第3話
「どうした。なんか元気ないな」
私が寝間着姿で、一人リビングのソファーに座り、ボーッとしていると叔父である「晴兄」こと茅原晴彦はそう呟いた。
「そんなこと、ないよ」
「何年一緒に暮らしてると思ってんだろうね、この人は。嘘つくなよ、めんどくさい」
ぼさぼさの頭をぼりぼりと掻きながら、晴兄は眉を寄せた。
「めんどくさい」が口癖の晴兄は父の弟なのだが、父とは一回り以上年が離れているのでまだ若く、今年二十代最後の月日をつまらなそうに謳歌している。
「別に、本当になんでもないよ」
「お前がそんな顔してると、きっと死んじまった兄貴もお前の母ちゃんも草葉の陰で泣いてるぞ。そしてその涙で池が出来、虹がかかり、そこに物語が生まれるんだ」
晴兄はよく本気なのか冗談なのか分からないことを平気な顔をして言う。しかし、どちらにせよデリカシーというものは持って生まれてこなかったようで、たまに本気で一発横面をひっぱたきたくなることがある。しかもたちが悪いことにこの人、基本めんどくさがりで怠け者のくせに、人が落ち込んでいる時などには人生で一番の輝きを見せるという一面を持っている。要するに「めんどくさい」が口癖のその本人が非常に「めんどくさい」人間なのだ。
いつもだったら怒ってこぶしを振り上げながら追いかけまわすのだけれど、さすがに今回はそんな元気もなく、晴兄の言葉に素直に落ち込んでしまった。
「なんだ、気持わるいな」
私の反応の悪さを見ると、晴兄はそろそろと心配して近づいてきた。なんだかんだ言っても根はいい奴なのだ。なので私はとりあえずチョップを頭に見舞ってやった。
「で。どうしたわけ」
打って変わって真顔になった晴兄が、真剣なまなざしを向けてくるものだから、私は今日あった出来事を洗いざらい話した。もちろんパンツのくだりは省いたけれど。
「―――はぁ、それでライオンちゃんは謝ってどっかいっちゃったわけだ」
どうやら、ライオンちゃんとは高坂さんのことらしい。私がこくりとうなずくと、晴兄はこともあろうか鼻で笑った。
「何が可笑しいのよ」
私はその馬鹿にしたような笑みに苛立って、声を荒げてしまった。だけど、悔しいことに晴兄はそんな私を見ても眉一つ動かさないのだ。
「いや、別に。ライオンちゃんかわいそうだな~って思っただけだよ。せっかく友達になろうと思ってお前に声かけたのに」
「友達に? そんなんじゃないと思うよ。ただ気まぐれでクラスにいる変な奴に声かけてみたってだけだよ。私と高坂さんじゃ、違い過ぎるもん」
そうだ。私の知っている高坂さんはそういう人じゃない。本当にただ興味が湧いたってだけなんだ。ましてや、高坂さんと私が友達に? あり得ない。そんなことは磁石の同じ極同士がくっつかないのと同じくらいあり得ないことだ。
「あー。おれさ、基本お前のこと好きだけど、そういうとこ嫌いだわ」
そう、静かに発せられた晴兄の言葉を聞いて、私はびっくりして思わず床に座り込んでしまった。
「・・・・いくら晴兄でもさ、そ、そんな言い方ってないんじゃない」
思わず声が震えてしまったけれど、泣いてしまったら負けだと思って、ぐっと唇を噛んで耐えた。
「お前ってさ。勝手に決め付けて、自己完結するよな。どう自分のこと正当化してるのか知らないけど、お前のやってることってただ単に怖くて逃げてるだけだろ」
晴兄の言葉は私の心の一番無防備で柔らかい部分に深々と突き刺さった。
「晴兄なんかには、分からないんだよ。私の気持ちが!」
「分からねーし、分かりたくもねーよ! ・・・・って一度は言ってみたいセリフだよね?」
そう言ってけらけらと笑う晴兄に私は本当に腹が立った。あたりかまわず、手に取った携帯とかテレビのリモコンとかを投げつけてやったのだけれど、ことごとく器用によけられてしまって悔しくてさすがに涙がにじんできてしまった。
