見えない敵との戦い 一
2026年5月3日
ご飯を食べていると二階から「ままままま」と聞こえてきた。
「ままままま」
「今日もよく聞こえますね」
「今日は元気です」
「あれはなんですか?」
「あれはままままま」
「お醤油をとってください」
「目玉焼きにはお醤油派ですか。僕は塩です」
「それは十代のころの僕の趣味ですね」
「お若いころにこの味を嗜んでいたんですか?いいセンスしてますね」
「一時期はソースも愛好していました。しかしあの甘さが僕には続けられない苦痛になってしまったんです」
「それはお気の毒ですね」
「はい。おかげで醤油に目覚めることができました」
しばし談笑を続けていると、玄関から騒がしい話声が聞こえてきた。
「新聞いかがですか?」
「今日はもう新聞を受け取りました。預かることならできますよ」
「なら20部受け取ってもらえますか?」
「そのような数字はもったいない。50部持ってきてください」
「そんなにいいんですか?じゃあ明日の朝刊も持ってきますね」
「もう用意してあるんですか」
「そうなんですよ。ちょっと持ってきます」
若い青年はそういって表へ出て行った。
からからから。
玄関から家の主人が居間に入ってきた。
「おかえりなさい。随分話をしていたようですね。大きな話し声でした」
「よく通る声の女性でしたね」
「そうですか。僕はただ話を聞いていただけです。お隣の奥さんが人手が足りなくてここの若い衆を一人借りられませんか?と言われていましたよ。だれか用のあるものいますか?そうでもなければ手伝ってあげたらいい」
「いやぁ。僕はちょっと無理かな。このあと新聞配達があります」
「それでは僕がお邪魔しましょう。なにかおもしろい話があるかもしれない」
「君はそうやって人から聞いた話をすぐに人に広めるから本当に心に思っていることを言ってもらえないんです」
「ははは。何でもかんでも話す人なんて僕からすれば果たして価値のある情報なのかと疑いますよ」
「人の価値はそれぞれです。君のその意見は僕は心からの言葉と受け取りましょう」
「いやいや。そんなことはないです」
「新聞がまだ来ませんね」
「では、仕事に行ってきます。今晩は六時前に帰ってくる予定です」
「そうですか。行ってらっしゃい」
朝の八時の鐘が鳴る。
玄関先を見ると新聞が50部届けられていた。
「おや、多すぎる。まあいい。誰か取っていくでしょう」
主人は居間に向かって歩きながら新聞の見出しにさらっと目を通した。
「主人、何かおもしろいことが書いてありそうですか?」
「まずまずですね。私は新聞の記事そのものより広告を楽しむ方です」
「何かおもしろい広告はあるんですかね。僕はその見出しに書いてある汚職事件が気になるんで是非読ませていただきたいです」
「はいはい。先にお読みなさい。私は散歩に行ってきます」
主人は雪駄を履くとそのまま外に出向いていった。
主人には夏でもマフラーを外さない癖があった。この時の季節は梅雨前。少し肌寒い日だった。主人は夏でもマフラーを外せないことに多少の不便はあっても、さして困らないという風だった。困るのは人目だけだった。
とある辻に差し掛かると主人は声をかけられた。
「お散歩ですか?今日あなたに会える日だと思っていました」
「変なことをしないでください。明日の朝刊を置くなんてこと」
主人は構わずそのまま歩いた。声をかけてきた男はそのままその場で話す。
「おもしろい話だったんでそのようにしました」
主人は立ち止まり男を見た。
「まあひどいパロディです。本当に明日配るものですよね」
「ええ。一週間先まであるんです。どう売りさばくか困ってますよ」
主人は散歩を諦めてたばこに火をつけた。
「前にもありましたね。前日の新聞はおろか先の新聞まで用意してある。あれは解決した話です」
「そうです。その節はありがとうございました」
「僕のところにこうやって来るということは」
「いや、もう終わっています。あなたにやってもらいたいのは影の行方です」
「僕のところに来るときは面倒な話の時ばかりですね」
「取引先から十分頂いてますから。お金の心配はしないでください」
男は息を吐いて主人に近づいた。
「よろしければ私にもたばこをくださいませんか?」
主人は懐から紙巻のたばこを取り出すと相手に差し出した。そのままマッチで男に渡したたばこに火をつけると男はたばこを吸いだした。
「この街はどんどん変化します。見逃すところが多い」
「では僕は家に帰ります」
