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雪と影の執行記録 ~不要と言われた補佐官と、孤独な執行官~  作者: 散り桜


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第一章 閑話一:雪月、東雲への印象

 数日前、教育課程を修了した私は、国防軍諜報部執行課特務室への配属を命じられた。適性試験の結果により、私は諜報技能に向いていると判断され、執行課教育部へ進むこととなった。


 執行課は、国内外を問わず諜報・防諜任務を担う諜報部の中でも、特に「実行力」に優れた部署だと聞いている。そんな場所で本当に自分がやっていけるのか、不安は尽きなかった。けれど、まだ何も始まっていない。私は今、人生で関わることはないとさえ思っていた世界に、確かに足を踏み入れたのだ。


 教育は想像以上に過酷だった。戦略・戦術の知見から戦闘技術、追跡技能、さらには各種兵器やガジェットの取り扱いまで、多岐にわたる訓練を限られた期間で修得しなければならなかった。私は同期の中で常にトップの成績を維持していたが、教官は言う。「諜報の現場では、テストの点など意味をなさない。本当に必要なのは、それをどう応用するかだ」と。


 正攻法は、最も効率的だ。だがそれは、相手も熟知している。我々に求められるのは、「正当」ではなく、「不当」な手段だ。戦いを挑むのではなく、気配を消して背後に回り、静かに相手を排除する──それが、私たちの職務。誰にも気づかれず、誰にも知られずに。


 訓練中に一度だけ、教官に呼び止められたことがある。成績は申し分ない、しかし何かが足りないと言われた。何が、と聞いたら、「判断の速さではなく、判断の重さだ」と返ってきた。その意味が、今もまだ完全にはわからない。でも、現場に出れば少しずつわかってくるのだろうと、そう思うことにした。


 配属後の私は、先任たちの業務を手伝いながら、正式な補佐官任官の日を待っていた。雑務といっても侮れない。書類の整理、情報の仕分け、暗号通信の補助。どれも地味だが、諜報部という組織がいかに精緻に動いているかを肌で感じる日々だった。私が任命される予定の執行官は現在任務中とのことで、帰還後に任命が下るとの話だった。


 それから三ヶ月ほど経ったある日、私は神代課長に呼び出された。課長とは何度か顔を合わせたことがあったが、過去に数多の任務をこなしてきたとは思えないほど若々しい印象を持っている。正直に言って、羨ましい。女性なら誰もがそう感じるだろう。課長室に通されると、いつものように整然とした机と、穏やかだが隙のない目があった。そして、部屋の中にもう一人、見知らぬ男性がいた。


 そして私は、東雲しののめ 逢凰あお執行官の補佐官として任命された。彼の容姿は黒髪に黒い瞳、そして少しアレンジされた国防軍の制服。事前に資料でその姿や性格について目を通していたので、驚きはなかった。彼が「補佐官を必要としていない」と明記されていたことも含めて。資料には、過去の任務記録のほとんどが黒塗りされていた。読める部分は少ない。それでも、結果だけは残っていた。すべて、成功。例外なく。


 彼の目に、私はどう映っているのだろう。室内に入ったとき、一瞬だけ視線がこちらをかすめた。その目は、見知らぬ者に向ける警戒の色を帯びていた。だが今は違う。ただ、静かに観察している。まるで、頭の先からつま先まで、隅々まで見透かされているような感覚だった。


 だがその瞳に、下心のようなものは一切なかった。ただ職務のために必要な情報を見極めているだけ。そう理解はしていても、抵抗もせずにじっと見られるというのは、やはり恥ずかしい。


 そんなことを考えていた矢先、彼と目が合った──瞬間、先ほどまで感じていた視線の圧はすべて霧のように消えていた。目が合ったのは一瞬で、次の瞬間には東雲さんの視線は既に別の場所へ移っていた。それに気づいたのか、神代課長が私に挨拶を促す。


雪月ゆきづき なぎです。三ヶ月前に教育課程を修了し、こちらに配属されました。よろしくお願いいたします」


 ……東雲さんの表情は変わらない。何を考えているのかまるで読み取れず、不安になる。挨拶に問題があったのだろうか? いや、これは普通の自己紹介のはずだ。たぶん、大丈夫。きっと……。


 その後、東雲さんは神代課長から指令を受けた。内容は隠密に任務を遂行するように、とのこと。ごく当然のことではあるが、私はついその言葉の意味を噛み砕こうとしてしまった。隠密とはどの程度か。どこまでが許容されるのか。考え込んでしまい、私は遅れて部屋を後にした。


 本部の通路を並んで歩くこと数分。もうすぐ建物の外に出ようかという頃合いだった。ここまで、彼から一言も言葉がない。まさか、私の存在を忘れているのでは……?


 そんな不安が頭をよぎり、思わず声をかけた。


「東雲執行官、私は……何をすればいいでしょうか?」


 彼はぴたりと立ち止まり、少し考え込んだ。私は固まるようにその場で待つ。やがて彼は、短く答えた。


「……現場に行く。ついてこい。それと、"執行官"はやめてくれ」


 その言葉に一瞬戸惑いながらも、指示に従う。


「……了解しました、東雲さん」


 無難な呼び方だろう。事前に聞かされていた人物像──冷酷で非情な執行官という印象とは、目の前の東雲さんはずいぶん異なっている。どこか不器用で、少し不愛想な兄のような雰囲気すらある。少なくとも、初対面でここまで怖いと感じない人だとは思っていなかった。


 けれど神代課長は「彼は優秀だ」と言っていた──つまり、信頼されているということ。冷酷で非情という先入観は、すでに少し崩れていた。不器用で、不愛想で、でもどこか誠実な人。まだほんの数分しか一緒にいないのに、そう感じているのは何故だろう。私の中で、彼の印象は少しずつ形を変えながら、その背中を追い始めた。外はまだ暗かった。けれど、東の空がほんのりと白み始めているのが、ガラス越しに見えた。日が昇れば、任務が始まる。そう思うと、不思議と気持ちが引き締まった。

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