↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
113/145

第113話 公爵令嬢様は、俺の仕事が増える理由を一緒に考えたいらしい


 翌朝、パウリー公爵家の使用人用通路には、いつもと変わらない朝の空気が流れていた。


 厨房の方角からは焼きたてのパンの香りが漂い、廊下の奥では清掃を担当する使用人たちが、互いの作業場所を確認している。窓の外には薄い雲が広がっていたものの、昨日よりも風は穏やかで、庭園の木々もほとんど揺れていなかった。


 俺は父さんから任された朝の確認作業を終え、使用人用の記録台に置かれた用紙を整理していた。


 今朝の仕事は、各部署で使う備品の補充予定を確認し、決められた場所へ連絡用紙を届けることだ。備品の数量や補充の判断はそれぞれの担当者が行うため、俺が勝手に変更することはできないが、用紙の受け渡しや記入漏れの確認なら、執事見習いとして手伝うことができる。


(昨日、父さんに教わったことを、ちゃんと意識して仕事をしたいな)


 そう考えながら、俺は手元の用紙をもう一度確かめた。


 厨房、清掃、庭園、設備。それぞれの部署で使用する用紙は、見た目こそ似ているものの、必要な記入項目が少しずつ違っている。


 昨日までは、用紙を間違えずに届けることができれば、それで十分だと思っていた。


 けれど、今朝は少しだけ気になることがあった。


 厨房用の連絡用紙には、備品の補充予定だけでなく、受け取り希望の時間帯を記入する欄がある。一方、清掃担当の用紙には、補充が必要な場所と、現在の残量を記入する欄が設けられていた。


 どちらも、単に必要な物の数を伝えるだけではない。


 受け取る人や、実際に使う人が困らないようにするための情報が含まれているのだ。


「セス、手は空いているか?」


 背後から父さんの声が聞こえ、俺は用紙を置いて振り返った。


 グレイヴ・シルフィール。


 パウリー公爵家の執事長であり、俺の義父でもある人だ。


 いつもどおり整った執事服を身につけた父さんは、手に薄い書類箱を持っていた。


「うん。今、連絡用紙の確認が終わったところだよ」


「そうか。では、その箱をこちらへ持ってきてくれ」


 俺は指示された書類箱を持ち、父さんの隣へ移動した。


 父さんは記録台の上にもうひとつの箱を置くと、俺が整理した用紙を確認し始めた。


「厨房用の用紙は、こちらの箱へ。清掃担当のものは、午後の補充確認で使うから、今は別にしておいてほしい」


「分かった」


 俺は指示に従い、用紙を分けていった。


 作業そのものは難しくない。


 ただし、昨日父さんから教わったことを思い出すと、単純な仕分けであっても、その先に誰かの仕事が続いているのだと分かる。


 俺が用紙を間違えてしまえば、必要な連絡が届かなくなるかもしれない。


 逆に、正しく届けることができれば、担当者は予定どおりに仕事を進めやすくなる。


「……父さん」


 俺が声をかけると、父さんは手元の書類から顔を上げた。


「何だ?」


「こういう連絡用紙って、最初から今の形だったの?」


 父さんは少し意外そうに眉を上げた。


「いや。必要に応じて変更されてきたものだ。もちろん、勝手に形式を変えてよいわけではないが、実際に使う者たちの意見を取り入れ、項目が追加されたこともある」


「そうなんだ」


 俺は手元の用紙へ目を向けた。


「昨日、仕事が終わったあとも、その影響を確認することが大切だって教わったでしょう? それで、こういう用紙も、使いにくいところがあれば直していくのかなって思ったんだ」


 父さんは静かに頷いた。


「よく気づいたな。ただし、使いにくいという意見が出たからといって、すぐに変更できるとは限らない。ある部署では便利になっても、別の部署では確認が難しくなる場合もあるからな」


