレデリックの方を見ると、その微かな胸の動きから、浅い呼吸を繰り返していることが分かった。
……それはまるで、沸き起こる激情を諦念で押さえ込んでいるかのような姿だった。
そんな彼の様子に、ふとシャーロットは考える。
ハロルドがレイナールに骨の髄まで魅了され、その熱情がシャーロットにさえ一切隠し切れないほどになったのはいつからなのだろうか。
……そして、フレデリックを薄っぺらい言葉で煽てながらも、その実レイナールの方を崇拝しているのだと、フレデリック本人に見透かされているのはいつからなのだろうか。
レイナールが五年前に、彼らの密会を目撃している。
……ではその更に五年前、フレデリックがローズマリーに関する悪質な噂を流したときは?
――彼はもしかして、弟の人並外れた才能と魔性に生来の人格を狂わされてしまっただけの、ただの……!
気づいたら、手の震えが止まらなくなっていた。
その事実は、大なり小なり当然のことだとは分かっていたはずなのに、実際に突きつけられると罪悪感で喉が詰まるような思いがする。
……守りたいものには優先順位がある。
だから、そのために切り捨てざるを得ないものは無条件に悪と決めつけて、挙げ句の果てには無意識にそのことを考えないようにして、大義名分があるのだと自分を錯覚させて、自らの弱くて浅ましい心を必死に庇ってきたのだ。
「……っ、ふ……」
床にうずくまって肩で息をしながら、残った正気を振り絞って手のひらで口を覆い、音を立てないようにした。
「――拒否する」
不思議と荒れた心にすっと入ってきた言葉は、フレデリックの返答だった。
「……え?」
見ればハロルドが、豆鉄砲をくらったような顔をしている。
フレデリックは怒り狂ったような、それでいて泣き出しそうな顔をして、口を開いた。
「あんたの助けは不要だと言っているんだ。王位は、王位だけは、必ず俺自らの手で掴み取ってやる。で、そのときは――」
「うぐっ!?」
フレデリックは乱暴にハロルドの胸ぐらを掴みながら、しかしその声は少し落とした。
「――そんときは、あんたも観念して俺を認めろ。もちろん弟も渡さねぇ……アイツは、アイツは俺ごときのせいで己すらも見失いかけてるただの馬鹿だ。あんなのに依存しきって、あの子があの子がって飽きもせず何年も、よく言えたもんだなぁ?」
「……っ、ちがっ……!」
「自分の手柄ですらねぇくせに、うるせぇんだよあんたは」
啖呵を切るフレデリックを密かに見つめながら、シャーロットは目当ての証拠を得られなかったことに気づいた。
唯一の当てが外れたのは痛い。シャーロットとレイナールによる数ヶ月間に渡る努力が水の泡だ。
それでもシャーロットは、フレデリックを追い込む材料を得られなかったことに、ほんの少しだけほっとしてしまった。