『補給線』-13
爆発の起こったプラントへ突入する遠征組一行。
臨時の小隊が編成され、3つのルートに分かれて、爆発のあった
物流搬出口を目指す。
そして、屋内ルートを進む、真たちC小隊の前に「赤い目」が
姿を見せた
「……真」
アリスが息を潜めるように囁いた。
「……ああ」
真も小さく応じる。
「あれは……缶詰じゃない」
赤い目をした缶詰など、この世に存在するはずがない。
つまり、そこに潜んでいるのは――歓迎など到底できない"何か"ということだ。
真はゆっくりと愛銃を構え直す。
伸縮式ストックを肩へ深く押し当て、頬を預けた。
照準器の向こうには、段ボールの山。
不気味な静寂と、明かりのない暗闇が辺りを支配していた。
ウェポンライトが一直線に闇を裂き、積み上げられた段ボールの隙間を白い光が舐めるように走る。
向こうも、すでにこちらを認識しているだろう。
レヴュラの光学センサーは、人間よりはるかに優秀だ。
ライトを点灯した時点で、自分たちの位置は完全に把握されていると考えるべきだろう。
それでも飛び出してこない。
間合いを測っているのか。
あるいは、こちらの出方を窺っているのか。
不気味な沈黙だけが流れていた。
――赤い目。
ひとつではない。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
……まだある。
段ボールの奥。
さらにその奥。
闇へ目を凝らすたび、小さな赤い目が増えていく。
ただライトの光を反射しているだけではない。
こちらを見ている。
――じっと息を殺すように。
「……いやがるな」
戸上の声が低く落ちた。
ベテランらしく慌てる様子はない。
しかし、その双眸は獲物を狙う狩人のように鋭く細められている。
一瞬だけ思考を巡らせ――すぐに決断した。
「全員、照射!」
短い号令がプラント構内へ響く。
その瞬間、十一挺のウェポンライトが一斉に点灯した。
数百ルーメン級の白色光が束となり、暗闇を容赦なく切り裂いていく。
光が一点へ集中した瞬間、工場の一角は昼間のような明るさへ変貌した。
レヴュラのカメラユニットは、人間の網膜より高性能な撮像素子を備える一方、極端な強光には決して強くない。
至近距離から複数の高光量ライトを浴びれば、イメージセンサーは一時的に飽和し、視界を奪われる。
人間でいえば、暗闇の中で強烈なフラッシュを浴びせられるようなものだ。
戸上が選んだのは、その僅かな隙を力ずくで作り出す、実戦経験に裏打ちされた戦い方だった。
高光量ウェポンライトによる一斉照射。
レヴュラが搭載する光学カメラのイメージセンサーを飽和させ、一時的に視界を奪う目くらまし。
一見すれば苦し紛れの力業にしか映らない。
しかし相手が人間ではなく、精密な撮像素子を"目"として持つ機械だからこそ成立する、対レヴュラ戦術だった。
現代のウェポンライトは、もはや銃口の先を照らすだけの懐中電灯ではない。
軍や法執行機関向けに開発された高性能モデルともなれば、一基で千ルーメンを超えるほどの光束を放ち、二十メートル先の人物であっても昼間同然に浮かび上がらせる。
人間なら真正面から浴びた瞬間、視界は真っ白に潰れ、網膜が回復するまで数秒間は何も見えなくなる。
まして、それが十一灯。
暗所に目を凝らしている最中のレヴュラ。そのイメージセンサーへ一斉に叩き込まれれば、その負荷は人間の比ではない。
露出制御は破綻し、撮像素子は白飛びを起こす。
輪郭認識アルゴリズムは正常な映像を失い、こちらを捉える演算はほんの一瞬だけ狂い始める。
――機械に瞼はない。
だからこそ、自ら光を遮る術も持たなかった。
その数秒。
人間に残された反撃の猶予は、それだけだった。
――次の瞬間。
積み上げられていた段ボールの山が、一斉に崩れ落ちる。
「来るぞ!」
誰かの叫びを追い越すように、黒い影が暗闇から弾け飛んだ。
四足歩行。
低い姿勢。
見慣れたシルエット。
D級レヴュラ、ガード種。
これまで幾度となく交戦してきた、最も遭遇率の高い個体。
