魔王の進撃と、聖女の決断
国境付近の平原は、鉄と血の匂いに満ちていました。 アステリア王国の残党軍は、なりふり構わぬ様子で旧式の魔導兵器を並べ、声を荒らげていました。 「レティシアを返せ! 彼女は我ら王国の所有物だ! 聖女がいなければ、我が国は滅びるのだぞ!」 その先頭に立っていたのは、かつての騎士団長でした。彼らは自分たちがどれほど無礼なことを口にしているか、理解すらしていないようでした。
空が、一瞬にして夜のように暗転しました。 雲を切り裂いて舞い降りたのは、死そのものを体現したような、黒い翼の皇帝でした。 「……所有物、と言ったか?」 ヴォルデレード様の声が、平原全体に轟き渡ります。その一言だけで、並んでいた魔導兵器の半分が圧力に耐えきれず粉々に砕け散りました。
「ひ、ひいっ……! 魔王だ、魔王が現れたぞ!」 「レティシアは、我が魂の片割れ。私の世界のすべてだ。それを所有物と称した罪……全軍の命を以てしても、到底足りぬな」 彼が指を鳴らした瞬間、天から黒い炎が降り注ぎました。 それは魔物だけを焼き、大地を浄化する「魔王の業火」。 圧倒的な力の差の前に、王国軍は戦うことすら叶わず、ただ恐怖に叫ぶしかありませんでした。
その時、戦場に柔らかな白銀の光が差し込みました。 空中からゆっくりと降りてきたのは、光の翼を広げた私、レティシアでした。 「レティシア⁉ 来るなと言っただろう!」 ヴォルデレード様が焦ったように私を庇いますが、私は首を振って彼の隣に立ちました。 「いいえ、あなた。これは私の過去との決着でもありますから」
私は、震えながら武器を落とした王国軍の者たちを静かに見つめました。 「皆さんに、お伝えします。私はもう、アステリア王国のレティシアではありません。私は、この国の、ヴォルデレード様の妃です」 私の声は、聖女の魔力を通じて戦場全体に響き渡りました。 「私を必要としたのは、私の『力』だけでした。けれど彼は、私の『心』を救ってくれた。どちらが真の王であるか、今この場で証明されました」
私が手をかざすと、白銀の光が平原を包み込みました。 それは攻撃ではなく、完全な「断絶」の魔法。 帝国とアステリア王国の間に、何人たりとも越えることのできない巨大な光の障壁がそり立ちました。 「今後、アステリア王国の者がこの境界を越えることは許しません。……あなたたちは、自分たちが捨てた光の重さを、その暗闇の中で噛み締めて生きてください」
それは、聖女としての最後で最大の慈悲、そして冷徹な訣別でした。 王国軍は、光の壁の向こう側へと強制的に転送され、その姿を消しました。 後に残ったのは、静寂に包まれた平原と、私たち二人だけ。
「……やり遂げたな。レティシア」 ヴォルデレード様は翼を閉じ、私を優しく抱きしめました。 「はい。……これで、本当におしまいです。私の過去も、悲しみも、すべて」 彼の胸に耳を当てると、激しく脈打っていた心臓が、次第に穏やかなリズムを取り戻していくのが分かりました。
「さあ、城へ帰ろう。結婚式の続きだ。君がどれほど美しく輝いているか、国民全員に自慢しなければならないからな」 「もう、あなたったら……。自慢しなくても、私はあなたのそばを離れませんよ」 私は彼の手を強く握りしめました。 もう、影を歩く必要はありません。 私は私の意志で、この世界で一番愛する男性の隣を、光とともに歩んでいくのです。
夕焼けが私たちの影を長く伸ばし、重なるように寄り添う二つのシルエットが、確かな幸せを物語っていました。




