1-10 大人のキスが欲しいの
私は、ずっと透君のことを大人だと思っていた。大人だから間違えるはずがないと、もっと言うなら、大人だから間違えてはいけないんだと。だから、間違えたことが許せなかった。だから私を傷つける嘘をつき続けた透君の言葉が、信用できなくなった。
この一年で、気付いたことがある。
透君は休日になれば車で二時間以上かかる道のりをかよって私のところまで来てくれた。
それがどれだけ大変か、実家に帰る度に疲れる私には十分すぎるほどに想像できた。でも透君はそれを大変だと愚痴をこぼすことはなかった。
「俺が来たいから勝手に来ている」
と笑った透君に「ありがとう」とようやく絞り出した一言。来てくれることがうれしいのだとにおわせた一言に、透君がうれしそうに笑顔を返してくれた。
そんな私には出来ない芸当をさらりとやってしまうかと思えば、目玉焼きに何をつけるかとかそんなくだらないことで「絶対に醤油だ」と、言い張ったりする。別に私は醤油を否定しているわけじゃないんだから自分で好きなのつければいいじゃんって言っても、醤油と目玉焼きの相性を延々と語られた日には、うっとうしすぎて、この人馬鹿だと本気で思った。
透君は私よりずっと年上で、やっぱりその差は大きくて、敵わないという気持ちは消えない。でも透君が「近所のお兄ちゃん」じゃない姿を見せるようになって、ようやく見えてきた物がある。
透君は私より大人かもしれない。それはどうしようもない事実だ。でも経験値の違いはあるけど、私とそう大差ないのかもしれない。
透君は大人だ。でも私と同じ人間で。だから、大人だって間違えるんだ。
大人だって判断に迷うし、何がいいのか正しいのか分からないことだってたくさんある。きっと十年先になっても、私が完璧にはなっていないのと同じように。悩むし間違うし、不完全なんだ。十年先でも五十年先でも。大人になるということは、完璧になることじゃないんだ。
私は無意識のうちに、透君に「大人」という幻想を抱いていたのだろう。いつだって私にとって透君は「優しくて完璧な近所のお兄さん」だった。
理性ではそんなこと思ってもいなかった。でも今になって思えば、透君の言ってることは全部正しいと思えていたし、何より感覚的に、そうとしか言いようがなかった。理性とは正反対の無意識の認識。
でも実物の透君は、当たり前だけど思っていたような大人の透君じゃなかった。私の透君の大人像は、アイドルがトイレで大とか小とか用を足しているのを想像できないのに近い物があった。
そういう意味では、いつか透君が言ってたように、実物を知って幻滅するんじゃないかって言う不安は正しかったのだろう。幻滅はしなくても、確かにこの一年でいろいろ衝撃は受けた。新鮮だったし、こんなところがあったんだって知ることは、私にとってとてもうれしくて楽しいことだっただけで、ベクトルが逆だったら透君の不安の通りになっていたんだから。
いいお兄ちゃんをしてた透君じゃない、素に近い透君を知っていくことで、私は、間違えていたんだって気付いた。
許せないだなんて、思い上がりも甚だしかった。だって、きっと透君は、精一杯私のことを考えていてくれた。
今なら、分かる。もし今高校生の男の子が私を好きって言ってきたら? その子を好きだったとして、その気持ちに応えるとか想像したら、相手の未来をつぶしているようにしか思えない。
透君が言ったのはきっとそういうことだったんだ。
だから透君の立場から見たとき、透君の取った行動もまた正しかったのだろう。
私からしたら、あのときの透君のそんな精一杯の思いやりは思い上がりで迷惑でしかなかった。今も思い出すと、気持ちを信用されてなかったような悔しさが広がる。
だから透君の取った行動が正しかったとしても、私には私の正当性がある。
でも仮に透君が間違っていたとして、それを許せないと思ったとして。でも、間違うことは、あるんだ。