「報告待ってます」
主人が家に帰ると玄関先にあったはずの朝刊がすべて無くなっていた。
「ただいま。おや。眠ってしまっていますね」
新聞を読んでいたであろう姿勢のまま先ほどまで居間で話していた男が眠っている。この男は麻木という名前である。主人の家に居候するようになった、とある事件から知り合った男である。
「麻木君、ここで眠っていたらいけませんよ」
机に手を突き新聞を読んだ姿勢のまま目をつぶっている麻木は起きる気配がない。
「うん。おかしいな」
そう思い主人は開かれた新聞の見出しを見た。しかし主人が見つけたいものはそこにはない。もしやと思い手をついている麻木の手をずらした。
「あった。“待つ”。『夏を待つ風鈴の棚』。藤棚の軒先に風鈴を飾ったという記事ですね」
麻木は少年時代に誘拐された経歴を持つ男だった。主人のところに来るようになってもう5年の歳月が経つ。
「書物を読ませないというのはできない。なかなか困った癖になってます」
麻木をそのままにし、主人は書斎に戻った。書斎には主人の仕事用の机が置かれている。その上に先の予定が書いてある。今日の予定は本を書くとある。この本というのは計画書である。依頼される計画書はいつも一癖ある。今回は盗みに入るための計画書だった。この計画書の出来で各々の仕事の分担が決まる。悩ましいところである。ちなみに主人は盗みに参加することはない。
「今日は急な依頼もある。この計画書のための資料も読まないといけないな」
主人は影の調査の依頼の方が気になっていた。
主人は懐から50部の新聞の間に挟まっていた封筒を開いた。封筒には数枚の紙とコインが一枚入っていた。コインにはLという文字が刻まれていた。
封筒に入っていた資料に目を通すと “影は一週間前の出来事をすべて予言することができる” というものだった。そんなわけがない。それにはトリックが必ずある。この影は首謀者である。新聞社を乗っ取っていた “影“ に支配されていた人物は捕まえることができたと書いてある。意味があるがこれに意味はない。結局影は逃げたまま。この影による犯罪は日に日に目に見えてくるようになっていた。
「影は境橋で見かけたのを最後に目撃されていない、か」
一通り資料に目を通すと主人はたばこに火をつけた。時計を見ると一時間の時が過ぎていた。
「そうか。予定の計画書に手をつけたあと、境橋に麻木君を連れて見に行くとするか」
その後昼食をはさみ、そのころには起きていた麻木に仕事の依頼として仕事についてくることを約束させ、予定の計画書を練ることをした。時刻は16時過ぎになっていた。
「さて麻木君。出かけます。遅くなりましたね」
「そんなことはないですよ」
ソファーに座っている麻木はスーツ姿になっている。
「準備はできてますね?」
「いつもの通りです」
「ではいきますか」
「僕から言わせたら先生の和装の方が動きづらいと思います」
「まあまあ」
玄関から出ると隣の家から帰ってきた男が歩いてくるのが見えた。
やや人に対して疑い深いところがあるこの男は山崎という中背中肉の男だった。
「あれ、お出かけですか?」
「お帰りなさい。そうなんですよ。山崎君はどうでした?」
「僕?隣の奥さんからなに頼まれるのかなと思ったらお歌の出来栄えを見てほしいってことでした」
「それはよかったですね」
「重たいもの持つことになるのかなって思っていったら三味線が出てきたんで俺でいいんですかって」
「先生のイタズラですか?」
「いや、私の時はそんな感じではなかったです。山崎君が来たからでしょう。山崎君はそういうものの評価をきちんとしますから」
「奥さんの歌を聴いたあと、なんか困ってないですかって聞いたら箪笥をそういえば動かしたいって話になりました。箪笥の後ろにお人形の毬が落ちてしまっていたんですよ。重たい箪笥をお歌を聞かせてもらったお礼に動かして毬を取りました。そのあと納屋にしまっている蚊帳がどう頑張っても取り出せないからとってほしかったことを思い出されてましたね」
「そうですか。私たちはこのあと予定があるのでまた戻ったらお話聞きますよ」
主人と麻木は山崎と別れると境橋に向かって歩き出した。
「僕は先生がわざと奥さんに彼を会わせたと思いました」
「そんなことはないですよ。彼の興味が人の話を聞くことだったからそうなったんでしょう」
境橋は主人の家から東に向かった先にある小さな橋だった。人通りもなく、ややうらびれているような趣だった。
「先生、この橋です?」
「そうです。ここで目撃されたんです」
