ジャージを着た太陽
―家門の表札に『地獄』とある。
―其んな物が目に入った。ほんのりと狂気。
十年くらい経年しているジャージを着て近隣をぷらぷら歩いていると、唐突に現れたのが其れであった。
(ちなみに此のミズノ製品のジャージは休日のたんびに着用している、持っている衣類の中で、いちばんリラックスでき草臥れない、私には魔法の衣である。)
―『地獄』は、随分イビツなレタリングであって、其処がまた怪しい―、まあ素人の自作品だろうが。
明からさまに拙い。
彫刻刀か何かで、カマボコ板みたいな雑駁な木片に彫りこんである。
けれど、わざわざ黒墨で彩色しているわりに、文字と地の境をはみ出したりしている。
其れを、一般的な接着剤みたいなもので石門に貼り付けてあるのだ。
やけに安直な造作である。
―或いは、家屋を囲う様にざんざんと立てたネコ避けのペットボトル―、
水を充してあるのだが、其の水が茶っぽく変色している―、
また藻類に似た、汚ならしい緑色の浮遊物が認められる―、
―、には魔除けを意味していそうな厳しい神札が貼ってあった。
偏執的な勢いで、一本ずつ何れもに貼付してあるのだ。
全体的に、『狂気』という言葉こそ附きづきしい。
されど、無人の家に特有の静謐も同時にある。
矛盾した話だ。
人為の痕跡がこんなにはっきり漂っているのに。
私は静謐を欲していたのだろうか。
一体、ひりひりした静けさに渇いていたのか。
どうしても、其の家に入らなくてはならない、という気持ちがした。支配された、と言って良いくらいだった。
渇望の様な感情。
私は『地獄』家に足を踏み入れた。
磨りガラスを配した日本家屋的な引き戸は、鍵も掛かっていない。
そもそも、ねじ締め錠の様な構造物は粧わされていなかった。
植物的な香りがしていて、誰もいない居間に、円い座卓がちょんと在る。
馬酔木かしら。
懐かしい匂いの気がするが、根源的な納得には至らず、頭の中に汗がさあさあ流れていく様な心持ちがした。
座卓のキラキラ受光する上面には、手垢擦れした大学ノートが置かれている。
其のノートだけが異質と言おうか、周囲の空気にそぐわず、宛ら流水中の石の様で、空間を歪めている気すらした。
私の手は、磁力に吸い寄せられる砂鉄の様に惹かれた。其のノートを繰ってみる。
詩の様な短い文章が始めのページに記されていて、―
私と言う事の、本質が太陽
では私は、太陽を紛失した
医師は白衣を着た猿、私が檻
人々はインターネットの中で、自我を増長させて
―意味を結んでいる様な。いない様な。最初のページの文言は其処で途切れている。次のページをめくってみる。すると此う書いてある。
『 ―家門の表札に『地獄』とある。
―其んな物が目に入った。ほんのりと狂気。
十年くらい経年しているジャージを着て近隣をぷらぷら歩いていると、唐突に現れたのが其れであった。
(ちなみに此のミズノ製品のジャージは― 』
―以下にダラダラと牛の涎めいて続いてゆく文章は、此う閉じられていた。
『 ―私は大学ノートを読んでいる 此処で今 読んでいる 読んでいる私は本当に太陽なのか 存在しているのか 』
―戸外は祝福である様に燦々と晴れているのに、激しく雨の降る音がする。