 その言葉に、俺は昨日の搬入経路の変更を思い出した。


 別の道が使えるようになったことで、荷車は問題なく通れるようになった。


 けれど、その影響で、厨房側では一部の荷物を運ぶ距離が長くなっていた。


 何かを改善することが、必ずしも全員の負担を減らすとは限らない。


「……なるほど。用紙ひとつでも、いろんな人の仕事につながっているんだね」


「そういうことだ」


 父さんは穏やかに答えたあと、時計へ目を向けた。


「さて、そろそろお嬢様の朝の準備も整う頃だ。残りの作業はこちらで引き継ぐから、お前は学院へ向かう支度をしなさい」


「うん。ありがとう、父さん」


 俺は整理した用紙を指定された場所へ収め、記録台の上に余計なものが残っていないことを確認した。


 そして、父さんへ一礼してから、使用人用通路をあとにした。


     ◇


 リビアと合流したのは、屋敷の二階にある小さな談話室だった。


 窓際の椅子に腰かけていた彼女は、俺の姿を見つけると、読んでいた本を閉じて立ち上がった。


「おはよう、セス」


「おはよう、リビア。今日は少し早いね」


「うん。朝の支度が思ったより早く終わったから、昨日の続きを少し読んでいたの」


 彼女が手にしていたのは、アルセス様から学習用として渡された『領地管理基礎資料 道路・橋梁編』だった。


 昨日、俺たちは屋敷の搬入経路の変更について学んだ。


 そのとき、リビアは道を使う人たちの負担がどうなるのかを気にしていた。


 そして、実際の仕事では、ひとつの対応によって別の作業に影響が出ることもあると知ったのだ。


「何か気になるところがあった?」


 俺が尋ねると、リビアは少し考えてから頷いた。


「うん。道の管理について書かれているところなんだけど、修理する場所を決めるときは、傷んでいる程度だけじゃなくて、利用する人の数や、ほかの道が使えるかどうかも考えるってあるでしょう?」


「うん。昨日も少し話したね」


「それでね、もし同じくらい傷んでいる道が二つあったら、どちらを先に直すのがいいんだろうって考えていたの」


 俺は少し考えた。


 道が傷んでいるなら、どちらも修理した方がいいのだろう。


 けれど、使える人員や資材には限りがある。


 同時に修理できない場合、どちらを先にするか決めなければならない。


「……利用する人が多い方を先にするのかな?」


 俺がそう答えると、リビアは小さく頷いた。


「私も最初はそう思ったの。でも、利用する人が少なくても、その道しか使えない村があったらどうするんだろう?」


 その言葉に、俺は返事を止めた。


 利用する人が多い道を優先する。


 それは、一見すると合理的な判断に思える。


 けれど、別の道が使えない場所なら、利用する人が少なくても、修理が遅れることで大きな問題が起きるかもしれない。


「……確かに、人数だけでは決められないね」


「うん。それに、道が傷んでいる程度が同じでも、荷車が通る道と、人が歩くだけの道では、困ることも違うのかもしれないでしょう?」


 リビアは資料を開き、該当する部分を指さした。


 そこには、道の修繕を検討する際に確認すべき項目が、いくつか挙げられていた。


 俺は彼女の隣へ座り、文章を読み返した。


 道路の状態。


 利用状況。


 代替経路の有無。


 修繕に必要な資材と人員。


 そして、修繕を行う間に生じる影響。


 どれも、昨日までに少しずつ学んできた内容だった。


「……こうして見ると、ひとつのことを決めるために、ずいぶんたくさんの情報が必要なんだね」


 俺が呟くと、リビアは真剣な表情で頷いた。


「そうなの。だから、私はまだ、どちらを先に直すべきか決められないんだ」


 彼女は少し困ったように笑った。


「でも、すぐに答えを出さなくてもいいのかなって思ったの」


「うん。必要な情報が足りないなら、まずはそれを確かめることが大切なんだと思う」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「ふふっ。セスも同じことを考えてたんだね」