――主武装は二連装のリベットガン。
建築現場で鋼材を接合する工業用工具を、人を殺すためだけに作り替えた兵器だ。
火薬を用いず、高圧で圧縮した空気によって鋼鉄製リベットを射出する構造。
銃声らしい銃声は響かない。
――乾いた破裂音。
それだけだ。
だが、その静けさに騙されれば命はない。
撃ち出される鋼鉄製リベットは木材を容易く砕き、コンクリートさえも欠けさせる。
人間の肉体など、命中すれば紙切れと変わらない。
腕を失えば銃は握れず、脚を失えば逃げることもできない。
まして頭部へ受ければ、その瞬間ですべてが終わる。
――だが、レヴュラは違う。
たとえ脚を吹き飛ばされようと、残る脚だけで這い続ける。
内部に埋め込まれた量子電脳チップを破壊される、その最後の一瞬まで。
だからこそ、D級だからと侮る者ほど長くは生きられない。
D級レヴュラとは、決して"弱い敵"なのではない。
正しくは、人類が辛うじて対処できる最低限の脅威。
それがD級レヴュラという存在であり、その認識を見誤った者から、この世界を退場していく。
――だが、人間側にも余裕はない。
映画のようにフルオートで弾丸を撒き散らす戦いなど、この世界では自殺行為に等しかった。
弾薬は今も工場で無限に生産されているものではない。
今日使った弾丸が明日も入手できる保証などどこにもなく、時として黄金よりも貴重とされる世界だ。
だから彼らは、その一発一発の精度を可能な限り研ぎ澄ませる。
ライフル弾を使用する真や戸上、相川やアリスなら距離を取っても十分戦えるだろう。
だが拳銃弾を用いるサブマシンガン組では事情が違う。
拳銃弾は距離が開くほど威力も命中率も急激に落ちる。
不用意な撃ち合いは、そのまま不利へ直結していた。
「無駄弾を撃つな! 離れてる個体はライフル組に任せろ!」
戸上の怒声が構内へ響くと、各隊員は迷うことなく持ち場を切り替え、自分の火器性能を最大限に生かせる位置へ散開していく。
その判断は早い。
——本格的な軍事教練など受けてはいない。
それでも幾多のレヴュラを仕留めてきた、現代の狩人――戦い慣れた者だけが持つ、呼吸のような連携だった。
直後、リベット弾が撃ち込まれると、身を隠した木箱が激しく弾け、木屑が爆ぜる。
リベットが叩きつけられたフォークリフトの鋼板から、耳障りな金属音とともに無数の火花が闇へ散った。
「全員、目を閉じろ! フラッシュを投げる!」
ファイアレイン隊副長・中野の怒号が工場内へ響き渡る。
その一声だけで全員が反応した。
銃を抱え込むように身を縮め、瞼を固く閉ざし、耳を塞ぐ。
直後――。
炸裂音とともに、工場全体を白一色に塗り潰すような閃光が奔った。
鼓膜を叩く衝撃音が梁を震わせ、段ボールの山がびりびりと揺れる。
暗所で目を見開いていたレヴュラの光学センサーは、一瞬にして飽和した。
まるで故障したかのように機械脚が止まり、その場で硬直する。
「今だ! 撃てッ!」
戸上の号令と同時に乾いた銃声が連続し、幾多の弾丸が吸い込まれるようにレヴュラへ突き刺さっていく。
強化樹脂製の外殻が砕け散り、火花と破片が暗闇へ飛び散る。
脚を撃ち抜かれた一体は床を転げ回り、カメラユニットを貫かれた個体は、そのまま糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
――そして、数分後。
構内に再び静寂が戻ってくる。
聞こえるのは、薬莢がコンクリートを転がる乾いた音だけだった。
辺りから安堵の声が聞こえ始める中。
「アリス、大丈夫か?」
真はすぐ隣へ目を向けた。
愛銃を構えたアリスの肩が、小刻みに震えている。
銃口はまだ前を向いていたものの、グリップを握る指先には力が入り過ぎていた。
真はそっと銃身を下げさせる。
「力み過ぎだ。肩が壊れるぞ」
そう言いながら肩口を軽く叩く。
アリスは一度だけ深く息を吐き、小さく頷いた。
「……うん」
確かに射撃訓練は何度も積ませた。