「正直な話、お前ってなんか自分の人生って、こんなもんだよねって決めつけてるようなとこあるでしょ。毒吐くから、マスクをずっと着けてなきゃいけないから、とかそういうこと言い訳にしてさ。それで、ああ、私はなんて不幸な子なんでしょう、って一人で安い悲劇のヒロインごっこですか? お前に友達できないのも、ずっと一人ぼっちなのもお前が吐き出す毒のせいじゃないね。お前が臆病ものなだけだ。嫌われたり、笑われたり、裏切られたりするのが怖くて逃げてるだけだろう。弱すぎるんだよお前は。身内としてはさ、そういうお前の姿見てると、すごくイライラする」
ここまで、人を傷つけることをためらわないのは本当に同じ人間かとさえ思った。悪魔的に容赦がなく無神経だ。けれど正論だった。
晴兄の言葉は的確に私の心をずたずたに引き裂いて、私は出血多量で危篤状態に陥った。怒りさえも湧いてこないほどに徹底的にたたき伏せられてしまった。
「やっべえ、俺今いいこと言っちゃった?」
晴兄はそういって、すこし得意げに胸をそらせた。私はというと、そんな晴兄に突っ込む気力もなく、なんだか全身の力が入らなかった。晴兄は面白がって、そんな私の周りをくるくると回って、それに飽きると私の頬を引っ張って延ばしたりして遊んだ。そんなことをされても私は反応しようにも力が入らなくて出来なかった。人は心をノックアウトされると動けなくなるらしい。晴兄なんか死んでしまえと思う一方で、なんだかすごく楽しそうに、私に変なポーズとかさせて喜んでいる晴兄がこの期に及んで愛おしくなってしまう私はどうやら本格的に危ないらしい。
しばらくして、遊びに満足したのか晴兄はひょいっと私を抱きかかえると、そのまま私の部屋に向かい、物を放るようにポン、と私をベッドに放り投げた。そして、その上から布団をかけると、晴兄は静かに私の耳元で囁いた。
「明日、学校に行ったらライオンちゃんに謝ってみな。大丈夫、お前が考えているよりこの世界はもう少しだけ優しいから」
私は枕に顔をうずめたままかすかにうなずいた。
「お休み、夕」
そういうと、晴兄は電気を消して、音もなく扉を閉めた。
翌朝目を覚ますと、どうにか動けるほどには回復していた私は、とりあえず隣の部屋で晴兄がまだ寝ているのを確認してから彼のパソコンを立ち上げて彼が長年かけて集めたのであろう膨大な量の一八禁の動画、画像等を全てデリートした。
それでも怒りは完全に収まらなかったので、この前デジカメで撮った晴兄の、百年の恋も冷めるであろう、究極に不細工な変顔を彼のメールサーバーから、彼の知り合いに一斉送信しておいた。パスワードを安易に自分の誕生日で統一などするからこういう目に会うのだ。復讐はこのように徹底的に行われなければならない。
それで、少し胸が軽くなった私は、晴兄の断末魔を聞けないのを少し残念に思いながら家を出た。
今日学校で高坂さんに謝ろう、そう決めていた。晴兄の言葉を信じたわけじゃないけれど、とにかく高坂さんにきちんと謝るんだ。昨日のことで、私は高坂さんに嫌われたかもしれない。だけど、どう思われていようとも謝るんだ。もしここで逃げたら、私は本当の臆病ものだ。
しかし、そう思うのだけれど。私はどうしてもきっかけがつかめず、ただ時間だけが過ぎて行った。
このままではいけない。どうしても今日中に捕まえて謝らないと。たぶん明日になったら私は怖気づいてしまう。そう直感した私は勝負を放課後に託した。高坂さんは部活に入っていなかったから直帰するはずだ、それを待ち伏せれば捕まえられるだろう。そう考えて、私は放課後に向けて覚悟を固めた。
そして学校の終わりを告げるチャイムが鳴ると、私は誰よりも素早く校門に駆けつけ、高坂さんを待ち伏せるため目立たないようにスタンバイした。
しばらくすると、ぞろぞろと下校する生徒の集団が続き、それが途切れた頃にふらりと高坂さんが現れた。
後は駆けよって、一言ごめんと謝ればいい。それだけのことだ。簡単なことだ。
けれど、いざ動こうとすると、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。その間にも高坂さんは校門を抜け、遠ざかっていく。