 その笑顔を見て、俺も自然と笑みを浮かべた。


 昔から、リビアと一緒に勉強する時間は楽しかった。


 彼女は俺が思いつかないような疑問を口にすることがあるし、俺も彼女とは違うところに気づくことがある。


 そのたびに、ひとりでは分からなかったことが少しずつ見えてくる。


 最近は、そうした時間が以前よりも増えていた。


「……ねえ、セス」


「何?」


「今日の学院の授業が終わったら、昨日のノートも一緒に見直してみない?」


 リビアは少し期待するような目で俺を見つめた。


「道を直すときのことと、昨日の搬入経路のことを比べてみたら、何か分かるかもしれないから」


「いいよ。ただ、屋敷の仕事や勉強の予定もあるから、時間を確認してからにしようね」


「うん。もちろん」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づき、談話室の扉が控えめに叩かれた。


 迎えに来た使用人から馬車の準備が整ったことを告げられ、俺たちは資料を閉じた。


 リビアは本を大切そうに抱えながら、俺の隣へ並んだ。


「今日も、いろんなことを学べるといいね」


「そうだね」


 俺たちは顔を見合わせて微笑み、学院へ向かうために談話室を出た。


     ◇


 学院の午前の授業では、地理と経済に関する基礎的な内容が扱われた。


 教壇に立つエレナ先生は、黒板にいくつかの数字を書き込みながら、物資の輸送について説明していた。


 今日の題材は、ある地域から別の地域へ食料を運ぶ場合に、どのような費用が発生するかというものだった。


 荷車を使うための費用。


 運ぶ人に支払う賃金。


 途中で必要になる休憩や、荷物を保管する場所。


 そして、道の状態によって変化する移動時間。


 俺はノートを取りながら、昨日サザリーと話したことを思い出した。


 同じ量の荷物を運ぶ場合でも、道の長さだけで費用が決まるわけではない。


 荷車の積載量や、必要な往復回数によっても、結果は変わる。


「では、皆さん。ここでひとつ考えてみましょう」


 エレナ先生は黒板へ向き直り、二つの経路を描いた。


 ひとつは、距離が短いものの、道幅が狭く、大きな荷車が通れない道。


 もうひとつは、距離が長い代わりに、荷車が通りやすく整備されている道だった。


「同じ量の食料を運ぶ場合、どちらの道を使う方がよいでしょうか。ただし、今日は単純な計算だけでなく、理由も考えてみてください」


 教室のあちこちで、生徒たちがノートへ視線を落とした。


 俺も問題文を読み返し、必要な条件を確認した。


 距離が短い道は、移動時間だけを考えれば有利に見える。


 けれど、大きな荷車が通れないなら、運ぶ回数が増える可能性がある。


 一方、距離が長い道は、一度に多くの荷物を運べるものの、その分だけ移動に時間がかかる。


(……どちらがいいか、すぐには決められないな)