照準の合わせ方も、姿勢も……真の知る銃の扱い方は教え込んだ。
だが――。
動かない練習用の標的と、生きているかのように襲い掛かってくる敵とでは、何もかもが違う。
引き金ひとつに込められる重みも、撃ち返される恐怖も。
そればかりは、実戦でしか知ることのできない世界だった。
「アリス、大丈夫?」
横からルナが顔を覗き込む。
どこか姉が妹を気遣うような柔らかな笑みを浮かべ、肩へそっと手を添えた。
「怖かったよね?」
「……少しだけ」
そう答える声は震えていた。
……無理もない。
メカドールであっても、恐怖という概念が存在しないわけではない。
危険を察知し、損傷を恐れ、命令ではなく"自分の意思"で引き金を引く。
その葛藤は、人間と何ら変わらなかった。
「最初はみんなそうだよ」
ルナは優しく笑う。
「私だって、初めて撃たれた日は脚が震えて立てなかったし」
「ルナさんでも?」
「もちろん」
その返事に、アリスの表情が少しだけ緩み、周囲からも小さな笑みが漏れる。
真も思わず口元を緩めた。
――電災以前、この場にいる者の大半は、実銃など一生縁がないだろうという生活を送っていた。
真自身も例外ではない。
初めて実銃を撃った日。その反動に振り回され、まともに当てることすらできなかった。
誰にだって"最初"がある。
この工場に漂う腐臭の中、そのささやかな会話だけが、不思議なほど人間らしい温度を残していた。
――だが、その束の間の安堵を嘲笑うように、突如、段ボールの山の陰から黒い影が弾け飛んだ。
四足の小型レヴュラ。
床を蹴ったかと思えば、その勢いのまま壁面へ張り付き、ほとんど減速することなく垂直の壁を駆け上がっていく。
さらに天井近くの梁へ飛び移ると、蜘蛛を思わせる身軽さで鉄骨を伝い、視界の外へ消えた。
――速い。
速すぎる。
「なんだこいつ……速ぇッ!」
相川が思わず叫ぶ。
ウェポンライトが一斉にその姿を追う。
だが、光が届いた時には、もうそこにはいない。
梁から梁へ。
壁から天井へ。
まるで重力そのものを無視しているかのような機動力だった。
その動きは、これまで戦ってきたガード種とは似ても似つかない。
"走る"のではない。
空間そのものを支配するかのように、3次元を自在に駆け回っている。
その瞬間、真の脳裏にひとつの考えが稲妻のように走った。
――まずい。
これは今までのレヴュラじゃない。
これまでD級レヴュラは、脚部の可動構造上、階段すら満足に登れないと考えられてきた。
だからこそ主だったクオムでは、建物の一階部分を廃材や車両、コンクリートブロックなどで封鎖し、住民は二階以上で生活するという防衛思想が半ば常識となっている。
地表さえ封じれば、小型レヴュラの侵入は防げる。
誰もが、その前提を疑わなかった。
だが――。
もし、この個体がクオムへ現れたら。
鉄条網も。
バリケードも。
二階へ逃げるという最後の安全圏さえ、意味を失う。
この小さな機械は、人類が三年間積み重ねてきた防衛理論そのものを、一瞬で瓦解させかねない存在だった。
「……噂では聞いたことがある」
ライフルを構えたまま、戸上が低く呟く。
「爪で飛び掛かってくるレヴュラがいるってな」
照準は動かさない。
だが、その声音だけは僅かに硬くなっていた。
「あれは……横浜にA級レヴュラが現れた時だった」
命からがら生還したハンターが、震える声で語っていた。
……『撃つ暇もねぇんだよ……』
……『あいつら、天井から降ってくるんだ』
——当時は誰も信じなかった。
敗走してきた者の錯乱か、恐怖が見せた幻覚だろうと、誰もが笑い飛ばした。
小型レヴュラは壁を登れない。
階段すら越えられない。
それが三年間積み上げられてきた『常識』だったからだ。
決定的な目撃例もない。
生き残った証人もほとんどいない。
だから噂は、いつしか尾ひれの付いた与太話として片付けられていった。
――だが。
その認識が、もし違うとしたら?
目撃証言が存在しなかったのではない。
目撃した者が……誰一人、生き残れなかっただけだとしたら?