このままではいけない。私は自分を奮い立たせてとりあえず高坂さんの後を追うことにした。きっとチャンスは巡ってくるはずだと信じて。
高坂さんは肩からバックをぶら下げながら歩いていた。私は今だ、今だと思いながらもどうしても声をかけられなかった。そのうちに彼女はふらりと街道をそれて、多摩川の河川敷に降りた。家に帰るのではないのだろうか? その後も彼女はぶらぶらと当てもなく歩いているようだったのだけれど、線路の走る鉄橋の下にさしあたると、親しい友達にあったかのように手を挙げた。
「待たせちゃったか?」
そう、高坂さんは気軽に話しかけた。そして私の記憶が正しければ、高坂さんが声をかけた相手は私の高校の上級生で、高坂さんが返り討ちにしたという噂の女不良グループの人たちだった。
「本当に一人で来たの。まあ、あんたには助太刀頼めるような知り合いもいないんだろうけどね」
そういうと、上級生の人たちは嫌な笑い方をした。上級生の女の人たちは全部で三人だった。けれど、一緒に他校の男の人たちが四人もいた。
「いやさ、別にすっぽかしてもよかったんだけど、今時こんな呼び出しの手紙書くセンスの人間を一目見てみたくてさ。けど残念。お前たちには興味ないんだ」
高坂さんは笑いながら、聞いている方がハラハラとするようなことを平気な顔をしていった。余りの豪胆さに上級生の人たちも唖然としているようだった。
高坂さんはそんな上級生たちをしり目に、まるで準備運動をするかのように首や手足の関節をまわしながら、軽くステップを踏んだ。
「まあ、わたしも喧嘩は売られたら買う主義だからさ。遊んでやるからさっさと来なよ」
そういうと、高坂さんはまるで来いとでも言うように上級生に向かって手招きをした。
「そんだけ、言うんだ。男呼んだからって卑怯とかいわねーよな」
「安心しろって。お前らみたいな女につき従ってる男なんて数のうちに入らないから」
それまで、野次を飛ばしたり、にやにやと笑みを浮かべていた男の人たちは高坂さんの言葉を聞くと笑うのをやめた。
空気が張り詰めて行くのが分かった。いくら高坂さんが数々の武勇伝をもっている女の子でも男の人と本気で喧嘩してかなうはずがない。私は慌てて警察に電話しようと、ポケットに入っているはずの携帯を探った。けれど、いくら探しても見つからなかった。私は半ばパニックになりながらバックをひっくり返して携帯を探したのだが、そういえば昨日晴兄に向かって投げつけたままだったことを思い出した。
どうしよう。最近じゃ公衆電話なんか置いてないし、ましてやここは河川敷だ。助けを呼ぼうにもあたりに人の姿は見えなかった。そうこうしているうちに、男の人たちは高坂さんとの距離を縮めていた。高坂さんと男の人たちは並んでしまうと頭一つ分くらい身長差がある。絶対に無理だ。早く逃げてくれと私は祈ったけれど、その祈りが高坂さんに届くことはなかった。
ついに先頭の男の人が高坂さんを見下ろすほどの位置まで近づいた。そして、腰を曲げて高坂さんの顔を覗き込むようにして口を開いた。
「君さ、あんま舐めた口きいちゃいけないでしょ。目上の人を敬うようにお仕置きしなきゃね」
「お仕置きって。どこのセーラームーンだよ、お前」
高坂さんがそう言い終わるのと、その男の人の頭が激しく揺れるのはほとんど同時だった。下から打ち出されたパンチが正確に男の人の顎を打ち抜いていた。その人は顎が上に跳ね上がると、かくん、とひざから崩れ落ちた。
見事なまでの「アッパー」だった。ボクシングファンである晴兄の影響で私も多少の知識は持っていた。綺麗な軌道を描いて打ち出されたアッパーは、一撃で男の人の意識を断ち切った。そのあまりの見事さに私は思わずほれぼれと見入ってしまった。そしてそれは向こうも同じだったらしく、みんなあんぐりと口を開けていた。
対する高坂さんは特に興奮した様子もなく、一番近くにいた派手な金のネックレスをしている男の人を次の獲物に選んだ。瞬時に距離を詰めると相手が身構えるすきも与えず、目にも止まらぬワン・ツーを繰り出した。するとその人は鼻から盛大に鼻血を出して尻もちをついた。