 俺は計算に必要な数字を書き出しながら、問題文の最後にある注意書きへ目を向けた。


 そこには、天候や道路の混雑については、今回の計算に含めないと記されていた。


 つまり、まずは与えられた条件の中で比較する必要がある。


 俺は計算を進め、二つの経路を使った場合の費用を求めた。


 すると、意外なことに、どちらの経路を使っても、合計の費用はほとんど変わらない結果になった。


 俺は計算を見直した。


 数字の間違いはなさそうだ。


 ただし、費用が同じなら、どちらを選んでもいいというわけではないだろう。


 食料を運ぶ目的や、届けるまでに必要な時間によっても、判断は変わるはずだ。


「……なるほど」


 俺が小さく呟くと、隣の席のリビアがこちらへ目を向けた。


 彼女も計算を終えたらしく、ノートの端にいくつかの考えを書き込んでいた。


 俺たちは互いの答えを見せ合うことなく、先生の説明を待った。


 やがて、エレナ先生が教室全体へ視線を向けた。


「計算が終わった人もいるようですね。では、結果を確認してみましょう」


 先生は黒板に式を書き込み、二つの経路を使った場合の費用を比較した。


 俺が求めた結果と同じだった。


「今回の条件では、費用に大きな差はありません。では、費用が同じなら、どちらの道を選んでも問題ないのでしょうか?」


 先生の問いかけに、教室の中からいくつかの意見が上がった。


 早く届けたいなら短い道がいい。


 一度に多く運べるなら長い道の方が便利だ。


 荷物を運ぶ人の数によっても違うのではないか。


 それぞれの意見を聞きながら、エレナ先生は黒板の横へ新しい項目を書き加えていった。


「そうですね。費用だけでは判断できない場合があります。重要なのは、何を目的として運ぶのか、そして、どのような条件を優先するのかということです」


 俺はその言葉をノートへ書き込んだ。


 昨日、父さんから教わったこととも重なる内容だった。


 仕事を早く終わらせることが、必ずしも最優先になるとは限らない。


 必要なものを確実に届けることが大切な場合もあるし、働く人の安全を優先しなければならない場合もある。


 エレナ先生は、教室の生徒たちへ穏やかに語りかけた。


「皆さんは、今後さまざまな立場で判断を求められることがあるでしょう。そのとき、ひとつの数字だけを見て結論を出さないようにしてください。数字は大切ですが、その数字が何を表しているのかを理解することも同じくらい重要です」


 俺は静かに頷いた。


 その言葉は、今朝リビアと話していたことにもつながっていた。


 道を修理するとき、利用する人の数だけで優先順位を決めることはできない。


 輸送経路を選ぶときも、距離だけで判断することはできない。


 何かを決めるためには、その目的と、必要な条件を確かめることが大切なのだ。


     ◇


 授業が終わったあと、俺たちは教室の窓際で昼休みの準備をしていた。


 リビアはノートを閉じながら、少し楽しそうに微笑んだ。


「セス、今日の授業、面白かったね」


「うん。昨日考えていたことと、つながるところがあったね」


 俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「そうなの。今朝、道を直す順番について考えていたでしょう? あれも、何を優先するかによって答えが変わるんだなって思ったの」


 そのとき、近くで話を聞いていたサザリーが、興味深そうにこちらへ歩いてきた。


「二人とも、今朝も領地管理の勉強をしていたのかい?」


「うん。アルセス様からいただいた学習用の資料を読んでいたんだ」


 俺が答えると、サザリーは穏やかに頷いた。


「なるほど。今日の授業とも関係がありそうだね」


 リビアは少し考えてから、サザリーへ尋ねた。


「サザリー様は、もし同じくらい傷んでいる道が二つあったら、どちらを先に修理するべきだと思いますか?」


 サザリーは少し驚いたように目を丸くした。


 けれど、すぐに考え込むような表情になった。


「……難しい質問ですね。道の状態が同じなら、利用する人の数や、ほかの道が使えるかどうかを確認する必要があると思います」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「私も、そう考えたんです」


