30. ワインの効力
グラス一杯でこの上ない泥酔状態。
シャーロットはだいぶ酒に弱いらしい。
婚約者に一切の遠慮なく抱き着かれているこの状況についてはあまり深く考えないようにしながら、レイナールは一人息をついた。
正直身体を案じてしまうほどに急な酔い方だったが、今のところえずく気配はないし、体温も大体正常な範囲内。
あやふやながら意識もあるし、水もなんとか飲ませたので、ひとまずは大丈夫だろう。
……水の飲ませ方については、まあ、明日には全て忘れてくれていることを祈るしかない。
「んっ……ふふ。でんか、いいにおい」
ふわふわと、呂律の回らないままにそんなことを言いながら、シャーロットは幸せそうに微笑む。
いつもなら絶対に見せない表情だ。
たまらず桃色の頭を撫でながら、しかし抑えきれないため息が漏れる。
……劇薬の力を借りなければ一度だってこの顔を引き出せない自分に、ほとほと嫌気が差した。
無理やり婚約しておきながら、一向に彼女を幸せに出来ていない。
幸せになれるだけの時間と心の余裕を与えてやれていない。
滅多に会えない彼女の父親にすら、幸せにすることだけは嘘でも約束できなかった。
それなのに、シャーロットと少しの間会えなくなると分かっただけで、一丁前に不安を覚える。
フレデリックはレイナールを貶めるため、きっとシャーロットに手を出そうとするだろう。
というか、そのつもりで彼女を連れて行きたいと、彼はわざわざ国王に進言している。
もちろんそう仕向けたのはレイナール自身だ。
三ヶ月以上かけて土壌を作ってきた。
フレデリックを出し抜くためには必要なことだった。
それなのに。
「まんまと効いてちゃ世話ないよなぁ……」
自嘲気味な笑みがこぼれる。
「……でんか?」
朦朧としていながらも彼の異変を感じ取ってか、シャーロットが首を傾げながらこちらを見上げる。
「大丈夫だ。気にするな」
「んー……じゃあ、もう一回してください」
「何を?」
聞かれるとシャーロットは、酔って中々言葉が出てこないのか、えーっと、と考える素振りを見せた。
「――あ、お水。お水ください」
「……っ、水?」
ぞくりと、甘い痺れが全身を駆け巡る。
こちらから飲ませる分にはまだ、救命処置だと自分を誤魔化せるが、ねだられるのは訳が違う。
一気に鋭敏になった五感が、押し付けられた柔らかな身体の輪郭を明確なものにし、温かな吐息と火照った肌の醸し出す非現実感を強く意識させる。
溺れるほどの色香に、そういえば彼女が無防備なネグリジェ姿だったことや、自分とて盛大に酔っ払っている状態だったことなんかを思い出す。
思わずごくりと生唾を飲み込んでしまったところで、このままでは長くは持たないと察したレイナールは、一度仕切り直すようにコップを手に持った。
水の入ったそれを、そのままシャーロットに手渡す。
「……へ?」
先ほど水を飲まされたときとは打って変わった対応に、彼女は困惑した様子で首を傾げた。
「さっきよりは落ち着いてるから、自分でも飲めるだろ」
「……そうですね」
何故かやや不服そうな顔をしたシャーロットは、それでもちゃんとコップの水を口に運ぶ。
「なぁ君、まさか全部わざとやってる、みたいなタチの悪いことはないよな?」
「んぇ? 何の話ですか?」
「……違いそうだな。まあ、それはそれでタチは悪いが……っ、あ」
飲み終わると彼女は、何を思ってか今度は首に腕を回してきた。
ずっと近いところにきた潤んだ瞳が、物欲しげにこちらを見上げる。
「――もう一回、してください」
「……あんまり俺を試すなよ」
「えー」
再度使われた言葉の意味は、流石にもう理解できる。思わず目を向けてしまった唇は、艶々と色めいていた。
しかし、こんな状態の彼女の言葉を本気にする訳にもいかないし、第一応じてしまえばそこで止まれる自信が少したりともない。
「えー、じゃない。……次は、君がちゃんと起きてる時にな」
代わりに彼女の腰に腕を回し、その細い首筋に顔をうずめた。
蜂蜜よりも甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「俺なんかに執着されてしまって、君の不運も来るところまで来たな」
そう自虐気味に笑う。
反応を示さない彼女の長い桃髪に指を絡ませながら、その白いうなじをそっと撫でた。
「……愛してるよ」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
○
「ふぁ……」
目覚めるとシャーロットは、いつも通りふかふかのベッドの上にいた。
いつもと違うのは、昨晩このベッドに入った記憶がないことと、胸から腰にかけて何やら温かいものに包まれているような気がすること。
寝起きのぼんやりとした頭がだんだん鮮明になり、事態の把握が進んでいく。
