第5話
梅雨も明け、蝉たちの声がうるさくなりだした頃、私と高坂さんはお昼を熱い日差しが照らす屋上で一緒に食べるようになっていた。もちろん遠く離れてだけれど。
高坂さんの肌も東京の日差しで焼けて今では私と同じくらいになった。
あれほどまでにあり得ないと思っていたのに、私の高坂さんは友達になっていた。そして私の世界は確かに変わった。
私は孤独ではなくなった。
教室のクラスメイト達は学校を代表する変わり者同士が仲良さげに話しているのをみてさぞや異様な光景だと思っていることだろう。相変わらず、私も高坂さんもクラスからは浮いたままだった。
私は高坂さんに自分の秘密を語ることにした。彼女は意外にも自分からは尋ねてこなかった。けれど、だからといって私がいつまでも隠しているのはずるいと思って、私は勇気を出して自分から話すことにした。
「私の息は毒なんだ」
私がこのことを身内の人以外に話すのは初めてだった。普通だったらこんな告白をしても、何を言っているのだろうと一笑されてしまうだろう。けれど高坂さんは河原で私が不良たちを失神させた現場を見ていた。だから、笑わなかったし、かといって恐れもしなかった。
「なんでマスクを毎日つけてくるのかって前聞いたよね。このマスクは防毒マスクなんだ。これを着けている限り私の毒は外には出ない。だから私はマスクを外すことが出来ないの」
「その毒っていうのはどのくらい強いんだ?」
高坂さんがそう尋ねてきたので私は「半数致死濃度」を教えた。もちろんよくわからないだろうからとりあえずかなりやばいという事だけは明確に伝えた。
「なんか、まるで女版ねずみ男みたいだな」
私はばたんと前のめりに倒れた。討ち死だ。これまでさんざん言われてきたけれど、今までで一番ひどい。
「おいおい、冗談だよ」
「冗談じゃないよ! 泣きそうになったわ!」
とりあえず私は切れてみた。けれど高坂さんはそんな私を見てもけらけらと笑うだけだった。
「なあ、マスク外してみてよ」
「・・・・・私の話、聞いてた?」
「ああ、やばいんだろ。けどその間わたしが息止めてたら大丈夫だろ」
「絶対にダメ」
私が断固拒否すると、高坂さんは不満そうに口をとがらせた。しかしそれであきらめてくれたわけではないらしく、しつこく何度もマスクをはずしてみろと迫ってきた。そのたびに私は毅然とした態度で拒み続けた。
「わかった。夕、お前じつはブスなんだな」
なんてことを言うのだろうこいつは!
「マスクでブスなのも隠してるんだろ」
ますますなんてことを言うのだろうこいつは!
私がカッとなって振り返った瞬間、ぱっと高坂さんの手が伸びてきてあっという間に私のマスクをとってしまった。
何をしてるんだこいつは!
「へー、そんな顔してたのかお前」
奪ったマスクを手で弄びながら高坂さんはそういうと、さらに近づいてきた。私はあわてて口と鼻を両手で押さえて息をとめた。
すると高坂さんはますます近づいてきて、私の長い前髪をかきあげるとじろじろと私の顔を無遠慮に眺めた。私はなんだか知らないけれど恥ずかしくなって顔が火照った。
「なんだ、お前美人なんだな」
・・・・・何を言うんだこの人は!
