終
さて幾らか蛇足である。
枰四娘が太子を怒らせた原因は、まったくあほらしい発言だった。朱家は知的障碍者の家系であり、郡主もそうだろうから、今のうちに太子妃を辞めさせて郡主も殺してしまったほうがいいといったそうだ。当時の枰家としては、至極当然の発言だった。
太子は怒って枰四娘を平手で叩き、郡主がどのような子であっても、折角生まれてきたものをむざむざ殺すなどあり得ぬ、といった。
太子の反応が思ったものと違い、枰四娘は混乱して泣き、なおも、自分なら賢い子を産めるとか、そのようなことを喚いた。太子は呆れ果て、今すぐ出て行けと命じた。良娣を辞めさせるとも発言したというが、これについては史料によって異同があり、はっきりしない。
太子はその後、檗にその出来事を喚き散らし、太子妃の耳にはいらぬようにと厳しくいいつけた。それで檗は、怒りのあまり頭痛を起こして横になった太子を放って、その場に居た宮官宦官を集め、口外せぬようにといいふくめた。枰良娣の殿にも遣いをやって、口外せぬように伝えよとそちらの宦官へ報せたり、檗はその晩、ほとんど横になどなれなかった。それで寝不足だったそうで、檗は事件の日、やたらと欠伸をしていたそうだ。
ふたつ目の噂について、太子は即座に事実無根と断じたが、それには理由がある。五友公主は生まれついて、難聴であった。相手がなにを喋っているのかは、唇を読んで、ほとんど把握していた。史料によっては、片耳だけ聴こえなかったとするものもあるが、耳に障碍があったのは間違いない。母達が教えたので、会話もできたが、不明瞭な発音であった(『棠集要』にだけは健常者同様の発音だったとあるが、『棠集要』にだけ、というのは考慮すべきであろう)。
五友公主はそれでも、健常者と同じように過ごしていた。枰家も棗家も、幾度か拝謁賜ったことがあるというのに、その障碍に気付いてもいなかった。枰家も棗家も、目も耳も不自由などないだろうにと、桍穿耳達は呆れた。
太子妃は廃してほしいと聖上へ願い出たが、聖上はそれを聴かなかった。ただ郡主を傷付けようとしたのは事実であるので、それから二年間、太子妃は公式の場に出なかった。また太子も聖上に咎められた。太子妃を冷遇したとして、なんと、道路整備の罰をうけている。ほんの短い期間だが、大変な屈辱であるそれを太子は受け容れ、まっとうした。
朱蒼児は、体調が回復してからは、軍袍を縫う仕事を与えられた。九枚の軍袍を縫い上げ、罪を贖ったとして、それからは公式の場にも戻ったという。
太子・晌はその後、朱蒼児を愛し、子を愛し、生涯下妻を持たなかった。太子は豊絮元年、天候不順からの不作を察し、国庫から米・麦を放出すること、雑穀を今からでも蒔くこと、税の徴収をしばらく猶予することを上書し、それが功を奏して、死者は百人単位で収まったと伝わる。
朱蒼児は後、男児を数人産んでいるが、ひとりが疱瘡で片目を失った。怪我だった(『棠集要』)とも、火傷だった(『鵄尾子』)とも伝わる。それでも、父母が優しく、祖父母もそれを気にせず、桍穿耳達にも可愛がられて、拗けたところのない子に育ったという。これが後の寿王・星環で、『国鑑』の編纂をした大人物であった。肖像画でも失った片目を隠しておらず、当人も時折冗談の種にしていたというから、育った環境がよかったことを感じさせる。
椿家、朱家は、ともに繁栄を続けた。
椿家についての筆者の考えは、想像の域を出るものではない。もしかすると、他家が椿家の出世を阻む目的でしていたことかもしれない。ひとついえるのは、それからも椿家には、素行の悪い者はめったにあらわれず、あらわれたとしても推挙さえしてもらえず、家門から追い出されているということだ。行方不明でも、うっかりの末の死でもなく。