その考えが脳裏をよぎった瞬間、構内の空気が一段と冷え切ったような錯覚を、誰もが覚えた。
見えた。
――そう思った瞬間には、もう消えている。
梁から壁へ、そして天井へ。
四本の機械脚が建屋の構造体を叩くたび、甲高い金属音だけが工場内を跳ね回る。
ガード種より細身の機体。
その代わり、長い四肢が常識外れの跳躍力を生み出していた。
まるで巨大な蜘蛛だ。
……いや。
蜘蛛とも違う。
壁へ張り付き、天井を這う。
獲物の真上から飛び掛かるその姿は、もっと不快で、生理的嫌悪を掻き立てる何かだった。
「ダニみてぇな奴だな……こいつ」
誰かが吐き捨てるように言った。
その一言が、不思議なほどしっくりきた。
そんな時だ。
「なぁ」
AKMの銃口で梁を追いながら、相川がぼそりと尋ねる。
「ダニって英語で何て言うんだっけ?」
この状況で何を言い出すのか、と真は一瞬だけ呆れる。
だが、律儀に答えた者がいた。
「んー……たしか、ティック……だったかなぁ?」
ルナがウェポンライトを左右へ走らせながら、記憶をたどる。
「ティック?」
相川がにやりと笑う。
「よし。決まりだ」
梁の上を駆け抜ける黒い影を睨みつけながら叫ぶ。
「お前、今日からティックな!」
「おい!」
戸上の怒声が飛ぶ。
「バカ野郎! 名前なんぞ付けてる場合か!」
「いや、呼び名がないと報告しづらいじゃん!」
「今は生き残ることだけ考えろ!」
そのやり取りさえ嘲笑うように、黒い影が再び梁を蹴った。
「上ッ!」
村上が叫び、ウェポンライトを跳ね上げる。
白い光が鉄骨を舐める。
だが、その瞬間にはもう遅い。
ティック種は、光を避けるように梁の裏側へ身を滑り込ませ、視界から完全に消え失せた。
「見失った!」
誰かの叫び。
全員がその場で足を止めた。
銃口だけが絶えず左右へ揺れる。
十一条のウェポンライトの光が交差し、巨大な工場の暗闇を何度も切り裂いていく。
……静寂。
不気味なほど静かだった。
どこだ?
どこから来る?
頭上か?
背後か?
それとも――。
鉄骨が軋む音。
ほんのわずか。
それだけだった。
「左ッ!」
ルナの鋭い警告が響く。
その声とほぼ同時に、一体のティック種が天井から一直線に飛び降りた。
狙いは相川。
「うわぁぁぁっ!」
情けない悲鳴が構内へ響き渡る。
しかし、その声とは裏腹に、反応は一流だった。
半歩だけ身体を開き、紙一重で軌道を外す。
鋭い鉤爪が鼻先を掠め、頬へ冷たい風圧だけを残して通過した。
「ちっ、危ねっ!」
その勢いを殺さぬまま、AKMを横へ滑らせる。
照準など合わせない。
距離は一メートルもない。
「くたばれ、このダニ野郎ッ!」
――三発。
至近距離から放たれた7.62ミリ弾が、ティック種の側面へ容赦なく突き刺さる。
強化樹脂製の外殻が砕け、内部フレームが火花を散らした。
「一体撃破!」
叫ぶのとほぼ同時に、ティック種の機体は勢いよく床へ叩きつけられる。
甲高い金属音を響かせながら数メートル滑り、脚を痙攣させたあと、完全に沈黙した。
「まだいる!」
真の叫びが構内へ響く。
その声に呼応するように、段ボールの陰からさらにふたつの黒い影が飛び出した。
二体。
互いに距離を取りながら左右へ散開し、床を滑るような速度で駆け抜ける。
「散るな!」
戸上の怒号が飛ぶ。
「互いの視界から外れるな! 絶対に二人一組を崩すなよ!」
隊員たちは互いを援護し合うように、隣り合う者との間隔を即座に詰める。
ウェポンライトの光が再び交差し、白い光の壁を築き上げた。
だが――。
ティック種は、その光と光の狭間だけを正確に縫って走る。
まるで、人間の視界がどこで途切れるのかを最初から知り尽くしているかのようだった。
「こいつら……」
ルナが銃口で追いながら息を呑む。
「賢い……!」
「違う」
真だけは照準を微動だにさせなかった。
視線は一体ではない。
二体でもない。
その"動き"そのものを追っている。
「賢いだけじゃない」
静かに呟く。
「誘ってる」
「……え?」
「狙いを散らして、撃たせてるんだ」