二人目の仲間が倒されたのを見て、ようやく遅れて残りの二人が反応し、そのうちの片方の男の人が高坂さんに殴りかかった。私はそれだけで心臓が縮む思いをしたのだけれど、高坂さんは軽快なフットワークと共に頭を小刻みに動かして的を絞らせなかった。そして男の人のパンチにカウンター気味にストレートと左フックを叩きこむと、男の人の腰が崩れた。さらにたたみかけるようにボディーに二発と右アッパーを放ち、男の人が倒れるのを確認することなく、残りの一人に襲いかかった。
最後に残ったロン毛の男の人は恐怖に顔を歪めながら、ぶんぶんとこぶしを振りまわした。けれど、高坂さんの動きに集中して見ていると、なんて遅くて無様なのだろうとさえ思えた。それほどに高坂さんの動きは圧倒的で、洗練されていた。
私はすっかり高坂さんの戦いぶりに見入ってしまっていた。そのせいで上級生たちのことを失念していた。ふと気がつくと、上級生の女の人の一人が高坂さんの後ろに回り込んでいて、男の人に華麗にジャブを放つ高坂さんに後ろから忍び寄ると、ポケットから何かを取り出した。それは見なれない形をしたものだった。遠目から見ている限りそれが何なのか分からなかったけれど、不吉な予感だけはした。
「後ろ!」
私は大声で叫んだ。高坂さんが声に反応して振り返るのと、上級生の女の人がそれを高坂さんの背中に押し当てたのは同時だった。その瞬間、バチッ、という静電気が起きた時の何倍も大きい音と共に高坂さんはびくんと跳ね上がるように痙攣すると、糸が切れたかのように倒れた。
スタンガンだ。テレビの中でしか見たことがなかったけれど、それがどういうものかくらいは知っている。高圧電流を流された高坂さんは気絶したのかピクリとも動かなかった。
「ちょ、調子に乗るからだよ!」
さすがにスタンガンを使った上級生の女の人は怖くなったのか、がくがくと震えながらも虚勢をはって怒鳴った。だけど、私はその人以上にひどく震えていた。体中の震えを止められなかった。
ダメだ。このままじゃ、高坂さんが死んでしまう。助けなければ。けど私に何が出来る?私に出来ることは何だ? なにも思いつかない。何も出来ない。
私の思考はぐるぐると空回りを続けた。それでも何かないかと必死になって考えた。
私が何もできずに一人震えていると、うつぶせに倒れている高坂さんに派手な金のネックレスをした男の人がまだ血が流れている鼻を押さえながら近づいていった。そしてつま先で倒れている高坂さんをつついて本当に気絶しているのかを確かめた。しばらくしてようやくその確信を得ると安心したのか男は倒れた仲間の様子を確かめ始めた。
「とんでもね―女だな。まだ二人とも完全に伸びてるぞ」
よほど恐怖を刷り込まれたのか、男の人は青ざめた顔でそう言った。
唯一高坂さんに倒されなかったロン毛の男の人は、それでも足をふらつかせながら高坂さんの隣にしゃがみこむと髪の毛をつかんで頭を持ち上げた。
「よく見ると結構可愛い顔してるぜ、こいつ。なあ、こっちはこんだけやられたんだ。こいつ好きにしてもいいだろ?」
鳥肌がたつほどに嫌らしい笑みを浮かべてその男は上級生にそう尋ねた。
「・・・・好きにしなよ」
目をそむけながら、上級生の女の人たちはそういった。三人とも震えているのが目に見えた。いや、怯えているといった表現の方が正しい。きっと彼女たちはこんなことになるとは思っていなかったんだろう。ただ、生意気な下級生に少し痛い目を見してやろうという程度しか考えていなかったのかもしれない。
「あーあー。さんざん殴ってくれちゃってよ!」
そういうと、ロン毛の男は立ち上がって高坂さんのおなかを、まるでサッカーボールを蹴るみたいにして蹴った。蹴られた勢いで、高坂さんはごろんと仰向けになったけれど、それでも彼女は目を覚まさなかった。
その高坂さんの横顔を見た時、自分の中で何かが切れる音がした。