とりあえず私は高坂さんをどうにか両手を伸ばして押しのけると、その手からマスクを取り戻し装着した。
「何すんだ馬鹿」
「馬鹿とは何だ馬鹿とは」
そして高坂さんは意地わるそうに笑った。なんだか彼女の笑顔を見ていると、今まで自分があれだけ悩んでいたことがとてもくだらないことのように思えてくるから不思議だった。私の不安も恐れも。その笑顔の前では形を成さない。
「今度さ、試合あるんだ。アマチュアの試合なんだけど。北海道じゃ、私と同じ階級の女子の選手なんかあまりいなくてさ。だから試合は初めてなんだ。デビュー戦、見に来てよ」
「分かった」
二つ返事で私は答えた。
そして当日。私は生でボクシングの試合を見るのは初めてだった。高坂さんが入場してきた時は私の方が緊張して手が少しだけ震えてしまって、それを晴兄に茶化された。
試合はヘッドギア着用、三分三ラウンド制で行われた。
序盤から高坂さんは相手を完全に翻弄していた。高坂さんが綺麗な円を描きながらパンチを繰り出すのに対し、相手の女の選手は鋭く踏み込んで近い距離で高坂さんをとらえようとする。けれど高坂さんはその都度鋭いジャブを打ち出して、牽制し距離を詰めさせない。そして相手がひるんだとみるとジャブからのコンビネーションを的確に相手に打ち込んでいった。
「いいボクシングするな、ライオンちゃん。さすがレナードの娘だ」
ボクシングに関しては辛口の晴兄が口笛を吹いてそういった。
そして第一ラウンドが終わり、第二ラウンドに入っても高坂さんが始終優勢に試合を進めた。リズミカルに放たれるパンチと軽やかなステップ。高坂さんはまるでリングの上で踊っているようだった。観客の人たちからも感嘆の声が上がった。
そして、ファイナルラウンド。晴兄の予想ではこれまでのラウンドは高坂さんがポイントを取っている。このまま逃げ切れば勝てる。しかしこのラウンドでも高坂さんは手を休めずに攻め続けた。とにかく回転が速い。完全に手数で相手を圧倒していた。
ついに高坂さんのストレートが相手の顎をとらえた。相手の人の膝が落ちるのを見ると、高坂さんはそれまでの華麗な動きをやめ、自ら踏み込んでいってラッシュをかけた。試合を決める気だ。だが、その瞬間苦し紛れに放った相手のフックが高坂さんの顎をとらえた。そして高坂さんの足元がぐらついた。
相手の選手はその高坂さんを見ると猛然と逆襲し始めた。高坂さんもバックステップでかわそうとしたのだけれど、足がもつれてしまって上手くよけることが出来ず、再び顎にストレートをもらってしまった。そして、急に力が抜けたかのように尻もちをついた。
ダウンを取られた。審判のカウントが始まった。高坂さんはどうにか立ち上がろうと必死になったけれど、足ががたがたと震えてしまっていて上手く立ち上がれなかった。それでも高坂さんはあきらめてはいなかった。その目はぎらぎらと輝いていたから。
「高坂さん!」
気がつくと私は立ち上がって大声でそう友達の名前を呼んでいた。
大声を出したおかげで高坂さんに私の声が届いた。高坂さんはちらりと私たち観客席の方に視線を送った。
目があった。
高坂さんはいつかと同じように、にやりと不敵な笑みを浮かべる。そして立ち上がった。
立ち上がった高坂さんはダメージが残るからだで、しかし果敢に攻めた。それでも相手からついにダウンをとることが出来ず、高坂さんは判定の結果僅差で負けてしまった。
「悪い。負けた」
汗を滝のように流しながら高坂さんはそう笑って謝った。強がっているのは丸見えだったけれど、私や晴兄の前では絶対にこの子は泣かないんだろうと思う。
「内容はよかった。けど最後の詰めがな。ラッシュかけんのはいいけどあの時だけガードが甘くなってたな。まあ、それ以外はたいしたもんだったぞ」
「いやー。初めての試合だったんで焦っちゃいました」
作り笑いを浮かべていた高坂さんがふと顔をあげた。そして私たちの後ろに視線を止めた。
「親父?」
私が驚いて振り返ると、一人の男性が立っていた。すらりとした男の人で、高坂さんにそっくりな切れ長の目をしていた。晴兄はあまりのことに目を見開いたまま、間の抜けたように口をぽかんと開けて停止した。この人が高坂さんのお父さんなのだろうか。まとっている空気が同じだった。
「どうして?」
高坂さんの口からこぼれるようにその問いが発せられた。
高坂さんのお父さんは無言で高坂さんに近寄ると、ぱんっ、と横面をはたいた。はたかれた高坂さんはしばらく呆然としていたけれど、直ぐに立ち直って鋭い瞳で睨みつけた。しかしお父さんはそんな高坂さんを胸に抱きしめた。