ティック種は絶えず死角を横切り、人間の視線を左右へ振り回している。
焦って発砲すれば隊形が乱れる。
一人でも孤立すれば、そこを別の個体が襲う。
「こいつら……連携してる!」
――言葉が終わるより早かった。
金属製ラックが突然倒れ込む。
耳障りな轟音が構内へ反響し、大量の埃が舞い上がった。
「伏せろ!」
戸上の怒声。
倒れたラックの陰から、さらに二体。
まるで待ち構えていたかのように、一直線で飛び出してくる。
「ちぃッ!」
中野が反射的に引き金を引いた。
乾いた三連射。
一体の半身が弾け飛び、フロアへ叩き付けられる。
だが――。
残る一体は止まらない。
脚をバネのように縮め、一気に跳躍した。
狙いの先にいたのは真。
「真ッ!」
アリスの悲鳴にも似た声が飛ぶ。
その距離、2メートル。
1.5メートル。
1メートル。
「クソがっ!」
すべてがスローモーションに見える。
だが、もう回避は間に合わない。
鉤爪が振り下ろされる、その寸前――。
乾いた銃声が一発、構内へ響いた。
ティック種の胴体が破片を撒き散らす。
勢いを失った機体は真の足元まで滑り込み、火花を散らしながら停止した。
「危ねぇなぁ、篠崎ぃ」
聞き慣れた、どこか力の抜けた声。
――相川だった。
さっきまで情けない悲鳴を上げていた男とは思えない。
AKMの銃口はすでに別の方向を向き、次の襲撃に備えてゆっくりと揺れている。
「ぼーっとしてると死ぬぞ?」
真は苦笑を漏らした。
「……助かった」
「貸しひとつな?」
「高くつく?」
「缶詰三個で手を打とう」
「安っ」
「良心価格だろ?」
相川は胸を張る。
「焼き鳥缶なら、なお良し」
「そこは指定するんだ?」
「そこだけは譲れん」
思わずルナが吹き出した。
「ふふっ……命の値段が缶詰三個なの?」
「高級品だぞ?」
相川は真顔で言い切る。
「今の時代、焼き鳥缶なんて下手な宝石より価値があるからな」
「価値の基準がおかしいって」
アリスまで思わず笑みを浮かべる。
ほんの数秒前まで死線を潜っていたとは思えない、束の間の空気。
――だからこそ、その静寂は異様だった。
その時。
ふと、アリスの表情が強張る。
「……待って」
その一言だけで、構内の空気が変わった。
誰も動かない。
誰も引き金に指を掛けたまま、息を殺す。
「……静かすぎる」
アリスが低く呟く。
確かに――。
つい数秒前まで鉄骨を駆け回り、壁を這い、頭上を跳び回っていたティック種の気配が、忽然と消えていた。
梁や壁を叩く金属音がしない。
崩れた段ボールを擦る音もない。
あれほど耳障りだった機械脚の音が、まるで最初から存在しなかったかのように途絶えている。
「……逃げたのか?」
近藤が半信半疑で呟く。
真はゆっくりと首を横へ振った。
「いや……違う」
銃を構えたまま、ウェポンライトを工場の奥へ向ける。
白い光は積み上げられた資材を越え、物流エリアへ続く巨大なシャッターの隙間を照らした。
その先は闇。
光すら飲み込むような濃密な暗闇だった。
そして――。
聞いたことのない音が、遠くから響く。
油の切れた機械が軋むようでもあり、鋼鉄同士がゆっくりと擦れ合うようでもある、重く硬質な機械音。
規則的ではない。
だからこそ、生き物の呼吸にも似た不気味さがあった。
――誰も口を開かない。
ただ、その音だけが暗闇の奥から微かに流れてくる。
真はようやく理解した。
ティック種は逃げたのではない。
――撤退したのだ。
まるで、あの機械音を発する"何者か"の命令に従うように。
あるいは、その存在へ道を譲るように。
ティック種ほどの機動力を持つ個体が、一斉に戦闘を中断して退く理由など、ひとつしか考えられない。
――この先には、"何か"がいる。
戸上はゆっくりとライフルを握り直した。
グリップを握る手に、自然と力がこもる。
一拍置いて続ける。
「単独で深入りするのは危険だ。他の小隊と合流しよう」
「了解」
メンバーの返事は短かった。
誰一人、異論を挟む者はいない。
それどころか、この場にいる全員が胸の内で同じ結論に辿り着いていた。
――ティック種は前座に過ぎない。