 サザリーは少し微笑んだ。


「ただ、修理に必要な資材や人員が違う場合もありますから、それだけでは決められないかもしれませんね」


 その言葉に、俺は思わず顔を上げた。


 確かに、同じくらい傷んでいる道でも、修理に必要な作業が同じとは限らない。


 道幅や地形によって、必要な資材や人員が変わることもあるだろう。


「……そうか。修理する側の条件も考えないといけないんだね」


 俺が言うと、サザリーは頷いた。


「そうだと思う。もちろん、僕も実際の工事について詳しいわけではないから、正確なことは分からないけれどね」


 彼はそう言って、少し困ったように笑った。


 その様子を見て、俺は安心した。


 サザリーは知識が豊富で、いつも落ち着いている。


 けれど、分からないことについては、無理に答えを出そうとしない。


 それは、俺も見習いたいところだった。


 やがて、ガレスとエミリアも加わり、話題は今日の授業へ移っていった。


 ガレスは輸送費の計算で少し苦戦したらしく、サザリーへ途中の式を確認してもらっていた。


 エミリアは、計算そのものよりも、問題文の条件を読み落とさないことが大切だと話していた。


 俺たちはそれぞれの考えを聞きながら、昼休みの時間を過ごした。


 同じ授業を受けていても、気になるところは人によって違う。


 それが、少し面白かった。


     ◇


 午後の授業が終わり、屋敷へ戻った頃には、空の雲が少し薄くなっていた。


 馬車を降りると、庭園の向こうから鳥の声が聞こえ、玄関前には夕方の柔らかな光が差し込んでいる。


 父さんは玄関で俺たちを迎え、学院での様子を簡単に尋ねてくれた。


 俺たちが今日の授業について話すと、父さんは静かに頷いた。


「輸送経路の比較ですか。昨日の学習ともつながる内容ですね」


「はい。費用が同じくらいでも、何を優先するかによって選ぶ道が変わることがあると教わりました」


 リビアが答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。


「大切な考え方ですね。実際の仕事でも、何を優先するかを明確にしておくことは重要です」


 俺はその言葉を聞き、朝の連絡用紙のことを思い出した。


「父さん、今朝の用紙のことも、少し似ているのかな?」


 父さんは俺へ目を向けた。


「どういう意味だ?」


「連絡用紙を使いやすくしようとしても、ひとつの部署だけが便利になればいいわけじゃないって教えてくれたでしょう? それも、何を優先するかを考える必要があるのかなって」


 父さんは少し考えてから頷いた。


「そうだな。ただし、用紙の場合は、情報が正確に伝わることが最も重要になる場合もある。使いやすさだけでなく、必要な確認ができるかどうかも考えなければならない」


 俺は静かに頷いた。


 そのとき、リビアが少し興味深そうに口を開いた。


「グレイヴ、連絡用紙にも、使う人によって違いがあるのですか?」


 父さんは彼女へ向き直った。


「はい。部署ごとに必要な情報が異なりますので、用紙の形式にも違いがございます」


「そうなんですね……」


 リビアは少し考え込んだ。


 それから、俺へ目を向けた。


「セス、今朝はそういうお仕事をしていたの?」


「うん。部署ごとの連絡用紙を整理していたんだ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「そうだったんだ。私、そういうお仕事のことも、もっと知りたいな」


 俺は少し驚いた。


 リビアは以前から、俺の執事の仕事に興味を持ってくれている。


 けれど、最近は単に俺が何をしているのか知りたいというだけでなく、その仕事が屋敷全体の中でどのような役割を持っているのかまで考えようとしているようだった。


「……リビア、連絡用紙の整理って、そんなに面白い仕事じゃないかもしれないよ?」


 俺がそう言うと、彼女は少しだけ頬を膨らませた。


「もう、セスったら。私は、面白いかどうかだけで知りたいって言っているわけじゃないの」


 その言葉に、俺は少し慌てた。


「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて……」


 リビアは俺の反応を見て、小さく笑った。


「ふふっ。分かってるよ。でも、セスが毎日しているお仕事が、どんなふうに屋敷を支えているのか、私も知りたいの」


 俺はその言葉を聞き、少し照れくさくなった。


 父さんはそんな俺たちを穏やかに見守っていたが、やがて静かに口を開いた。


「お嬢様が学習のためにご覧になりたいのであれば、一般的な連絡用紙の形式をご説明することはできます。ただし、実際の業務記録には取り扱いに注意が必要なものもございますので、学習用の見本を使用することになります」