「ふーん。他の橋と変わったところは…僕にはわからないな」
「ははは。僕もこの橋そのものに意味があるとは思えません。探し物をしましょう」
「いてっ」
「どうしました?」
「なにか頭を叩かれたような痛みが」
「どこにもぶつけてませんか?」
「なにもないです。うん」
夕暮れ前の日が傾きかけた小さな橋の上には主人と麻木の二人以外には誰もいない。
「麻木君に小石をぶつけるやつがいるとは思えない」
「居たら捕まえます。全力で」
「ははは。うん。ありましたよ。見てください。ここ」
「なんですか?」
麻木が主人に促されて見た先には小さな三角の印があった。
この世界には影という謎の存在がいる。影とは力の破片というのが主人が探索する区域での常識だった。まだ影は調査の段階で、本当の正体や作用についてはわかっていない。影の処理は保存をするということしかやってはいけないことだった。
影の影響を受けたものは影に触れることができる。
「じゃあ麻木君。よろしくお願いします」
「触りますよ?」
「はい」
麻木は懐から皮の手袋を取り出すと手にはめ、三角の印に触る。
主人の背筋にぞわっという感覚がくる。印の周りから周囲が暗くなっていく。麻木は主人のそばに来て構えた。三角の印から一筋の煙のような黒い影が出てきて揺れ動く二つの光が目の様に瞬きをする。
「ここじゃ狭いから動きやすいところ連れていきますね」
「はい」
麻木はいうや影を掴んで走り出した。
「あんまり遠くには行かないでください。僕はそんなに走れません」
「橋の先の坂道の先が小さな公園になってます」
「ちょうどいいぐらいですね」
影が出るところというのは自然に人気がなくなる。そういう場所を影が好むのもあるかもしれない。
主人が公園にたどり着くと麻木が丸く小さくうずくまるようになっている影を踏みつけていた。
「ご苦労様です」
「ほぼ弱体化してます。これだったら僕たちにもできるっていうことだったんですかね」
「どうですかね。これはエサかも知れません」
「それは嫌ですね」
主人は麻木が踏みつけている影に封筒から取り出したコインを投げた。
どんどん小さくなる影に麻木は踏むのをやめる。
「これはいつも思うんですけど、なんでコインなんですか?」
「さあ。これを作ったものの趣味じゃないですか?と言いたいところですがこれはこういうやつだからです。人が求めるものに反応しています。長期保存をしたいのでこのコインです」
「ふーん」
「こう見えてこのコインの材質は銀です。純銀。人が価値を見出しています。それに引き寄せられてここに留まっていてくれるんです」
「じゃあもし影を集めたかったら」
「もっと価値があるもの。金だったらそっちに行くかもしれませんね」
完全にコインに影が吸い込まれると麻木は手袋を外した。主人はコインを拾い上げると封筒にしまい込んだ。
「もう出てこないんですか?コインから」
「まあ。僕の扱い方は乱暴ですよね。馴染みがいいから大丈夫でしょ」
主人は苦笑いして懐にコインをしまった。麻木は手袋を外した手を見る。
「手袋してても手が赤くなりますね」
「噛まれましたか?」
「噛まれるというか影を掴んでいた部分が赤い」
「なにかいいものを買って帰りましょう。このコインを納めたらお給料が出ます。おそらくこれは仲介者の向こうにいる者が観察するためによこした仕掛けですから。それなりにいい金額が出ると思いますよ?」
「やっかいな人だったら嫌だな」
「私の顧客になる人だったらまあ厄介でも後腐れはないはずです」
「うん」
家に帰る道中で朝会った男に再び出会うとコインを引き渡した。
引き換えにもらった封筒に入っていた札束を数えると主人は半分を麻木に渡して少し賑やかな街に寄り道するとすぐに家に帰った。
家に近づくと再び朝聞こえたものが聞こえてきた。
「ままままま」
「まだやってますか?」
主人は隣の二階に向かって声をかけた。
「あ、おかえりなさーい!」
元気そうな男が二階の窓から顔を出した。
「いつも歌ってますけど、僕から言わせると歌えてませんよ?今日も朝から元気ですけど」
「いや、僕の歌は」
「はい」
「あー、先生!今日お饅頭もらってきたんですけどいりますか?」
「帰りましょう」
「すぐに持ってきます!」
「中杉さんはいつもこんな感じですよね」
「そうですね。疲れたし帰ってゆっくりしましょう」
主人と麻木が家に入ると隣の家から包みを持った中杉が主人の宅の玄関を元気に開けて中に入っていった。