あれほど厄介な相手でさえ、自ら戦場を譲る存在が、この工場のどこかに潜んでいる。
暗闇の奥から聞こえ続ける硬質な機械音は、その事実だけを静かに告げていた。
——物流ステーション事務所前。
ようやく各小隊が、煙の立ち込める物流搬出口の手前で合流した。
山本は胸の奥に溜め込んでいた息を、ゆっくりと吐き出す。
三方向へ分かれていた小隊は、予定どおり一点へ集結を果たした。
幸いにも欠員は出ていない。
擦過傷や打撲、飛散した破片による軽傷、装備の損傷こそ見受けられるものの、全員が自らの足でここまで辿り着いている。
それだけでも、この危険なプラント攻略では十分すぎる成果と言えた。
「山本さん」
真が歩み寄り、声を掛ける。
山本が振り返った。
「建屋の中で大量の缶詰を見つけた」
「……本当?」
「出荷待ちの保管品だと思う。正確な数は数えられなかったけど……多分、数万個はあるはず」
隣で戸上も大きく頷く。
「想像以上だったぜ。壁みたいに積まれてた」
その報告を聞いた山本の表情から、張り詰めていた緊張がわずかにほどける。
「そうか……」
思わず漏れた声には、安堵が滲んでいた。
——少なくとも、この遠征に意味はあった。
命懸けで静岡まで足を延ばした価値は、十分すぎるほどあったのだ。
あとは火災が広がる前に、お目当ての物資を回収するだけ。
それだけで、新宿クオムの食料事情は数か月単位で一変する。
缶詰一個が金塊にも等しい時代だ。
この工場そのものが、巨大な食料庫と言ってよかった。
積み切れない分は、後日あらためて回収隊を派遣してもいいだろう。
山本は黒煙の向こうにある物流搬出口へ視線を戻した。
確かに爆発は起こった。
しかし、現場を目の当たりにして抱いた印象は、予想とは少し違っていた。
燃えているのは荷積み場の一角だけ。
炎はコンテナ脇から黒煙を噴き上げているものの、施設全体を飲み込むような勢いではない。
施設の規模を考えれば、ボヤ程度と言ってもいい。
火勢も限定的だ。
このままなら、保管倉庫へ延焼する可能性は低そうだった。
「……思ったより燃えていないな」
岸上も周囲を見回しながら頷く。
「ええ。この程度なら、倉庫まで火は届かないでしょう」
「急げば十分間に合うな」
誰もが、そう考え始めた――その時だった。
ふっと風向きが変わる。
黒煙がゆっくりと横へ流され、これまで覆い隠されていた荷積み場の奥が、少しずつ姿を現していく。
視界が開ける。
そして。
誰かが、小さく息を呑んだ。
「……人だ」
その一言で、全員の視線が煙の切れ間へ吸い寄せられた。
積み荷の陰。
何かが横たわっている。
いや。
倒れているというより――転がっていた。
一人。
二人。
三人。
……四人。
山本の表情から血の気が引く。
「……青木くん?」
返事はない。
あるはずもなかった。
「行こう!」
誰からともなく駆け出す。
軍靴がアスファルトを激しく打ち鳴らした。
しかし。
五歩。
四歩。
三歩。
距離が縮まるにつれ、誰もが足を速めるどころか、逆に鈍らせていく。
見えてしまったのだ。
――異変が。
そして、人間の理性が理解を拒むほどの惨状が。
「……うっ」
誰かが口元を押さえた。
最初に目へ飛び込んできたのは、久米だった。
――いや。
"久米だったもの"……と呼ぶしかない。
おそらく爆発の至近距離にいたのだろう。
全身は爆圧で無残に吹き飛ばされ、肉片と化した身体の残骸が、焼け焦げたアスファルト一面へ飛散している。
千切れたプレートキャリア。
拉げた銃。
焼け溶けて転がるヘルメット。
それらは肉片と見分けがつかないほど黒く煤け、一帯へ無造作に散乱していた。
人だった痕跡だけが、そこに残されている。
それ以外は、何もなかった。
誰一人、言葉を発することができない。
焼け焦げた荷積み場を覆うのは、重苦しい沈黙だけだった。
その視線は、さらに奥へと吸い寄せられる。
――玉城。
彼もまた、すでに絶命していた。
肩口から股間へかけて、身体そのものが乱暴に裂けている。
それは刃物で切断されたような傷ではない。
文字どおり――引き裂かれていた。