 リビアはすぐに頷いた。


「はい。もちろんです」


 父さんは少し微笑んだ。


「では、後日、時間を調整しましょう。今日はまず、学院の疲れを取ってください」


「ありがとうございます、グレイヴ」


 リビアは丁寧に礼を述べた。


 俺も父さんへ感謝を伝え、彼女と一緒に部屋へ向かった。


     ◇


 夕方、俺たちは小さな書斎で今日の学習内容を整理していた。


 机の上には、アルセス様からいただいた資料と、それぞれのノートが並んでいる。


 窓の外では日が傾き始め、庭園の木々が柔らかな光に照らされていた。


 リビアは今日の授業で扱った輸送経路の問題を見直しながら、少し考え込んでいた。


「……ねえ、セス」


「何?」


「今日の授業で、費用がほとんど同じになる問題があったでしょう?」


「うん。短い道と、長い道を比べる問題だね」


「そう。あれって、どちらを選んでも同じっていう答えじゃなかったよね」


 俺は頷いた。


「うん。何を優先するかによって、選ぶ道が変わることもあるって話だったね」


 リビアは静かに頷いた。


「私、最初は正しい答えがひとつあると思っていたの。でも、必要な条件によって答えが変わるなら、まずは何を大切にするのかを決めなくちゃいけないんだね」


 その言葉を聞き、俺は少し考えた。


 確かに、俺も以前は、問題には必ずひとつの正しい答えがあると思っていた。


 学問の試験なら、そういう場合も多い。


 けれど、実際の仕事では、同じ条件でも何を優先するかによって判断が変わることがある。


 それは、少し難しいことだった。


「……でも、何を優先するかを決めるのも、簡単じゃないよね」


 俺がそう言うと、リビアは静かに頷いた。


「うん。だから、ひとりで決めない方がいいこともあるんだと思う」


 その言葉に、俺は昨日の父さんの説明を思い出した。


 現場を知らない人が、机の上だけで負担を減らそうとしても、うまくいくとは限らない。


 逆に、現場の人だけでは調整できないこともある。


 だからこそ、報告と相談が必要になる。


「……そうだね。関係する人たちの話を聞くことも大切なんだ」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「うん。私も、そう思う」


 彼女はノートへ短い文章を書き込んだ。


『何を優先するかを決める前に、関係する人たちの事情を知る』


 俺はその文字を見て、自然と笑みを浮かべた。


「……リビアらしいね」


 そう言うと、彼女は少し照れくさそうに笑った。


「またそれ?」


「うん。でも、本当にそう思うんだ」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、少しだけ身体をこちらへ寄せた。


「……ねえ、セス」


「何?」


「私、最近、セスと一緒に勉強する時間が、前よりもっと好きになった気がするの」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


「そうなの?」


「うん。前から楽しかったけれど、最近は、知らないことを一緒に考えるのがすごく嬉しいの」


 リビアは少しだけ頬を染めながら続けた。


「セスが気づいたことを教えてくれると、私も新しいことが分かるし、私が考えたことを話すと、セスも一緒に考えてくれるでしょう?」


 俺は静かに頷いた。


 彼女の言葉は、俺が感じていたこととも重なっていた。


 ひとりで学ぶことも楽しい。


 けれど、リビアと一緒に考えていると、自分では気づかなかったことに出会える。


 それは、俺にとって大切な時間になっていた。


「……俺も、リビアと一緒に勉強するのが好きだよ」


 俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふっ。よかった」


 その笑顔を見ていると、俺まで嬉しくなる。


 リビアはしばらく俺を見つめていたが、やがて少しだけ真剣な表情になった。


「でもね、セス。私、ひとつだけ気になっていることがあるの」


「何?」


「セスって、誰かのために何かをしようとすると、自分の仕事を増やしちゃうことがあるでしょう?」


 俺は思わず言葉に詰まった。


 リビアは責めるような口調ではなかった。


 むしろ、少し心配そうに俺を見つめている。


「……そうかな?」


 俺が尋ねると、彼女は静かに頷いた。


「うん。もちろん、セスがみんなの役に立ちたいって思っているのは分かってるよ。でも、何か困っていることを見つけると、自分が何とかしなくちゃって考えることがあるでしょう?」


 俺は少し考えた。


 確かに、誰かが困っていると、できることがないか考えてしまう。


 それは、俺にとって自然なことだった。


 けれど、昨日父さんからも、似たようなことを言われている。


 何かを学ぶたびに、自分の不足として受け止める必要はない。


 そして、ひとりで全部を背負おうとしなくてもいい。


「……うん。そういうところは、あるかもしれない」


 俺が正直に答えると、リビアは少し安心したように微笑んだ。


「だからね、私は、セスが何かをしようとするとき、その仕事が本当にセスひとりでやらなくちゃいけないことなのか、一緒に考えたいの」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