「おしかったな」
お父さんがそう一言声をかけると、高坂さんは堰が切れたかのようにぼろぼろと涙を流し始めた。私たちには絶対に見せないであろう自分の弱さを。ただ静かに流した。
「ねえ、私の両親は幸せだったのかな?」
「は?」
その日の夜。お風呂上がりの私は晴兄と一緒にテレビを見ていた。だからだろうか、気が緩んでぽろっとそんなことをいってしまった。
「高坂さんのお父さん見て思ったんだけどさ。なんだかんだ言ってあの二人は幸せそうだったじゃない。喧嘩していてもさ、お互いはやっぱり特別なんだなって気がした」
「そうかね。まあ、親子なんてのはそんなもんなんじゃないか。俺は一番めんどくさい繋がりでもあると思うけどな」
また余計なひと言をつけたす。この人の減らず口は一体どうしたらなくなるのか一度真剣に考える必要がある。
「お父さんとお母さんは私を産んだことを後悔したり、私のこと邪魔だとか思わなかったのかな。まあ、そう思われても仕方ないって思うんだけどね。私だって自分の子供が毒吐くような子供だったら、どう思うかわからないし。けど、私を産んだせいで、お父さんとお母さんが不幸せになったんだったら、それは嫌だなって思うよ」
「馬鹿かお前」
そういうと晴兄はテレビを消して、そのリモコンで私の頭を殴った。しかも、結構本気で。
「毒を吐くのは、なにもお前だけじゃない。マスクをしている分お前の方がまだマシさ。くだらないこと考えやがって。まあ、しかしそんなこと言いだすってことは、ちょっとは強くなったってことか」
晴兄はそういうと少し考え込むように、黙り込んだ。そして黙ったまま腰を上げると、リビングから出て行って、しばらくすると大きな段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「開けてみ」
晴兄はどんっとその段ボール箱を床に置くと、そう私に促した。
段ボールはかなり古いもので、黄ばんでいたし角がよれよれになっていた。その上ガムテープで閉じてから何年も経っているらしく、はがす際にべったりと粘着剤が糸を引いた。
それでもどうにかガムテープを全部引き剥がして開けてみると、中には段ボールいっぱいに分厚いファイルやノート、それに紙束が山積みになっていた。
私はそのうちのノートを一つ手にとってめくってみた。すると細かく几帳面な字で私には理解できない数式や専門用語が並んでいた。
「この中に詰まってるのは、お前の親父の研究のすべてだよ」
そういって晴兄はつま先で段ボールの箱をつついた。
「お父さんの?」
「お前のそのマスク。作ったのはお前の親父だ。言っておくけどな。お前がしているそいつは、お前が考えている以上にすごいんだぞ。それこそ、そういう企業に売り込めば結構な金になるほどの技術がそのマスクにはつまってる。兄貴はお前が毒を吐くってことに気がついてから必死になってお前の毒の研究をした。まあ、もともと大学で薬学の教鞭をとってた人だからな。専門ではないにせよ、知識はあったわけだ。それで仕事の合間を縫って、大学の研究器具なんか勝手に借りてさ、思考錯誤を重ねたんだ」
それは全て初めて聞く話だった。晴兄はいままで自分からお父さんのことなんか話してくれたことがなかった。
「おれさ、正直言うと兄貴、つうかお前の親父のことだけど、あんま好きじゃなかったんだよね。兄貴と俺はさ、一回り以上年が離れてたっていうのもあったけど、あの人昔から頭良くて、クールでさ。すごくとっつきにくかった。特に冷血ってわけじゃないんだけど、なにかに熱くなったりしてるとこなんて見たことがなくて。何考えてんのかもよくわかんなかった。兄貴は、娘のお前の前でいうのも何なんだけど、俺に似て顔は良かったから結構もてたんだ。けど、たくさんの女と付き合ってたけど、どれとも長くは続かなかった。それで俺、この人結婚しないんだろうな、とか勝手に思っててさ。だから、兄貴がお前の母ちゃんと結婚するっていいだした時はびっくりしたんだ。まあ、そういう意味じゃ、よっぽど馬があったんだろうな」
『俺に似て顔は良かった』って部分は大いに疑問だったけれど、話に口をはさむのも嫌でぐっとこらえた。そんな私のことなどお見通しとばかりに、晴兄は小さくにやりと笑ったが話を続けた。