もし、筆者の想像が正しかったのなら、椿家はこの辺りで、殺すよりも家から完全に追い出し、問題を起こしてもうちは関わりないとやるほうが手間暇がかからないと気付いたのだろう。筆者の想像が外れているのなら、単にこの時期から、素行の悪い男児を懲らしめる方向へ傾いたいうことだ。追い出された男児はさほど多くないが、その半分ほどは反省して戻り、以降大人しくなった。
朱蒼児の兄は一時、都を遠くはなれた地へ赴任したが、そこで土地の庶人の娘を娶り、妻と子ども数人をつれて、数年後に都へ戻った。その後も暢気で平和な生涯を歩んでいる。
桍穿耳の母は時折掖庭へ野菜を持ってきては、桍穿耳と話していたが、柳緑黛、それに椿糈玉も話すことが増えた。また、罪を贖って後の朱蒼児とも会い、労られて喜んだとも伝わる。
柳緑黛の実家とされる柳家は、柳緑黛の権勢を恃んで出世することはできなかったものの、この数年後に進士を出した。それを皮切りに明算科数十人、進士数人を輩出、一躍名門として都で大きな顔をしていたが、柳緑黛には一度も顧みられなかった。
柳家も皇后にこっぴどくやられていたからか、それ以上柳緑黛に接触しようとは考えなかったようである。また聖上も、柳緑黛の実家だからといって、柳家を優遇することはなかった。
なお、『棠書』の著者である柳貢とは同姓であるが、まったくの無関係である。柳緑黛の実家とされる柳家は代々都住まいの一族、柳貢は洪州の柳家だ。ただし、柳貢自身は柳緑黛と同じ柳姓であることを誇っていたそうで、『棠書』の端々にもそれは見られる。
檗は後に、宦官でありながら北軍指揮権を与えられそうになったが、叩頭して辞した。宦官に軍を掌握させることの危険性を説き、社稷にその名を知らしめたが、さてこれは檗当人だけの考えであろうか。その後、檗の助言に添って、宦官は出世しても三品まで、軍は決して掌握できぬと決まったが、その動きは実に迅速であった。太子、もしくは聖上との狂言で、檗がわざと断り、口幅ったいことを云ったのではなかろうかと、筆者は考える。それとも単に、軍の仕事のうまみが少なく、金にならんと思ったのを覆い隠して、それらしいことをいったのであろうか。
その後も檗はかわらず、時折太子と起き臥しをともにしていたものの、分桃の関係であったかはわからない。或いは、生真面目で杓子定規な太子を、弟のように思っていただけかもしれない。ただ、晌が家族のほかで一番信頼していたのは誰あろう檗であり、檗も生涯その信頼に応えた。勿論、生涯金をためこむことは辞めなかった。
榎某は除籍され、さる地方刺史へ嫁いだ。夫婦仲はよく、子宝にも恵まれた。
末宮官は、その兄を犯罪に加担させた輩が捕まり、それらは皆、黥面して配流となった。また、そいつらに協力して、末の兄が主犯であるようにいったさる家の奴僕も、鉄鞭で打たれた。
末と母は官婢から除籍され、どちらも道観へはいった。その後の消息は不明である。
これでこの小説は終わりだが、最後に『棠集要』の、この事件に関する記述をのせてみよう。著者・棷永丁はこの事件にさほど興味を持てなかったか、その記述は実に淡泊であるが、ほかの史書にはのっていない一文がある。
「鵠華五年春、郡主霓児が官婢らに襲われた。命じたのは棗家だった。同日火事が起こり、枰良娣の差し金であった。両家は戸絶となった。関わった原王は流された。犯人をつきとめた桍充媛に、天子は甘藷の蜜を三斛下賜した。」
きっとその蜜は、柳緑黛、椿糈玉と三等分したのではないかと、筆者は想像するのである。