「……一緒に?」


「うん。セスが誰かを助けたいって思う気持ちは、私も大切にしたい。でも、そのためにセスが無理をするのは、嫌だから」


 リビアは少しだけ視線を落とした。


「私、セスが頑張っているところを見るのは好きだけど、疲れているのに無理しているところを見るのは、あまり好きじゃないの」


 その声には、静かな心配が込められていた。


 俺はしばらく返事ができなかった。


 リビアは、俺の仕事を否定しているわけではない。


 むしろ、俺が執事として働きたいと思っていることを、誰よりも尊重してくれている。


 だからこそ、無理をしてほしくないのだろう。


「……ありがとう、リビア」


 俺がそう言うと、彼女は小さく首を横へ振った。


「お礼を言ってほしいわけじゃないよ」


 リビアは少し照れくさそうに笑った。


「ただ、セスが困ったとき、私にも頼ってほしいだけなの」


 俺は彼女の顔を見つめた。


 昔から、リビアは俺のことを大切にしてくれている。


 けれど、今はその気持ちを、以前よりもはっきりと言葉にしてくれるようになった。


 俺も、彼女の気持ちに応えたいと思う。


「……分かった。これからは、何かを引き受ける前に、ちゃんと考えるようにするよ」


 俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「うん。でも、考えるときは、私にも相談してね」


「もちろん」


 俺たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。


     ◇


 夕食の時間が近づいた頃、俺たちはノートを閉じ、机の上を片づけ始めた。


 リビアは資料を丁寧に重ねながら、少しだけ考え込んでいた。


「……ねえ、セス」


「何?」


「今日、グレイヴが連絡用紙の見本を見せてくれるかもしれないって言ってくれたでしょう?」


「うん。後日、時間を調整してくれるって話だったね」


 リビアは静かに頷いた。


「私、あれも楽しみなんだけど、少しだけ考えていることがあるの」


 俺は彼女へ目を向けた。


「どんなこと?」


「連絡用紙って、必要な情報を伝えるためのものなんだよね?」


「うん。部署ごとに必要なことを記入して、担当する人へ伝えるためのものだよ」


 リビアは少し考えたあと、穏やかに続けた。


「だったら、用紙を使う人たちが、どんなことを伝えたいのかも知りたいなって思ったの」


 俺は少し驚いた。


 用紙の形式を見るだけなら、どんな項目があるのかを確認すればいい。


 けれど、リビアはその先にある、実際に使う人たちの考えを知りたいと言っている。


「……なるほど。確かに、使う人の話を聞いた方が、どうしてその項目が必要なのか分かるかもしれないね」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「うん。でも、もちろん、お仕事の邪魔にならないようにしなくちゃいけないから、まずはグレイヴに相談してみるね」


「そうだね。俺も、勝手に誰かへ聞きに行くのはよくないと思う」


 俺たちは頷き合った。


 そのとき、廊下の向こうから控えめな足音が聞こえた。


 やがて扉が叩かれ、夕食の準備が整ったことを告げる声がした。


 俺たちは返事をしてから立ち上がった。


 机の上には、今日学んだことをまとめた二冊のノートが並んでいる。


 その内容は、まだ十分に整理できているわけではない。


 けれど、昨日よりも少しだけ、仕事のつながりが見えてきた気がした。


 俺はノートを閉じ、リビアへ目を向けた。


「……行こうか、リビア」


「うん」


 彼女は嬉しそうに微笑み、俺の隣へ並んだ。


 廊下へ出ると、食堂の方角から温かな料理の香りが漂ってきた。


 屋敷では今日も、たくさんの人がそれぞれの仕事をしている。


 その仕事のすべてを、俺が知っているわけではない。


 けれど、知らないことがあるからこそ、学ぶことができる。


 そして、学んだことを次の仕事へ生かしていけばいい。


 俺は隣を歩くリビアへ目を向けた。


 彼女は少しだけ頬を染めながら、柔らかく微笑んだ。


「セス、明日も一緒に考えようね」


「うん。もちろん」


 俺たちは顔を見合わせて微笑み、並んで食堂へ向かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。