「だけどな、一番驚いたのはそこじゃない。そんなクールな兄貴がだよ。お前が生まれた途端、デレデレし始めて、赤ちゃん言葉とか使い始めたんだぜ。キャラ変わりすぎだろって。まあ、鳥肌が立つほど気持ち悪かったよ。けど、そんなお前を溺愛している時の兄貴が、そんでお前のために必死になってマスクを作ってる時の兄貴が、俺が知っている中で一番人間ぽくって親しみやすかったんだよ。よく考えるとさ、お前が生まれてからなんだよね、俺が兄貴とちゃんと向き合って話せたのって。だから俺はお前に感謝してる。兄貴たちが幸せだったかどうかはわかんないけど。少なくとも兄貴もお前の母ちゃんも楽しそうではあったよ。お前の母ちゃんも変わった人でさ。そんな兄貴の親バカぶり見て楽しそうにいつも笑ってた」
「・・・・・そうなんだ」
「ふふ、安心したか。馬鹿め」
そんな憎まれ口をたたきながらも少し恥ずかしそうな晴兄に心の中で私はお礼を言った。
そして私は深く息を吸って、一つの決断をした。この機を逃してしまうとたぶん一生聞けないと思ったから。私は晴兄に尋ねた。
「・・・・・・あのさ、もう一つ聞いていいかな」
「なんだよ」
「私は子供のころの記憶って霧がかかっているみたいでよく思い出せない。だから、私の両親が交通事故で死んだっていうのも晴兄やおじいちゃん、おばあちゃんがそう言ってたからそう信じてるだけなんだ」
私はぐっとおなかに力を入れて、私の中にある少ない勇気を振り絞って口を開いた。
「私はお父さんとお母さんのこと、殺してないよね?」
晴兄は黙り込んだ。
言ってしまった。けれど意外にも自分が冷静さを保てていることに逆にびっくりした。私は何度この問いを自分の中で繰り返してきたのだろうか。けれど怖くてずっと胸の奥にしまいこんできた。
私は一度中学生の頃に図書館で両親が死んだという時期の古い新聞を集めて、片っ端から目を通し両親の死亡記事を探してみた。けれど、見つけることは出来なかった。
その後、いつも「半数致死濃度」を計ってもらっているお医者さんの目を盗み、私のカルテを見たことがあった。その時に私が五歳の時に急激に私の毒性が強まっていることに気がついた。そしてそれは私の両親が死んだ時期と重なった。
「私は一つの仮説を立てたんだ。私が五歳の時に、ある日急激に私の毒性が強くなった。そうとは知らない両親がいつもどおりに私に接して、私の毒に侵されて死んだ。それを晴兄たちは交通事故だったっていって私に隠しているんだ。そう考えると、いろんなことのつじつまが合う。私がお母さん方のおじいちゃん、おばあちゃんに一度も会ったことがないのは、そのことを知っていて、娘であるお母さんを殺した私のことを憎んでいるからじゃないの? 晴兄やおじいちゃん、おばあちゃんが全然お父さんとお母さんのこと話してくれないのも、お父さんたちの遺品がほとんど家に残っていないのも、私のために必死にお父さんやお母さんのことを忘れようとしているからなんじゃないの。お父さんとお母さんを殺した私を恨んだり憎んだりしないために――――」
「夕」
気がつくと晴兄が私のことを抱きしめていた。余りにもきつく抱きしめてくるものだから私は息をするのも苦しくなってしまった。
「違う。間違ってるよ、お前。そんなことがあるわけないだろ」
へらへらといつもの調子で晴兄は笑っていた。けれど、抱きしめられているせいで顔は見えなかった。
「馬鹿だなー。本当に馬鹿だよ。そんなことを一人で悩んでずっと抱え込んでたのか。よく考えろよ。俺の兄貴は頭がよかった。それにお前のことについてはこの世のだれよりもよく知ってた。そんな不慮の事故を招くほど間抜けじゃないさ。兄貴たちは本当に交通事故で死んだんだ。きっとお前は記事を見落としたんだよ。そんな大きな事故じゃなかったし、丁度派手な殺人事件が起きた日と重なったからな、その記事に差し押さえられたのかもしれない。あとな、お前の母ちゃんの両親は亡くなってるんだ。もうだいぶ前に。お前の母ちゃんと兄貴は駆け落ちまがいな結婚だったからな。その際に一度勘当されて絶縁状態だった。それに交通事故も兄貴が運転していた車だったから、葬式にも出るに出れなかった。それだけのことだ。とにかくお前が考えていることなんかは全くの完全なる見当はずれなんだよ」
そう言い終わってもしばらくの間、晴兄は私のことを抱きしめたままだった。素に戻ると、かなりの密着度なのでなんだか私の方が恥ずかしくなってしまって、引き離そうとすると晴兄はようやく口を開いた。
「お前、高二でこの胸はやばいだろ。牛乳とかちゃんと飲んでんのか?」
私の逆鱗に触れるどころか紙やすりでごしごしと削った晴兄の顛末は語るに及ばないだろう。