筋肉は無残に千切れ、砕けた骨が裂けた肉の隙間から白く覗く。
まるで巨大な怪物が、その身体を力任せに引き裂いたかのような凄惨な有様だった。
「おぇっ……!」
一人が耐え切れず、胃の中身を吐き戻す。
酸っぱい臭いが焦げ臭さに混じり、胃液がアスファルトへ飛び散った。
誰も責めなかった。
責められる者など、この場には一人もいない。
そのすぐ傍らには、青木も倒れていた。
こちらも玉城と同じ――いや、それ以上に酷い。
鎖骨から脇腹へかけて大きく抉り裂かれ、押し広げられた胸郭の隙間から、赤黒い内臓が無造作に零れ落ちている。
すぐそばには、赤黒い血液と体液に塗れた散弾銃。
そして、散乱した未発射のショットシェル。
何者かと交戦したことは、誰の目にも明らかだった。
その傷は、日本刀やナイフで斬られたものとは明らかに違う。
鉈を何倍にも巨大化させたような、分厚く鈍重な刃物で力任せに叩き割ったような裂傷。
断面は潰れ、肉は裂け、骨は砕かれている。
斬ったのではない。
叩き潰すように引き裂かれていた。
「こんなの……」
ルナの声が震える。
「……レヴュラが、やったの?」
——誰も答えられない。
答えられる者がいるはずもなかった。
そして最後。
――相沢。
肩口から腰まで、袈裟懸けに刻まれた巨大な裂傷が走っている。
こちらも切断面は無惨に潰れ、粉砕された骨が裂けた筋肉の奥から露出していた。
あまりにも荒々しい。
あまりにも圧倒的だった。
まるで巨大な鎌を振り下ろし、そのまま肉体ごと叩き割ったかのような傷跡だった。
山本はゆっくりと周囲へ視線を巡らせる。
――煙。
焼け焦げた荷台。
散乱する薬莢。
そして、四人の亡骸。
「……何が、やった?」
誰へ向けた問いでもない。
自分自身へ問い掛けるような呟きだった。
少なくとも、D級のような小型レヴュラではない。
先ほど交戦したティック種でもないだろう。
あの鋭い鉤爪では、人間の身体をここまで――文字どおり破壊することはできない。
ガード種でもない。
ガンナー種でもない。
ボマー種でもない。
誰もが同じ結論へ辿り着いていた。
――ここには、まだ別の"何か"がいる。
物流搬出口を、重苦しい静寂が包み込む。
風だけが黒煙を揺らし、燃え続ける炎が小さく爆ぜる音だけが耳に届いていた。
その時だった。
アリスが、はっと顔を上げる。
「……真」
「ああ……」
二人は同時に煙の向こうへ視線を向けた。
それは、ほとんど直感だった。
――誰かに見られている。
そんな得体の知れない感覚が、背筋をゆっくりと這い上がる。
荷積み場を覆っていた黒煙が、風に押されてゆっくりと流れていく。
そして。
煙の切れ間から、黒い影が姿を現した。
――大きい。
誰もが最初に抱いた感想は、それだけだった。
三階建ての物流建屋を背負ってなお、その存在感は異様なまでに際立っている。
地面を踏みしめるように張り出した四本の脚。
煤を吸い込んだような漆黒の外装。
重厚な外殻には、焼けた鉄を思わせる鈍い光が浮かんでいた。
――そして。
ゆっくりと持ち上がる、左右一対の巨大な鎌。
長く湾曲した刃が黒煙の隙間から姿を覗かせ、鈍色の刃先が炎の明かりを妖しく反射する。
金属同士が擦れ合う、不快な駆動音。
それは悲鳴にも似た響きとなって、静まり返った荷積み場へ広がっていった。
誰一人として動けない。
銃を構えたまま。
呼吸することさえ忘れたように、その巨影を見上げていた。
見たことがない。
こんなレヴュラは。
山本の喉が、ごくりと鳴る。
無意識だった。
「……なんだ」
黒い巨影は動かない。
ただそこに立ち、こちらを見下ろしている。
まるで、獲物が自ら集まってくる瞬間を、最初から知っていたかのように。
山本の唇から、震えるような声が漏れた。
「……なんだ……こいつは?」
今回登場した新たなD級レヴュラ『ティック種』ですが、過去のお話で
噂話程度に出てきてはいます。
壁をよじ登ったりできないとされていたレヴュラの常識をひっくり返す
ティックですが、なぜクオムに直接乗り込んでこないのかは…おいおいと