許せる許せない、良いとか悪いとかいう問題じゃなくって、間違うことは、誰にだって起こるんだ。精一杯考えたとしても、間違うことはある。正しかったとしても伝わらないこともある。分かっていても受け入れられないことだってある。
きっと、あのときの透君の判断は、仕方なかった。
そんな矛盾にあふれた感情が、急に腑に落ちたとき、許せないと思った気持ちも、信じられないと思っていた気持ちも、急に落ち着いた。
嘘をつかれたことはむかつく。私の苦しみ返せって思う。でも、それはそれでしかなくなった。その時した失敗っていうだけの、過去の一部でしかない。思い出したら腹も立つしねちねち文句を言いたくなるけど、透君は好きだし、信用できる人だって、切り離して考えられるようになった。
そう。透君は、信用できるし、私は、透君が好き。
透君のダメなところをを知っていくことで、ようやく私の気持ちは落ち着くべきところに落ち着いた。
私は透君が好き。
きっとそれは、ずっと変わってなくて。
でも私は、ほんの少しだけ大人になって、大人だって間違いながらあがいてがんばっているんだって知って、だから悔しくても許すことをほんの少し覚えて、納得できなくても許容することをほんの少し覚えた。大人は自分のことをちゃんと分かるべきだってきっと思ってたけど、分からないことだってあるし分かっていても応えられないことがあるって知った。
ほんの少し大人になった分だけ、きっと私は少し変わったと思う。
一年ものあいだ透君を待たせたけれど、それは無駄じゃなかったと思う。同じぐらい、透君に突き放された三年間も。
入社式のこの日、私は社会人になった区切りとして、透君の気持ちに応えることにした。
驚かせたくて、いろいろ内緒にしたりこそこそしたせいで、透君にとんでもない思い違いをさせることになったけど。
結果オーライって事で、いいかな。いいよね。
透君、ごめんね。
だいぶ大人になったつもりだけれど、まだまだ失敗はつきもので、そして許してくれる透君に甘えている。
「私が笑顔でいられるように、……透君、してね?」
そんな甘えを、透君が抱きしめることで許してくれる。
これから、透君と恋人としての関係が始まる。
私は透君が好きで、透君も私のことを好き。信頼もしている。それはいっぱい感じさせてくれた。でも不安にならないわけじゃない。
でも、透君が教えてくれた。そういうのは、一緒にいることで補っていくものなんだって。そばにいて、言葉を交わして、信頼を見せて、伝えられて、お互いを知っていって、そうやって補っていくもんなんだって。そしてきっとそれは一方通行じゃ駄目で。今まではずっと透君がそうやって与え続けてくれていた。
でも、きっとこれからはそれだけじゃ駄目なんだ。
「透君、大好き」
私を抱きしめる透君にしがみついて、精一杯の気持ちを込めてつぶやけば、透君も「俺も好きだよ」と応えてくれる。
「ほんとに?」
「ほんとに」
私の首のあたりに顔を埋めた透君が、クスリと笑った。
それがくすぐったくて心地よい。
完璧な大人なんていないから。私のことを透君が包み込んでく待っててくれたみたいに、私もきっと透君の支えになれるようになるから。甘えるばっかりの子供じゃなくなるから。お互いを補い合える人になりたいから。
そう思えるようになった分だけ、きっと私は大人になったよ。
「私、子供じゃなくなったよ」
そう宣言するからには、私は与えられるだけの子供でいるわけにはいかないから。
すぐそばにあるその顔を上げさせてみれば、不思議そうに透君が私を見つめ返してくる。そして私は透君に触れるだけのキスをする。
透君が驚いた顔をした。
「恋人なんだから、当然なんでしょ?」
「そうだな、当然だ」
透君が楽しそうに笑って、触れるだけのキスを返してくる。何度も何度も、どちらからともなく、触れるだけのキスを繰り返す。
ねえ、透君。いっぱいキスをして。
いっぱいいっぱい触れあって、これが本当だって信じさせて。透君が私を好きだって、信じさせて。
深く求め合っているって思わせて。
触れるだけじゃ物足りない。ねえ透君、教えて。大人のキスが欲しいの。