「……ぇ、えっ!?」
何やら人間に抱きしめられているらしいと気づき、思わず声を上げる。
するとその人間は、突然の音に反応して若干身じろぎをした。
「……あ、すみません」
果たして自分が悪いのかもよく分かっていないまま、思わず謝罪の言葉を口にする。
幾分か冷静さを取り戻した頭で、現在自分を抱きしめたまま眠っているのが婚約者のレイナールであることと、彼が珍しくもシャーロットより先に起きていないのは、昨日のお酒がその寝起きを悪くしたからだろうことまで導き出す。
……唯一判断しかねたのは、彼女らがこのような体勢で寝ているのが今日だけなのか、はたまた毎日なのかという点だった。シャーロットとしては割と重大な問題である。
これまで毎朝遅くまで一人で眠りこけてきたことが、ここに来て仇となった。
そうこうしているうちに、彼のまぶたがゆっくりと開く。
目が合うと、彼は寝起きとは思えない爽やかな笑みを浮かべた。
「おはよう」
「……おはようございます」
彼のやや掠れた声に、不覚にもドキリと胸を高鳴らせながらも、シャーロットは持ち前の鋭い観察眼で彼の心中を見極めにかかった。
……表情に驚きのたぐいは一切見られない。
というか図太くも未だ、シャーロットに抱きついたままだ。
つまりこの体勢になっていることは彼の想定内であり、少なくとも寝ている間に自然にこうなってしまった訳ではないということ。
……だが、結局分からない。これが今日限りの状況なのか、いつものことなのか。
「ん? あー、君の体がちょうど良い具合に温かくて快適なんだよ。嫌なら泣く泣く放してやるが」
「……まだ何も言ってませんけど」
当然のように思考を見透かされていることに納得がいかないでいると、彼は愉快げにくつくつと笑った。
「で、どっちだと思う?」
「ぅ……」
先ほどの疑問までバレていたことに戦慄を覚え、思わず顔を引きつらせる。
「まあ、教えてはやらないけどな」
「え、えぇ……」
レイナール相手に交渉などやるだけ無駄なので、すごすごと引き下がる。
それは、いよいよ本題に入らざるをえなくなったことを意味した。
「……あの、殿下」
「どうしたシャーロット」
「その……お恥ずかしながら、昨日の記憶があんまり、というか全くなくて……ここに私を運んでくださったのは殿下ですよね?」
実は起きてからずっと必死に思い出そうとしていたのだが、レイナールのワイングラスに手を伸ばした瞬間から記憶がぷつりと途切れてしまっていた。
というかあれ、よく考えたら間接キスだったんじゃないだろうか。
……それについては深く考えないでおくのが賢明だろう。
問われたレイナールは、何故だか一瞬安堵した表情を浮かべたような気がしたが、すぐにいつもの緊張感のない顔に戻った。
「まあ、そりゃそうだが」
「ほ、本当にすみませんでした……えっと、その前は何かありましたか?」
「その前? あー、『負けた方が相手の言うことを何でも聞く』ってルールでチェスを、軽く八回ほど」
「……っ!? え、う、嘘ですよね……?」
よりによってレイナール相手にそんな無謀なことをするなんて、脳みそがついていないか、自殺志願者としか思えない。
……それを自分が?
命がいくつあれば足りる?
「ははっ、冗談だ。ビビりすぎだろ」
「冗談になっていないですよ……本当は何があったのですか?」
「んー……」
何と言うか考える素振りを見せながら彼は、何故かシャーロットの首筋を軽く撫でた。
そのまま手のひらをゆっくりと動かし、シャーロットの右頬を覆うような状態で止める。
「え、ちょっ……」
「……」
額が重なるほどに近づけられた顔が、否応なくあの日の――彼と婚約した日のことを思い出させる。
ライラックの花より鮮やかな紫色の瞳が、確かな知性を秘めて燦然と輝く。
じんわりと頬に熱が集まって、それが彼に見られてしまっていることが強く意識された。
「……っ、待って……」
思わず彼の胸を押して、どうにか一度距離を取る。
そんなシャーロットの反応に彼は全く動じることなく、ただ嫋やかな笑みを浮かべてこう言った。
「昨日のことは、知らない方が君のためだよ」
「え、えっ」
「そろそろ起きようか」
そう言われるととんでもなく気になってしまうが、彼は話を打ち切るように、半身を起こした。
「……っ」
しかしそこで、彼が一瞬だけ苦しげに目を細めたのを、シャーロットは見逃さなかった。
「そういえば殿下、体調の方は?」
聞くと彼は、やや震える手つきで自身のこめかみを抑えた。
「……頭がズキズキして痛い。胃がひっくり返ったみたいに気持ち悪い。端的に言うと、吐きそう」
その引きつった笑みが物語ったのは、完膚なきまでの二日酔いだった。
「……もう、言わんこっちゃないです。ばか」




